彦根歴史研究の部屋

彦根や井伊家の歴史について、これまで発表してきた私見の紹介・補足説明・修正など。

井伊直政

井伊直政の菩提所 その6 護国殿

江戸時代後期になると、新たに井伊直政らを祀る施設が彦根に建てられた。彦根藩によって清凉寺の境内に建てられた護国殿である。文化8年(1811)に完成した。 ここで祀っているのは直政だけではない。中央に徳川家康の神牌が祀られ、その左に直政、右に直孝…

井伊直政の菩提所 その5 井伊谷・龍潭寺

井伊氏の出身地にある井伊谷(静岡県浜松市北区)にある龍潭寺は、戦国時代の井伊氏によって建てられた菩提寺である。龍潭寺という名は、桶狭間で討ち死にした当主井伊直盛の院号に由来する。 井伊谷龍潭寺 境内の一角に、「井伊氏歴代墓所」が築かれており…

井伊直政の菩提所 その4 彦根・清凉寺

直政の菩提寺として彦根藩によって建てられたのが清凉寺。 城が彦根に移された後、城下町やその周辺を整備した中で、城の北東方向、佐和山の麓に藩祖直政の菩提寺として築いた。寺院の名称は、直政の法号である祥寿院殿清凉泰安居士による。 清凉寺の開山は…

井伊直政の菩提所 その3 京都・六波羅蜜寺

六波羅蜜寺といえば、京都・東山にあり、空也上人や平清盛の像といった鎌倉時代を代表する有名な彫刻があることでも知られている。通常、これらは同寺内にある宝物館で拝観することができる。実は、宝物館では清盛像に並んで、井伊直政の彫像が置かれている…

井伊直政の菩提所 その2 高野山奥の院

高野山の奥の院、一の橋から弘法大師の御廟までの参道の両側には、戦国武将や大名の墓が多く建てられていることはよく知られている。 その中に井伊直政のものもある。御廟に向かう奥の院参道の左側、参道から少し奥に入ったところに、井伊家の墓所が2か所あ…

井伊直政の菩提所 その1 長松院

戦国武将や江戸時代の大名は、菩提寺のほかにも、ゆかりの地に廟所・供養塔が造られたり、位牌が置かれて供養されていることがあります。井伊直政の場合も墓所のある清凉寺のほかにゆかりの菩提所がいくつかありますので、それぞれを紹介していきます。 まず…

史料に登場する井伊直政の足跡 第8回藤森の警固

実際に交戦のあった戦いでは、それぞれの部隊がどのような規模でどのような動きをしたのかといったことはよく紹介されているが、実戦にはいたらなくとも、軍事部隊が出動する機会は多くあった。規模の大小はあれ、日常的にも城の入り口や領地の境界、交通の…

史料に登場する井伊直政の足跡 第7回岐阜城攻め

”天下分け目”の関ヶ原合戦(慶長5年9月15日の関ヶ原での戦いだけでなく、同年7月の石田三成挙兵から講和成立まで)の中で、東軍(徳川勢と親徳川の豊臣諸将)が岐阜城を1日で落城させたことが、その後の戦況に大きく影響したことはよく知られている。 今回…

史料に登場する井伊直政の足跡 第6回長久手古戦場

前回より時代は遡りますが、天正12年(1584)、直政が侍大将となって初めての大きな戦い、長久手合戦での井伊隊の動きを探ります。 小牧・長久手の戦いで、井伊直政は徳川家康の旗本隊の先鋒として布陣していた。家康は小牧山城に入っていたが、秀吉方の別働…

史料に登場する井伊直政の足跡 第5回小田原の陣唯一の戦闘地「篠曲輪」

前回から随分時間が経ってしまいましたが、引き続き、小田原の陣での井伊隊の動向について。 天正18年(1590)の小田原の陣。 豊臣政権によって動員された諸大名は小田原城を囲んだが、徳川勢は城の東、山王川と酒匂川の間に陣を敷いた。家康の陣は海岸から…

史料に登場する井伊直政の足跡 第4回小田原への道「箱根から宮城野」

天正18年(1590)、豊臣政権は臣従した諸大名に小田原への出陣を命じ、強大な軍事力で小田原城を取り囲んで北条氏を滅ぼした。 このとき、徳川家康にも出陣が命じられ、井伊直政も部隊を率いて出陣した。徳川勢は駿府から東海道を東に向かい、長久保城(静岡県…

史料に登場する井伊直政の足跡 第3回井伊隊はじめての出陣「高遠口」

久しぶりの更新となります。「史料に登場する井伊直政の足跡」第3弾です。 今回は、井伊隊がはじめて家康から出陣を命じられた「高遠口」の地を探します。 天正11年(1583)正月12日付で、徳川家康から井伊直政へ宛てた直筆書状が残っている。そこには「急ぎ…

史料に登場する井伊直政の足跡 第2回直政初陣の地「芝原」

「史料に登場する井伊直政の足跡」第2弾です。 今回は、直政初陣の「芝原合戦」の地を探します。 直政の初陣は、天正4年(1576)のことで、芝原合戦とされているのは『井伊直政 家康筆頭家臣の軌跡』でも触れた。 「井伊家伝記」や「井伊年譜」には、芝原…

史料に登場する井伊直政の足跡 第1回「大鳥居土佐屋敷」を探す

井伊直政の事績を調べ、いつどこにいたのかという行動ルートを史料から追っていったところ、すぐに判明したこともありますが、場所が特定しづらい場合もありました。場所がわかっても、なぜこの場所なのか? と考えが広がることもあります。そういった場合、…

『黒田家文書』との出会い

井伊直政といえば、従来、「徳川四天王」や、「井伊の赤備え」というキーワードが示されていたように、徳川家康の重臣の一人としては認識されていましたが、活躍した場面は関ヶ原合戦や小牧長久手の合戦など、戦場で活躍した人物と思われていました。 それに…

「小山評定」は2度あった!

「小山評定」といえば、関ヶ原の合戦の直前、会津の上杉氏へ兵を向けていた徳川家康や豊臣恩顧の諸将らが小山(栃木県小山市)に進軍したところで、上方で石田三成が挙兵したことを聞き、引き返して石田方へ兵を向けることを決めた軍議として知られています。…

真田昌幸の助命~井伊直政の交渉術~

関ヶ原合戦で徳川家康をもっとも苦しめたといえるのが真田昌幸。戦後、家康は昌幸を生かしておくつもりはありませんでしたが、井伊直政の交渉術によって昌幸の命は助けられたと伝わります。 ここでは、その話を記す史料を紹介します。 この話は、真田家文書…

井伊直政の肖像画あれこれ

写真のなかった時代の人物は、肖像画が残っているとどんな人だったのかイメージしやすいものです。でも何種類もあると、どれが本人に近いのだろう?と思いますよね。 井伊直政の肖像画は数種類残っています。よく使われているのは、『井伊直政 家康筆頭家臣…

井伊直政が家康家臣となった際の逸話について(推論)

『井伊直政 家康筆頭家臣への軌跡』を刊行したことで、いくつか取材を受けました。その中で聞かれたことで、著書の中に記していなかったことをここで記しておきます。 井伊直政が家康の鷹狩の際に偶然対面して家臣となったという逸話について。 直政が家康に…

井伊直政 はじめての大仕事

直政が実績を残した最初の大仕事は何でしょうか? それは、天正10年(1582)8月から10月にかけて甲斐国で北条氏と戦い、旧武田領を手に入れた「天正壬午の乱」と断言できます。 この年の3月に武田氏は滅亡し、旧武田領は織田信長の支配下となりますが、6月の…

井伊直政はなぜ徳川家康の筆頭家臣に昇り詰めたのか?

『井伊直政 家康筆頭家臣への軌跡』のテーマは、 井伊直政はなぜ徳川家康の筆頭家臣に取り立てられたのか? という理由を探ることでした。 結論だけを言ってしまえば、 名門の出自+外交交渉能力 この2つが直政を家康筆頭家臣にしたと考えられます。 まず出…

井伊直政が松下家の養子となった理由

大河ドラマ「おんな城主 直虎」では、若き日の井伊直政が松下源太郎の養子となって松下家の跡継ぎとなっていたのに、井伊家を復興したい思いから家康へ井伊の名を名乗ることを願ったと描かれていました。 数少ない史料のすきまを埋めてドラマ化したのでこう…

家康から拝領した「唐の頭」 ~菅田将暉への説明の補足~

昨日(10月16日)のNHKテレビ「鶴瓶の家族に乾杯」は彦根が舞台で、大河ドラマで井伊直政役を演じている俳優の菅田将暉が彦根で井伊直政ゆかりのものに触れていました。その中で、彦根城博物館で井伊家当主の「赤備え」の甲冑を見学したとき、説明してい…