彦根歴史研究の部屋

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井伊直政家臣列伝 その20 長野業実 ~箕輪城主の一族~ 

 井伊直政が初めて城主となった上野国箕輪城の元城主である長野氏の一族も井伊家の重臣にいる。
 

上野の有力国衆
 箕輪の長野氏といえば、戦国時代の長野業政が有名である。上野国は、関東管領でもあった上杉氏が代々守護を務めていたが、上杉氏が2代にわたり家督争いをしており、さらに隣国である小田原の北条氏や甲斐武田氏らが上野への侵攻をはかった。さらに、北条氏の侵攻により越後へ落ち延びた上杉氏の家督を継承した長尾景虎上杉謙信)は、上野国内を通り小田原へと兵を向けた。

 このような争乱の中、長野業政は西上州の有力国衆として存在感を発揮していた。一族や近隣に住む国衆をとりまとめ「箕輪衆」と呼ばれる集団として結束して行動していた。謙信が関東を目指した際には、業政はいち早く参陣しており、集結した武士の名を書き上げた「関東幕注文」に「箕輪衆」として「長野」(業政)をはじめ19人の名が列記されている。

 業政が永禄4年(1561)に死去すると、武田信玄による西上州侵攻が本格化し、永禄9年、箕輪城は落城し、城主長野氏業は自害した。

 

由緒書にみる長野業実の出自
 井伊直政家臣の長野業実は、長野業政の孫という由緒をもつ。『侍中由緒帳』「貞享異譜」では、業実は長野信濃守(業政)の子の出羽守業親の嫡子とする。業実の母を直政がかねて存知していたため、直政の口添えにより家康へ仕えることになった。その後、直政のもとで小姓を勤めたというが、「貞享異譜」によるとそれは井伊家が箕輪に入ってからのことという。また、甲州新府若神子台の戦い以降、出陣したとある。これを読む限り、業実は長野業政の子孫と考えられるが、他の資料から別の側面が読み取れる。

 「御侍中名寄先祖付帳」によると、元の名は浜河といい、父は浜河出羽という甲州者という。その後向坂という名字を名乗り、最終的には先祖の氏である長野を称したという。また、甲州崩れの時、業実は12・3歳で、直政の取り立てで家康へ御目見し、その後直政のもとで小姓として召し仕われたとも記す。

 

業実の武功
 一方、系譜史料以外にも若き日の業実の履歴をたどることができる手がかりがある。それは、天正18年(1590)の小田原の陣でのことである。

 小田原の陣のうち、豊臣勢が小田原城を攻撃した唯一の戦果ともいえるのが井伊隊による篠曲輪の夜襲であった。このとき、業実は敵首を取る戦功があったとして、近藤秀用とともに秀吉の面前に召し出され、秀吉からは馬を、家康からは備前三郎国宗の刀を拝領した。そのことは井伊家以外の史料にも記載されており、「家忠日記追加」や「武徳大成記」などでは伝蔵を「向坂伝蔵」と記す。

 

業実の履歴
 では、上記のような各種史料の記述をもとに、業実の履歴を考えていきたい。

 まず、業実の父について。「御侍中名寄先祖付帳」には浜川出羽とある。『侍中由緒帳』などとも出羽という通称は一致しており、「関東幕注文」などから「浜川」という名字の長野一門がいることが確認できるため、業実の父は長野氏一族の浜川氏とみてよいだろう。浜川氏は箕輪近くの浜川を本拠としていた。箕輪城が武田方に攻められて落城すると、周辺国衆は武田方に属すことになり、その中に浜川出羽もいたと考えられる。

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 業実が徳川方に入ったのは「甲州崩れ」の時ということなので、天正10年の武田氏滅亡からその旧領をめぐる徳川と北条の争いの中でのことであろう。

 天正10年10月、徳川と北条の争いは和睦となり、その結果上野国は北条氏が領有することとなった。そのため、もし浜川氏が地元に勢力を置いた状態であれば、北条の配下に入ることになり、跡継ぎを徳川に預けることは考えられない。業実一家は上野の本拠地を離れていたと考えるのが自然であろう。

 『侍中由緒帳』などには、業実の母を直政がかねてご存知であった関係で業実の出仕となったとする。業実の母の実家が徳川の勢力下にあり、そこに業実が上野から逃れて身を寄せたため、直政を介して家康の近習として出仕することになったのであろうか。浜川の名字を名乗らなかったのも、このような出自を隠すためだったかもしれない。業実は一時期、向坂を名乗っているので、母方が向坂氏の可能性も考えられる。

 業実は家康の元で近習として仕えたという。天正10年当時12・3歳ということであり、近習として仕えるのに相応しい年齢である。ここでの出仕は、業実が長野氏の一門である浜川氏の出身という政治的判断によるものであろう。滅亡しかけた家の跡継ぎという境遇で徳川へ出仕したという点で、直政とよく似た道をたどったといえるかもしれない。

 天正18年の小田原の陣に際し、業実は井伊隊に付けられて出陣することになった。この時の業実について、彦根藩の諸資料では「長野伝蔵」と記すが、「家忠日記追加」や「武徳大成記」などでは「向坂伝蔵」とする。このような違いが生じた理由を考えると、幕府関係の諸史料であえて名字を替える理由は見当たらない。一方、彦根藩では、江戸時代に存在する長野氏の先祖ということであり、先祖の功績を示そうとして長野の名字を用いたと考えれば、改変理由は存在する。おそらく、小田原陣後までは、業実は向坂伝蔵と称していたと思われる。

 直政は、小田原陣後に箕輪12万石の城主となると、家康から付けられていた与力・同心を家臣とし、12万石の中から家臣へ知行を与えた。業実もこの時に直政家臣になったと考えられる。また、箕輪城主直政のもと、業実は浜川郷に知行1貫500文を拝領している(「侍中由緒帳」)。あえて浜川郷に知行を下されたのは、ここが父祖以来の本領だったからであろう。箕輪は先日まで敵方北条配下の地であり、そこを治めるにあたり、地元の旧領主一族である業実の存在は大きかったのではないだろうか。業実を長野業政の孫という系譜上の位置づけにして、長野氏を称し、その存在を地域統治に利用する狙いがあったのではないだろうか。

 慶長7年(1602)の分限帳では、長野民部(業実)は2000石を拝領しており、井伊家中第6位に位置している。箕輪・高崎時代に地元の武士をまとめて直政家臣に組み入れたが、その上州衆のトップに業実が位置しているといえる。

 
 参考文献
野田浩子『井伊直政 家康筆頭家臣への軌跡』(戎光祥出版、2017年)

『新編高崎市史』通史編2 中世

 

 典拠史料
『新修彦根市史』6巻
『侍中由緒帳』1
「貞享異譜」「御侍中名寄先祖付帳」(彦根城博物館所蔵、未刊)