日本生命創業の起源は彦根にあった
日本生命を創業したのが彦根出身の弘世助三郎であることはよく知られているが、弘世が設立しようとしたきっかけについて、これまで知られていなかった新しい点が見つかった。
弘世が生命保険会社の創設しようとしたきっかけとして、『日本生命百年史』などでは、多賀講、知人森八郎からの教示、交援社の三つが示されている。
多賀講は多賀大社の相互扶助組織で、地域単位や目的に応じて、さまざまな講が結成されていた。講といえば、金融機関がない江戸時代に、多額の資金が必要な場合に多くの人から少額ずつを集めて融通しあった頼母子講が知られている。
森八郎は帝国生命(現在の朝日生命)の勧誘を受けてその仕組みを聞くと、弘世へ伝えて関西でも制度化するよう力説したという。
交援社は、彦根の医師中島宗達が明治15・16年頃に運営していた保険類似会社である。一定の掛け金を集めて、70歳満期または死亡時に支払うというもので、旧彦根藩士等が加盟していた。
これまで、弘世はこれらの情報を得て、生命保険会社を設立しようと一念発起したと言われてきた。
ところが、『明治の旧彦根藩士たち』執筆にあたり調べたところ、より具体的な状況が研究によって明らかとなっていることがわかった。それは小川功氏(滋賀大学名誉教授)の論文「大手保険会社のグランド・デザインを描いた近江人脈ー日本生命『発起人中の発起人』弘世助三郎の着想の進展経過を中心にー」(『滋賀大学経済学部附属史料館研究紀要』46号、2013年)で、弘世が滋賀県レベルでの生命保険会社を設立しようとしていたことを示唆する新聞記事が示されている。
小川氏によると、日本生命創業の2年前にあたる明治20年に、地元新聞の『中外電報』で、彦根で開業医師数名が富豪家と諮り、「近江生命保険会社」を設立しようと計画している、と報じており、この開業医師は交援社を主宰していた中島宗達で、富豪家とは当時彦根に本店があった第百三十三国立銀行の頭取であった弘世と推定できるという。ただ、「近江生命」は開業しておらず、その計画は実現しなかったということになる。
小川氏の見立てでは、中島が交援社を発展させて生命保険会社を設立しようとして弘世へ協力を求め、新聞記事になるほど具体的に計画は進んでいたが、弘世が滋賀県知事の中井弘に相談した結果、事業規模を1県内のものではなく、全国レベルへと拡大させたということである。
そうすると、弘世を生命保険事業へと向かわせる影響力のあった人物として、中島がいたのは間違いないだろう。
中島は彦根藩医で、明治元年に横浜居留地へ医学留学して、「ヘボン式ローマ字」で有名な医師ヘボンのもとで医学を学んだ人物である。ヘボンに随行して樺太方面への船旅に行っているほどの弟子であった。居留地では、医学のみならずさまざまな西洋文化を経験して、彦根に戻ってからはそれを普及させることで生活環境や意識の改善に取り組んでいる。西洋医学の知識を広め、衛生環境の改善を目的とした講話会を開催したほか、幼稚園・女学校・盲学校といった各種学校の設立に関わり、彦根町会議員も務めた。おそらく、横浜時代に生命保険の仕組みも耳にしていたのであろう。医師という職業柄、まとまった財産を遺族に残す生命保険を有用なものと思い、弘世を誘って事業化しようとしたが、医師のかたわらでできる規模ではなくなったため、手を引いたのではないだろうか。
そのように考えると、日本生命開業の源流には、近代化を推進して生活環境を改善させようとした医師中島宗達がいたといえるのではないだろうか。
法律家を輩出した彦根藩 ~相馬永胤と増島六一郎~
『明治の旧彦根藩士たち』では、明治の法律界に足跡を残した2人の彦根藩出身者を取り上げている。
ひとりは相馬永胤。
明治維新後すぐ、アメリカに留学して法学士の学位を得ると、帰国して代言人(弁護士)、裁判官を務めた後、銀行家へ転身し、横浜正金銀行の経営にたずさわった。一方で、留学仲間とともに専修学校(専修大学の前身)を設立、長らく校長として法学教育に尽力した。
もう一人は増島六一郎。
東京大学法学部二期生の首席として卒業すると、イギリスに留学して法廷弁護士(Barrister at Law)を取得。帰国すると「バリストル、法学士代言人」の肩書きをもって代言人(弁護士)の職に就き、弁護士という仕事を日本に定着させた。主に外国が関わる企業案件を扱ったほか、ノルマントン号事件で日本政府側の弁護士を務めている。法学教育では、中央大学の前身である英吉利法律学校を仲間と共に設立し、初代校長に就いている。
両名が法律の道に進む決心をした理由は明らかではないが、彦根藩の先輩藩士の影響があったのではないかと考えられる。
相馬は明治4年にアメリカへ留学したときには、軍人をめざしていた。しかし経費の都合で一端帰国し、井伊家から留学資金を給付されると、明治7年に2度目の渡米を果たして本格的に法律学などを学び、法学士の学位を得ている。一時帰国したときに留学資金を斡旋したのは石黒務、西村捨三、大東義徹という。いずれも戊辰戦争で活躍し、彦根藩政の上層部を占めた先輩藩士で、石黒と大東は明治政府に出仕していた。中でも大東は司法省に出仕しており、明治6年の政変で政府を離れ彦根に戻ると、「彦根義社」(のち集義社)という政治団体を結成した。その活動の1つに法律制度の研究があり、大東らが法制度に関心が高かったことがわかる。さらにさかのぼると、彦根義社で用いられたテキストの1つに『新律綱領』がある。これは明治3年に明治政府のもとで編纂されたはじめての刑法典で、彦根藩から明治政府に出仕していた外村省吾も編纂に関わっていた。このように、明治初年から彦根では法律へ関心の高い人物が集まっており、相馬もその影響を受けて法律学を専攻した可能性がある。
増島は開成学校(東京大学の前身)予科時代の明治7年に法科への進学を決めている。ちょうど彦根義社が設立された時期であり、増島の専攻決定に、大東らの活動や考えが影響を及ぼしたのかもしれない。
相馬がアメリカから帰国した明治12年に、増島も東京大学を卒業しており、同じ時期に両名は法律家として活動を開始したことになる。この頃、両者の交流が確認できる。増島は大学卒業後、同期生が設立した法律事務所「攻法館」で法律教育を担当していたが、翌年、イギリスへ留学することになったため、攻法館の法律教育部門は相馬が新設しようとする法律学校に統合させている。
相馬は法律家の道は離れるが、法学教育には終生関わった。一方、増島は、学校教育からは離れたが、法律家として活躍し続けた。弁護士としてだけでなく、判例集の編纂、法律書の収集といった法律家が研究・調査しやすい環境整備にも尽力した。欧米で本格的な法律学を学んだ両名であるが、その後の活躍の場は異なる。あえて重ならないよう「棲み分け」していたのかもしれない。
受け継がれた藩校教育の精神
幕末から明治にかけての彦根藩関係者の活躍の背景には、藩校をベースとした教育があったといえる。
彦根藩の藩校は、寛政11年(1799)に創設された。当初は稽古館と称し、のちに弘道館と改称している。藩の次世代を担う藩士子弟が学問や武芸の研鑽に励んだ。
幕末の藩校教育を代表する学者として、外村省吾を挙げたい。
外村は彦根藩足軽の出身で、幼少期から儒学を学び、22歳のときには彦根藩儒となった中川禄郎の門下に入っている。ほぼ同時にみずから家塾をひらいているため、既にこの頃には一人前の儒学者となっていたことであろう。
その後、家老岡本黄石らの学問グループに属し、藩主井伊直弼の政治に批判的な考えを持つ。文久2年に黄石が藩政をリードすると、「至誠組」の一員として谷鉄臣らとともにその政務を支え、京都などで情報収集にあたった。慶応3年5月には藩校弘道館の教授に就いている。京都での活動が一段落ついたのであろう。
明治維新後、外村は政府から出仕を命じられて「刑法判事試補」に就く。中国古代の刑法「律」に詳しかったため、新たな法制度整備の事業に登用されたのであった。
しかし、まもなく病気と称して彦根に戻ると、彦根藩の「権少参事」に就き藩政の中枢に入る。明治4年の廃藩後は、それを引き継いだ彦根県、長浜県、犬上県にも出仕している。長浜県では「小学校用掛」に就いており、それ以降、教育行政に身を置いた。政府は明治5年に「学制」を公布して全国に小・中・大学を置く計画を示しており、外村はそれを実現する教育行政を担当することになったといえる。犬上県では、学制公布の前の月に「犬上県内小学建営説諭書」という小学校設立方針を示す文書を出しているが、おそらく外村が中核になって作成したと思われる。そこでは、福沢諭吉の『学問のすすめ』や京都の小学校設立事例を把握して、新時代の教育のあり方を説いている。実際、外村は地域を回って保護者を集め、学問する必要性と子どもたちを就学させる保護者の責任を訴えたという。
外村がもう一つ熱心に建設しようとした学校がある。小学校卒業生が通う上級学校を設立しようという話が旧彦根藩士等の間で出ていた。この学校は、閉鎖された藩校に代わるものという位置づけができる。当時、まず小学校から建設しはじめたため、それ以上の学年、現在の中等教育は整備されていなかった。そのため、藩校と同様、青年たちが学び、交流する場を創ろうとしたのであろう。
明治9年、旧彦根藩主井伊直憲や旧藩士らの資金援助により、夢京橋キャッスルロード南端付近(関西みらい銀行彦根本町出張所一帯)に洋式の校舎が完成し、8月に彦根学校が開校した。外村は初代校長に就く。この学校はその後、県立への移管などを経て、旧制彦根中学、現在の彦根東校へとつながる。
彦根東高校は、彦根藩藩校の流れを汲むといわれているが、藩校の閉鎖後、組織としてつながっているわけではない。ただ、藩校での学びを復活させようとして建設した学校が前身であり、藩校に対する外村らの思いを受け継いでいることは間違いない。
外村が「藩校教授」の肩書きをもっていたのは、わずかな期間である。しかし、その没後、功績を記した石碑を建てることに名を連ねた門下生は164人に及ぶ。その名簿をみると当時の彦根の名士が名を連ねており、多くの人材の育成に貢献したことがわかる。
外村はこれまで、至誠組の一員として政治的な活躍で取り上げられてきた。しかし、それだけでなく、世に出て活躍した多くの彦根藩士を育て、教育の場を整備した教育者としての点も高く評価したい。
戊辰戦争での功績 ~近藤勇を捕縛したのは彦根藩士
戊辰戦争関連でもう1つ。
新撰組局長の近藤勇が流山で捕縛されたのはよく知られているが、その際「大久保大和」と名乗っていた隊長が近藤であることを見破ったのは彦根藩士であった。
彦根藩兵の一部は、板橋宿に入ったあと、慶応4年4月3日に北上して宇都宮方面へ隊を進める。他藩の兵も含め約500人の隊であった。その途中、流山に敵勢がいるとの情報を得て向かったところ、相手は恭順の意を示して武器を差し出した。
恭順を申し出た隊長は「大久保大和」と名乗ったが、彦根藩士の小隊長渡辺九郎左衛門が彼は近藤勇であることを見破る。渡辺は京都の会議で近藤を見たことがあり、その顔を知っていたのであった。
近藤は、渡辺の手によって新政府軍の本営が置かれた板橋宿へ護送され、その後、斬首される。
さぞかし渡辺は手厚い褒美をもらったのだろうと思い調べたところ、4月29日に「慎」という処罰を受け、彦根へ戻るよう命じられている(『彦根藩史料叢書 侍中由緒帳』9)。渡辺はその後、小隊を率いて小山の戦いに出て、玉砕した青木貞兵衛隊とともに戦っている。処罰理由は明確ではないが、小山での責任を取って帰国させられたのではないだろうか。
一方、流山で近藤を捕縛したとして恩賞を得た藩士に西村捨三がいる。西村は中級藩士の二男であり、出兵当初、斥候(物見役)であった。近藤の捕縛は、近藤の身元を見抜いたことだけが戦功ではなかったといえる。周辺の状況を調べて敵が流山にいることを見つけ、相手の代表者を呼び出して話し合いで兵器を差し出させ、説得して降参させる。交戦による犠牲者を出すことなく敵を降参させたことも大きな功績であり、敵陣へ乗り込んで降参するよう交渉した西村が評価されたと思われる。
これをきっかけに、西村は彦根藩兵の中での評価が高まり、「軍事方」の役職を拝命、彦根藩兵の幹部としてその後の北関東から東北での戦線でも活躍する。10月に凱旋したときには、彦根隊の11人の隊長のひとりとして西村も明治天皇から褒美を与えられた。廃藩直前には「権大参事」という藩政ナンバー2の職に就いている。
戊辰戦争 ~小山での戦闘~
小山(栃木県小山市)といえば、関ヶ原合戦の際、徳川家康が引き返す判断を下した「小山の評定」の舞台として知られている。彦根藩にとっては、戊辰戦争の際に旧幕府軍との間で戦闘を繰り広げ、藩士が命を落とした地でもある。
慶応4年正月からの戊辰戦争では、彦根藩は官軍として出兵、東山道を江戸へ向かい、3月14日に板橋宿へ入る。江戸城総攻撃は中止となったが、それを不服とする旧幕府勢が江戸周辺などにおり、その警備についた。
3月晦日、宇都宮城から援兵派遣の要請があり、彦根藩兵を含む数隊が宇都宮城へ向かう。この宇都宮に入った部隊が小山で敵兵との戦闘を繰り広げた。
敵は、幕臣の大鳥圭介率いる旧幕府の伝習隊である。伝習隊はフランスから学び、西洋式の軍事を取り入れた精鋭軍隊であり、江戸城が開城されると、大鳥が彼らをを率いて日光へ向かっていた。それに対処するため、宇都宮に入っていた政府軍の部隊が出兵し、4月17日、小山で戦闘になった。政府軍は8小隊(約320人)、うち彦根藩兵は3小隊が出兵するが、西洋兵法を採用する大鳥軍約2000人のもと劣勢であり、各隊とも宿外まで引き上げたところ、青木貞兵衛率いる彦根藩の1小隊が敵中に取り残されてしまう。青木らは脱出不可能と観念して、宿内の一軒に立て籠もり、弾薬の限りを撃ち尽くしたあと、全員が敵中に斬り込んで、青木以下11人が討ち死にした。最後まで死力を尽くした彼らの戦いぶりは後世に語り継がれることになった。
戊辰戦争の去就に影響を与えた彦根藩
江戸時代を通じて、徳川譜代の筆頭であった井伊家が、それを裏切るように、戊辰戦争では官軍に味方したのはなぜか。
そもそも、彦根藩が官軍方だったとは知らない人の方が多いかもしれない。
慶応3年10月に徳川慶喜は大政奉還を申し出て、新たな枠組みの政権を構想していたところ、12月9日、薩長や岩倉具視らによる王政復古のクーデターによって新政府の樹立が宣言された。中立の立場にあった多くの藩はどちらに味方するのか迷ったが、彦根藩は12月中に新政府に味方することを決定し、翌年1月からの開戦時には新政府方として出兵している。彦根藩という徳川に近い大藩の動向は、どちら側につくか迷う諸藩の判断に大いに影響を与えた。
彦根藩の中でも、慶喜方に味方するべきという考えの者もいた。実際、慶喜のいる大坂城に入り、開戦を避けようと説得していた者もいる。ただ、このとき藩を主導したのは、代々の藩中枢を占めた家出身者ではなく、下士層であった。つまり、薩長の主導者と同様の階層の者が藩を主導し、社会を変革させたといえる。
彦根藩の決断は戊辰戦争の勝敗に大きく影響を与えた。もちろん新政府の中枢もそれをわかっており、新政府軍のトップともいえる有栖川宮熾仁親王の妹を藩主井伊直憲の正室として井伊家に迎える縁談がまとまった。彦根藩上層部の中から、政府に出仕する者も出た。ただ、直弼以来のわだかまりは依然として続いていた。
詳しくは『明治の旧彦根藩士ー近代化に尽力した人物史ー』をご覧ください。
幕末彦根藩の危機的状況
家臣たちはその仇討ちを果たそうと、続々と江戸へ向かう。もしも彼らが実力行使をしていれば、江戸市中を混乱に陥れることになり、彦根藩はお取り潰しを免れなかったところ、藩首脳部は何とかして彼らの暴発をおさえ、ようやく藩を存続させることが叶った。
その2年後の文久2年には、直弼と対立していた「一橋派」が幕政を掌握し、京都では尊王攘夷派が席巻して、直弼政治に批判的な勢力が政局の主導権を握ることになった。彦根藩はまたしても危機的な状況を迎えたが、世の動向を敏感に感じ取った者が藩の主導権を握って、自己改革をなしとげ、幕末の動乱を生き残ることができた。
幕末彦根藩を主導したのは「至誠組」。その名はこれまでも知られている。では、このグループがどのように組織され、どのような考えをもち、何を目指したのか。
詳しくは『明治の旧彦根藩士ー近代化に尽力した人物史ー』をご覧ください。