受け継がれた藩校教育の精神
幕末から明治にかけての彦根藩関係者の活躍の背景には、藩校をベースとした教育があったといえる。
彦根藩の藩校は、寛政11年(1799)に創設された。当初は稽古館と称し、のちに弘道館と改称している。藩の次世代を担う藩士子弟が学問や武芸の研鑽に励んだ。
幕末の藩校教育を代表する学者として、外村省吾を挙げたい。
外村は彦根藩足軽の出身で、幼少期から儒学を学び、22歳のときには彦根藩儒となった中川禄郎の門下に入っている。ほぼ同時にみずから家塾をひらいているため、既にこの頃には一人前の儒学者となっていたことであろう。
その後、家老岡本黄石らの学問グループに属し、藩主井伊直弼の政治に批判的な考えを持つ。文久2年に黄石が藩政をリードすると、「至誠組」の一員として谷鉄臣らとともにその政務を支え、京都などで情報収集にあたった。慶応3年5月には藩校弘道館の教授に就いている。京都での活動が一段落ついたのであろう。
明治維新後、外村は政府から出仕を命じられて「刑法判事試補」に就く。中国古代の刑法「律」に詳しかったため、新たな法制度整備の事業に登用されたのであった。
しかし、まもなく病気と称して彦根に戻ると、彦根藩の「権少参事」に就き藩政の中枢に入る。明治4年の廃藩後は、それを引き継いだ彦根県、長浜県、犬上県にも出仕している。長浜県では「小学校用掛」に就いており、それ以降、教育行政に身を置いた。政府は明治5年に「学制」を公布して全国に小・中・大学を置く計画を示しており、外村はそれを実現する教育行政を担当することになったといえる。犬上県では、学制公布の前の月に「犬上県内小学建営説諭書」という小学校設立方針を示す文書を出しているが、おそらく外村が中核になって作成したと思われる。そこでは、福沢諭吉の『学問のすすめ』や京都の小学校設立事例を把握して、新時代の教育のあり方を説いている。実際、外村は地域を回って保護者を集め、学問する必要性と子どもたちを就学させる保護者の責任を訴えたという。
外村がもう一つ熱心に建設しようとした学校がある。小学校卒業生が通う上級学校を設立しようという話が旧彦根藩士等の間で出ていた。この学校は、閉鎖された藩校に代わるものという位置づけができる。当時、まず小学校から建設しはじめたため、それ以上の学年、現在の中等教育は整備されていなかった。そのため、藩校と同様、青年たちが学び、交流する場を創ろうとしたのであろう。
明治9年、旧彦根藩主井伊直憲や旧藩士らの資金援助により、夢京橋キャッスルロード南端付近(関西みらい銀行彦根本町出張所一帯)に洋式の校舎が完成し、8月に彦根学校が開校した。外村は初代校長に就く。この学校はその後、県立への移管などを経て、旧制彦根中学、現在の彦根東校へとつながる。
彦根東高校は、彦根藩藩校の流れを汲むといわれているが、藩校の閉鎖後、組織としてつながっているわけではない。ただ、藩校での学びを復活させようとして建設した学校が前身であり、藩校に対する外村らの思いを受け継いでいることは間違いない。
外村が「藩校教授」の肩書きをもっていたのは、わずかな期間である。しかし、その没後、功績を記した石碑を建てることに名を連ねた門下生は164人に及ぶ。その名簿をみると当時の彦根の名士が名を連ねており、多くの人材の育成に貢献したことがわかる。
外村はこれまで、至誠組の一員として政治的な活躍で取り上げられてきた。しかし、それだけでなく、世に出て活躍した多くの彦根藩士を育て、教育の場を整備した教育者としての点も高く評価したい。