彦根歴史研究の部屋

彦根や井伊家の歴史について、これまで発表してきた私見の紹介・補足説明・修正など。

法律家を輩出した彦根藩 ~相馬永胤と増島六一郎~

『明治の旧彦根藩士たち』では、明治の法律界に足跡を残した2人の彦根藩出身者を取り上げている。

 

ひとりは相馬永胤。

明治維新後すぐ、アメリカに留学して法学士の学位を得ると、帰国して代言人(弁護士)、裁判官を務めた後、銀行家へ転身し、横浜正金銀行の経営にたずさわった。一方で、留学仲間とともに専修学校専修大学の前身)を設立、長らく校長として法学教育に尽力した。

 

もう一人は増島六一郎。

東京大学法学部二期生の首席として卒業すると、イギリスに留学して法廷弁護士(Barrister at Law)を取得。帰国すると「バリストル、法学士代言人」の肩書きをもって代言人(弁護士)の職に就き、弁護士という仕事を日本に定着させた。主に外国が関わる企業案件を扱ったほか、ノルマントン号事件で日本政府側の弁護士を務めている。法学教育では、中央大学の前身である英吉利法律学校を仲間と共に設立し、初代校長に就いている。

 

両名が法律の道に進む決心をした理由は明らかではないが、彦根藩の先輩藩士の影響があったのではないかと考えられる。

相馬は明治4年アメリカへ留学したときには、軍人をめざしていた。しかし経費の都合で一端帰国し、井伊家から留学資金を給付されると、明治7年に2度目の渡米を果たして本格的に法律学などを学び、法学士の学位を得ている。一時帰国したときに留学資金を斡旋したのは石黒務、西村捨三、大東義徹という。いずれも戊辰戦争で活躍し、彦根藩政の上層部を占めた先輩藩士で、石黒と大東は明治政府に出仕していた。中でも大東は司法省に出仕しており、明治6年の政変で政府を離れ彦根に戻ると、「彦根義社」(のち集義社)という政治団体を結成した。その活動の1つに法律制度の研究があり、大東らが法制度に関心が高かったことがわかる。さらにさかのぼると、彦根義社で用いられたテキストの1つに『新律綱領』がある。これは明治3年に明治政府のもとで編纂されたはじめての刑法典で、彦根藩から明治政府に出仕していた外村省吾も編纂に関わっていた。このように、明治初年から彦根では法律へ関心の高い人物が集まっており、相馬もその影響を受けて法律学を専攻した可能性がある。

増島は開成学校(東京大学の前身)予科時代の明治7年に法科への進学を決めている。ちょうど彦根義社が設立された時期であり、増島の専攻決定に、大東らの活動や考えが影響を及ぼしたのかもしれない。

相馬がアメリカから帰国した明治12年に、増島も東京大学を卒業しており、同じ時期に両名は法律家として活動を開始したことになる。この頃、両者の交流が確認できる。増島は大学卒業後、同期生が設立した法律事務所「攻法館」で法律教育を担当していたが、翌年、イギリスへ留学することになったため、攻法館の法律教育部門は相馬が新設しようとする法律学校に統合させている。

相馬は法律家の道は離れるが、法学教育には終生関わった。一方、増島は、学校教育からは離れたが、法律家として活躍し続けた。弁護士としてだけでなく、判例集の編纂、法律書の収集といった法律家が研究・調査しやすい環境整備にも尽力した。欧米で本格的な法律学を学んだ両名であるが、その後の活躍の場は異なる。あえて重ならないよう「棲み分け」していたのかもしれない。