彦根歴史研究の部屋

彦根や井伊家の歴史について、これまで発表してきた私見の紹介・補足説明・修正など。

井伊直政家臣列伝 その21 三浦元成・元定と安久 ~今川旧臣の一族~ 

今川家臣の三浦氏

 直政家臣の中に今川旧臣という由緒をもつ三浦氏が数系統ある。

 三浦氏といえば、相模国三浦を苗字とする武家で、武家の興った平安時代以来の名族である。鎌倉幕府の有力御家人が有名であるが、嫡流が幕府内の対立(宝治合戦)により滅びた後も一族が相模国内で勢力を持ち、室町時代には相模国守護を務めることもあった。戦国時代には、相模守護でもあった戦国大名扇谷上杉氏の配下にあったところ、一族内の家督争いが生じて三浦義同が当主に就くが、この頃勢いを増してきた伊勢宗瑞(北条早雲)が相模に進出してきており、永正13年、北条早雲から攻められて義同父子が討ち死にし、三浦氏は滅亡した。

 三浦氏は多くの系統に分かれており、今川氏の配下にも数系統の三浦氏がいた。そのうち、次の三系統が井伊直政の家臣となっている。

 三浦与右衛門元成
 三浦弥一郎元定
 三浦十左衛門安久・五郎右衛門高連兄弟

 

三浦与右衛門元成
 三浦与右衛門元成は、のちに代々家老を務め、与右衛門・内膳・和泉などと称した家の初代にあたる。

 同家には、天正10年(1582)11月26日付で「三浦与三郎」に宛てた家康の朱印状が伝わっていた。この文書は井伊直政が奉者を務めており、駿河の片山・吉河・方之上の内に計49貫500文を本領として安堵する旨を伝えるものである。宛名の三浦与三郎が元成で、この時直政が取り次いで元成が正式に徳川の配下に入った。元成は長久手陣から井伊隊に加わったといい、直政没後の慶長7年(1602)には620石取であった。武役では、関ヶ原合戦後には弓足軽大将となり、大坂冬の陣には弓足軽大将兼伊賀者支配として出陣している。

 元成の家は、2代目が最終的に1500石取となり3代目から家老を務めた。このように元成の家系が重臣に取り立てられたのは、元成の妻の力によると思われる。元成の妻は新野左馬助の惣領娘であった。左馬助は、井伊氏の親族にあたり、井伊直盛没後の井伊氏を支えた人物である。元成妻の妹たちは木俣守勝・戸塚正長・庵原朝昌ら直政配下の者の妻となっており、彼女らは姻戚関係により直政とその重臣をつなぐ役割を果たしたといえる。

 中でも、元成妻は新野娘のうち「惣領娘」つまり年長であった。新野氏・三浦氏いずれも今川家臣であったことをあわせて考えると、今川が安定していた時代に元成へ嫁いでいたのではないだろうか。その縁を通じて、元成ら三浦一族が直政配下に入った可能性が考えられる。

 次に見る元定の家と比較すると、直政の時代には両名の知行高は同じであり同等の立場であったが、次世代以降元成の家系が重臣に取り立てられ、両家の処遇に格差が生じている。その要因は、元成の息子が新野左馬助の孫という血統に求められるだろう。

 

三浦弥一郎元定
 三浦弥一郎元定は、直政の配下に入る際に元成と行動を共にしていたと思われる。

 天正10年、三浦与三郎に宛てた家康朱印状と同じ日付のものが「三浦弥一郎」へも出されている。駿河の吉河・北脇の内計73貫余の本領安堵状である。つまり、元成と元定は同時に家康に対面して臣下の礼をとり、それぞれ本領安堵状を受け取ったと考えられる。この時期は、武田旧領をめぐる天正壬午の乱で徳川と北条の講和が成立した直後にあたり、11月から12月にかけて、直政が奉者となった同様の本領安堵状が武田旧臣に対して多く出されている。多くは甲斐の者であるが一部には駿河を本領とする者もいる。

 天正10年の本領安堵状では元定の方が領知高は多かったが、直政配下では対等な処遇を受けており、慶長7年の分限帳では、元定は元成と同様の620石取であった。

 その後、慶長9年に嫡男の元春に家督を譲る。しかし元春は慶長14年に落馬して死去したため、次男長好が家を継いだ。長好は最終的に700石取で弓足軽大将を務めている。

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2通の本領安堵状に登場する吉河

 

三浦十左衛門安久
 三浦十左衛門安久は、家に伝来した史料がまとまって残っており、研究の蓄積もある人物である。

 安久は、今川氏真が武田・徳川から侵攻されて大名としての今川氏が滅亡した後も氏真の傍にいた1人である。元亀2年(1571)10月、氏真は安久に対して扶持を断絶する旨の判物(『戦国遺文』2492)を下しており、この時まで安久は氏真のもとにいたと考えられる。

 その後、天正10年3月には、安久は氏真の元に再び仕えたいと家康重臣酒井忠次へ頼んでいることがわかる書状が伝わる。氏真の元を離れてからの動向は不明であるが、駿河は武田の領国となっていたため、本領の駿河国内にいたのであれば武田に服属していたのであろう。天正10年年始より、織田信長の武田出兵に呼応して家康が駿河に進出し、3月までには駿河を手中に収めていた。安久はこのような状況で、新たな支配者に対して旧主へ仕えることを望んだのである。しかし、それは叶えられなかった。

 同年8月には、安久は徳川配下として出陣している。この時、徳川と北条が武田旧領で対陣しており、8月22日には敵兵を討ったとして酒井忠次から褒状を下されている。忠次は旧武田領へ先鋒として向かっており、安久もその軍勢に加わったのであろう。

 安久が井伊直政の配下に入ったのは、天正12年の長久手の陣以前である。この陣で直政の部隊に属して戦っている。直政を大将とする部隊は天正壬午の乱終結後に形成され、小牧・長久手の陣が初陣であったことから、安久は井伊隊形成当初から付属されていたと考えられる。

 井伊配下での安久の活躍はいくつも知られている。

 天正18年(1590)の小田原の陣では、小田原城を囲む井伊本隊とは離れ、津久井城(相模原市)へ向かい敵兵を討つ戦功を挙げている。これを賞する秀吉の朱印状が直政に宛てて下され、三浦家に伝来した。

 朝鮮出兵では、直政は江戸城の留守を守ったが、安久は使者として現地へ向かっており、対馬壱岐までの関所切手が伝わる。関ヶ原合戦では、本多忠勝が一人で戦い敵兵を討ったところに安久が出くわし、互いに武功の証人となる約束を交わしたという。

 また、慶長7年(1602)に直政が死去した時、それを江戸にいる秀忠へ伝える使者を務めたのも安久であった。軍事能力に加え、使者として登用されるだけの能力が安久にはあったのであろう。徳川諸将から安久に宛てた書状がまとまって残っていることから、交友関係が広かったことも窺える。
 安久が旧主今川氏真の傍に仕えることを認められず、新規編成された井伊隊へ付けられたのも、その能力が高く評価されたためだろう。

 

三家の関係
 元成と元定は、天正10年の時点で行動を共にしていたと考えられるが、両家は「一家」とする記述もあり(「御侍中名寄先祖付帳」)、近い親族であったことがわかる。
 なお、「寛政重修諸家譜」には
 三浦義次 小次郎・八郎左衛門
   元秋 小次郎・八郎左衛門
   義勝 小次郎・小左衛門・八郎左衛門
   義景 小左衛門
と続く家が記される。この家には、永禄12年に「三浦小次郎」に宛てた今川氏真朱印状が伝わっていた(『戦国遺文』2361、2426など)が、元定の家にも同じ「三浦小次郎」宛ての氏真朱印状(『戦国遺文』2380)が伝わっていた。内容的にもこの小次郎は同一人物と考えられ、『戦国遺文』でも義次に比定されている。「寛政重修諸家譜」所収の家と元定は先祖が同じと考えられ、年代から判断して元定の父が小次郎義次と推定できるだろう。
 一方、小和田哲男氏が紹介した三浦元成の系図(三浦尊誉氏所蔵「三浦氏略系」)にも義次が登場する。元成の祖父を義次とするが、この人物の通称は左馬介で、桶狭間で戦死しており、小次郎義次とは別人と判断できる。

 小次郎(義次)と安久は、ともに駿府から落ち延びた今川氏真に従い、行動を共にしていた。永禄12年から元亀2年まで両名に出された氏真朱印状には同内容の物が多い。その中に、安久は下方という地で百姓職、義次は同所の代官職を安堵するというものがあり、両名は近い関係だった可能性が高い。

 ただ、安久の家に伝わった系図では、元定・元成との関係は記されない。家伝の系図では安久を三浦義同の曾孫と位置づけている。義同は相模の戦国大名として存在の明らかな人物である。安久は三浦氏の嫡流に連なる系統と主張するためこのような系図を作成したと思われ、すぐには信用しづらいだろう。

 

  
 参考文献
野田浩子『井伊直政 家康筆頭家臣への軌跡』(戎光祥出版、2017年)
小和田哲男著作集2巻 今川家臣団の研究』清文堂

酒入陽子「富士山御師三浦家とその由緒」(『富士山御師の歴史的研究』山川出版社

 
 典拠史料
『新修彦根市史』6巻
『侍中由緒帳』2巻・6巻
「貞享異譜」「御侍中名寄先祖付帳」(彦根城博物館所蔵、未刊)
 『彦根城博物館古文書調査報告書7 三浦十左衛門家文書・池田愿同家文書調査報告書』
『戦国遺文 今川氏編』