彦根歴史研究の部屋

彦根や井伊家の歴史について、これまで発表してきた私見の紹介・補足説明・修正など。

井伊直政家臣列伝 その22 戸塚左太夫 ~勝間田氏の末裔~ 

戸塚氏の出自

 戸塚氏は遠江国榛原郡勝間田庄戸塚の出身という。勝間田庄(勝田と記されることもある)は中世武士勝間田氏の本拠地である。勝間田氏は、『保元物語』に源義朝が率いた関東武士の中、遠江国の者として井伊氏とともに登場しており、鎌倉御家人でもあった。武家の世がはじまった当初、遠江国東部に勢力のあった武家の家である。鎌倉から室町時代にかけて、勝間田氏は勝間田の地の領主として地元を支配していたが、応仁文明の乱の余波で駿河の今川義忠が遠江に出陣してきた際、勝間田城の勝間田修理亮は応戦して討死、一族も離散したという。

 戸塚氏は、明治元年に勝間田へと改姓している。同時期に岡本氏など他の彦根藩士も先祖の本姓へ改めている例があり、勝間田への改姓も由緒ある先祖の姓へ改めたものと推定でき、戸塚氏が勝間田氏の末裔と自認していたと考えられる。

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井伊家重臣

 井伊直政に仕えた戸塚左太夫の諱は、「貞享異譜」では正次とするが、『木俣清左衛門家文書』などでは初代を正長とする。「貞享異譜」では2代を正長と記している。どちらとも判断しがたいため、ここでは通称の「左太夫」を用いる。


 左太夫井伊直政に召し出された経緯は、「侍中由緒帳」「貞享異譜」とも同内容である。そこには、今川氏真へ奉公していた内、旗本戸塚作右衛門より申し越してきたため、氏真へ暇を乞い、大坂へ行って徳川家康に召し出された。大坂で2・3ヶ月おり、関東へ帰国の節に井伊直政に預けられ、この時より井伊家に奉公するようにとの家康よりの上意があったとする。また、直政の箕輪入部の時には足軽15人増の35人組を仰せ付けられたと記す。

 ただし、氏真から暇乞いをして大坂で家康に召し出されたとする年代は特定しがたい。井伊直政が家康家臣となってから家康が大坂へ行ったのは、天正14年に豊臣秀吉に臣下の礼をとったのが最初で、このときは数日間の滞在であった。それ以降家康は豊臣政権の一員として毎年のように上洛し、1・2ヶ月滞在することもあったが、大坂へ行ったことは確認できない。一方、直政が箕輪に入部した時には左太夫はすでに足軽大将であったということなので、これに基づくと天正18年までに召し出されていたことになる。

 一方、別の関係から左太夫の召し出し経緯を推測する。家康への召し出しを推挙した戸塚作右衛門忠之とは、徳川秀忠生母である西郷局の甥にあたる。西郷局の父は戸塚忠春である。つまり、左太夫は同族の西郷局や忠之との関わりにより家康へ召し出されたと考えられよう。

 また、左太夫の妻(=2代目の母)は酒井美作守の娘という。酒井氏は井伊直政の父方の親戚であり、「御一家筋」といわれている。美作守忠員の息子忠政は直政家臣となっている。直政に付けられた背景にはこのような親族関係も考慮されたのではないだろうか。


 左太夫が井伊配下に入ってから、おそらくは天正18年の小田原の陣以降のことであろうが、左太夫の後妻として新野左馬介の娘を迎えている。彼女は先に北条家臣の妻木左近に嫁していたが、のちに左太夫に嫁したという。彼女の姉妹は、木俣・三浦・庵原など井伊配下に付けられた重臣に嫁している。戸塚との縁組みも、直政とその重臣たちのつながりを強固にする政略上のものと考えられる。
 なお、先夫妻木氏との間に生まれていた男女2人の子どもも左太夫方へ引き取り、男子は彦根円常寺開山の露寛和尚になったという。

 左太夫と直政の関係を示す逸話として次のようなものがある。
 直政は、正室の侍女であるおあこが子(のちの直孝)を身ごもったと聞くと、おあこを左太夫に下そうとしたが、左太夫は断ったため直政の機嫌が悪くなり、左太夫は一時期直政の元を離れたという(「井伊年譜」)。実際には、直孝が出生した天正18年2月の直後、直政は軍勢を引き連れて小田原陣へ出陣しており、3月29日からの箱根の山越えの際の逸話に左太夫が登場するので、左太夫が直政から離れたとしてもわずかな期間だったと思われる。

 慶長7年(1602)の分限帳では、戸塚左太夫は1000石を拝領しており、足軽大将を務めた。しかし翌8年に73歳で死去し、家督は2代目左太夫が継承した。

 

  
 参考文献
野田浩子『井伊直政 家康筆頭家臣への軌跡』(戎光祥出版、2017年)
 
 
 典拠史料
『新修彦根市史』6巻
『侍中由緒帳』2
「貞享異譜」「井伊年譜」(彦根城博物館所蔵、未刊)