彦根歴史研究の部屋

彦根や井伊家の歴史について、これまで発表してきた私見の紹介・補足説明・修正など。

井伊直政家臣列伝 その6 鈴木重好(前編) ~「井伊谷三人衆」から直政筆頭家臣へ~ 

鈴木平左衛門尉重勝

 「井伊谷三人衆」の一人、鈴木重時は、父重勝の時代から三河国山家吉田に居住し、足助の鈴木氏と同族という。重勝は天文元年(1532)に青龍山満光寺(新城市下吉田)を造立しており、隣接する柿本城もその頃までに重勝により整備されたと考えられる。

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 重勝は、今川義元三河へ進出してきた際に臣従している。義元は天文15年(1546)冬から三河平定に向けて動き出していたが、天文22年、今川一族の関口氏純からの働きかけによって重勝が被官となったことを示す義元朱印状が現存している。
 その後、永禄3年(1560)の桶狭間の戦い後に徳川家康が今川から離反したのに伴って東三河の者が今川から離れようとした際に、重勝は今川方として行動している。永禄4年9月には、宇利城にいる近藤康用を味方につけて井伊谷へ申し合わせて軍事行動をしたとして、今川氏真から本領安堵と宇利に200貫文の地を所務するようにという判物が下されている。これにより、鈴木氏は今川配下で井伊谷の「井伊衆」という軍事組織に組み込まれて軍事行動をとっていたことと、近藤氏を味方につける(=徳川方へ離反させない)ために重勝が尽力したことがわかる。
 
 このように、鈴木氏は「井伊衆」のなかで三河衆の中核的立場にあったことが窺えるが、婚姻関係からもそのことが推測できる。重勝の息子の重時の妻は奥山朝親の娘であり、井伊直親(直政の父)や中野直之小野朝直とは妻が姉妹同士という関係で結ばれていた。

鈴木三郎大夫重時

 重勝は永禄年間に隠居して重時が当主となる。永禄7年に重時に宛てた今川氏真からの感状が出されているので、その時までに家督を相続していたと思われる。永禄10年までは重時と近藤康用は今川方として対徳川の最前線で戦っていたが、永禄11年12月、家康が遠江に侵攻しようとして菅沼定盈から菅沼忠久へ調略を働きかけたのに両名も同調し、徳川方について家康の遠江進出を手引きした。しかし、重時は翌年の堀江城での戦いで討死した。
 
 重時が討死したとき、嫡子の重好はまだ12歳だったので、重時の弟である重俊が鈴木の兵を率いて出陣した。元亀元年(1570)の姉川合戦の後、翌年に武田氏が遠州犬居・奥山へ兵を向けた際にも近藤らとともに防戦のため出陣したが、その際に重俊は討死した。

鈴木石見守重好

 重好は、元亀3年の三方が原の合戦から出陣し、天正3年(1575)の長篠合戦にも出陣した。これらは近藤・菅沼との「井伊谷三人衆」で一隊を構成していたと思われる。その後、天正12年3月の小牧・長久手合戦の際、鳴海まで出陣した三人衆は、まとめて直政の備えに属すよう家康より命じられ、これ以降、軍事上は井伊隊の配下に入った。
 その後も三人衆は井伊隊に属して出陣している。天正18年の小田原の陣では、鈴木隊は小田原城を囲んでいた井伊隊の別働隊として行動し、武蔵方面に向かった。浅野長政本多忠勝の部隊に同行して岩槻城攻めに加わり、重好は手傷を負っている。
 慶長5年(1600)の関ヶ原合戦では、重好は井伊隊の先手として布陣した。合戦では他の部隊に先んじて一番に馬を入れ、井伊隊で討ち取った首級150のうち53は鈴木隊で討ち取ったものであったという。

 重好の戦功として知られているのが、土佐浦戸城の接収である。合戦後、敵方についた長宗我部盛親の領地を没収することになり、直政は重好を土佐へ派遣した。しかし長宗我部の家臣が浦戸城に立てこもって抵抗し、接収は難航した。そのことを直政に報告すると、重好を叱責する返書が2通送られてきた。12月1日付書状では、あえて入魂な仲である井伊家が赴いたのに抵抗された不手際を叱責し、成果が得られなければ帰ってくるか、そうでなければ家康から軍勢を派遣して悉く討ち果たすのでお前たちもそこで討死するように、と強い口調で指示している。このことは脅しではなかったようで、12月5日の書状では、四国の大名に対し土佐への出陣命令が下りたことを伝えている。同日、浦戸では城の接収に成功し、重好もミッションを成功させた。
 
 慶長7年の分限帳をみると、重好は5500石となっており、直政家臣団のなかで筆頭の石高であったことがわかる。
 
~鈴木家(後編)につづく~
 後編では、なぜ鈴木氏は井伊家の筆頭家臣となったのか、また、その後の鈴木家のゆくえについて述べます。
 
 
参考文献
野田浩子『井伊直政 家康筆頭家臣への軌跡』(戎光祥出版、2017年)
藤井達也「水戸藩家老の家に伝わった中世文書―『水戸鈴木家文書』の紹介―」(『常総中世史研究』3号、2015年)
 
典拠史料
『新修彦根市史』6巻