井伊直政家臣列伝 その23 庵原朝昌 ~今川譜代の名門~
庵原氏の出自
庵原氏の出身は駿河国庵原郡庵原郷という。古代以来ある郷名を名字の地としており、詳細はわからないが古くからの地域の名族と推定されている。戦国時代には大名今川氏の配下にあり、「今川仮名目録」に庵原周防守の名がみえる。家臣が知行を担保として借銭したが返済できなくなり今川氏へ救済を求めることを禁じる条文で、明応年間(1492~1501)の庵原周防守は譜代の忠功のため特段に肩代わりしたと記す。ここから、庵原氏が今川氏にとって重要な譜代の家臣であったことが読み取れる。また、公家の山科言継の日記『言継卿記』には、弘治年間(1555~1558)に駿府に下向していた言継が庵原左衛門尉と交流していたことが記される。
庵原一族からは著名人物が出ている。駿河臨済寺の住持太原崇孚である。雪斎という名の方が知られており、義元の養育係から補佐役となりその政務を支えた人物である。雪斎の父は庵原氏という。
井伊家重臣へ
庵原朝昌は、「貞享異譜」によると、庵原左衛門尉朝綱の嫡子で、駿河庵原庄に代々居住していた家系という。先祖には庵原安房守、左衛門尉朝雅、朝満などがいたと記すので、同家の系図にこのような先祖の名が記されていたのであろう。朝昌が父から家督相続されたのがいまだ今川氏の時代ということなので、弘治年間に山科言継と交流していた左衛門尉は朝昌の父と考えてよいだろう。
朝昌は当初今川氏に仕え、武功も挙げていたが、その後今川氏から離れて武田氏配下に入ったという。「貞享異譜」はその理由を武功を挙げたのに知行不足のためとして朝昌が自らの意志で離反したように記すが、実際には、永禄12年に今川氏真が武田氏からの攻撃に敗北し、駿河が武田氏の支配下に入ったため、駿河の領主は武田配下となったということであろう。
天正10年(1582)の武田氏滅亡後、駿河は徳川の領地となり、地元の武士は次々と徳川と主従関係を結びその配下に入った。そのような頃、朝昌は豊臣秀吉家臣の戸田氏繁のもとにおり、朝鮮出兵に従軍し、慶長元年(1596)に津田信成(秀吉家臣)の仲介によって井伊直政に召し出され、知行1500石を下されたという。ところが、間もなく知行が少ないとして井伊家を去り、牢人していたが、松平忠吉(徳川家康四男、直政の娘聟)の取り持ちにより、直政没後に井伊家に帰参し、500石加増の2000石を下された。
このように、朝昌自身は望んで直政の家臣となろうとした訳ではないが、周囲が働きかけて井伊家重臣に収まったようである。その要因は明らかではないが、駿河の名族であったことと無関係ではないだろう。井伊家でも当初からそのように処遇しようとしていたことがうかがえる。
朝昌の妻は新野左馬助の娘で、その姉妹は木俣・三浦・戸塚など井伊家重臣の妻となっている。彼女は元々北条家臣の狩野主膳正に嫁しており、狩野との間に6人の子どもがいた。北条氏の滅亡後、子どもとともに姉の嫁ぎ先である木俣守勝のもとに身を寄せ、その後朝昌に嫁いだ。時期的に考えて、小田原陣後に井伊家の配下に入ってきた朝昌を井伊家重臣に処遇しようと考えての縁組みと考えられる。しかし、朝昌はその処遇に満足できず井伊家を離れたのである。
朝昌は、出自の良さからくるプライドが強かったように思える。武田氏滅亡後、駿河を領した徳川の配下に入らなかったことや、一旦井伊直政家臣となったもののすぐに飛び出したのは、今川家中では徳川や井伊よりも上位にあったという自尊心からかもしれない。それでも、小田原の陣が終わり社会が安定する方向へ進むと、武家として生き残るには大名に仕えなければならない。そこで、今川旧臣の一大勢力でもある井伊氏の配下に入るよう周囲の者がお膳立てしてくれたのであろう。井伊家側でも、一度出奔し、関ヶ原合戦にも出陣していない朝昌を2000石の高禄で取り立てている。この高は、慶長7年(1602)の分限帳では家臣中6番目に位置しており、破格の厚遇といえる。
大坂冬夏の陣では軍監を務め、陣後には家老に取り立てられた。2代目以降も代々家老役を継承した。2代目の朝真は、母は新野左馬助の娘であり、木俣家2代目の守安とは異父兄弟にあたる。そのような血縁関係も、井伊家重臣の家柄を確立させた要因の一つであろう。