彦根歴史研究の部屋

彦根や井伊家の歴史について、これまで発表してきた私見の紹介・補足説明・修正など。

井伊直政家臣列伝 その8 近藤秀用 ~「井伊谷三人衆」から井伊谷の領主へ~ 

近藤康用(1517生~1588没)

 
 近藤氏は三河国宇利を本拠としていた。「寛政重修諸家譜」には康用の祖父である満用から記載されており、その墓所は宇利村にあったことから、その段階で宇利に拠点を置いていたことがわかる。
 

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 宇利の周辺には「井伊谷三人衆」として行動を共にすることになる鈴木氏・菅沼氏らがおり、彼らと同様、今川の三河侵攻によって今川氏の配下に入った。しかし、桶狭間合戦後に徳川家康が離反したのにあわせ、今川から離反しようとしたらしく、永禄4年(1561)に吉田の鈴木重勝が近藤氏を今川方の味方につける働きをしている。
 鈴木氏と近藤氏は隣接する地域であり関係が深く、親戚関係もあった。両氏とも今川配下として井伊衆の与力に組み入れられたが、鈴木氏の方が井伊氏に近い存在であり、「三人衆」の中で近藤氏は井伊氏ともっとも浅い関係であったようだ。
 それでも、永禄11年12月からの家康による遠江進出では、康用は菅沼忠久鈴木重時とともに家康に味方し、井伊谷周辺の地理を伝えて攻略を助けた。
 その後、甲斐の武田氏が奥三河まで攻め込み、宇利城を囲んだ際には、息子の秀用が敵地へ兵を向けて刈田し、城兵が少ないところを秀用が防戦したとして、家康から感状を下され、あわせて家康から名前の一文字を下されて「康用」と名乗ったという。

近藤秀用(1547生~1613没)

 近藤氏が徳川配下に入った頃、当主康用は高齢で、実戦では息子の秀用が兵を率いた。元亀3年に武田家の山県昌景井伊谷方面に出張してきた際には、地元でもあり菅沼・鈴木らとともに防戦している。長篠の合戦では、酒井忠次鳶巣城を攻める際に秀用が現地の案内をして先手に加わっている。天正10年の若神子の陣では、大久保忠世の隊に属して密かに険しい山を越えて敵を背後から討つなどの活躍をしている。
 このように、徳川と武田との対立では本拠地周辺が衝突の最前線であったため戦場で活躍していたが、天正12年の長久手の合戦の直前に、井伊谷三人衆がまとめて井伊直政隊に属するよう家康から命じられた。
 長久手合戦では、井伊隊は家康隊の旗本先鋒として進軍し、敵の池田恒興森長可らを討ち取るが、この大勝利には近藤秀用ら戦術慣れした者の判断があった。
 家康隊が池田隊らを追い、富士ヶ嶺へ本陣を置くと、まず先鋒の井伊隊が頭狭間へ向かって敵方へ攻めかかった。その際、直政は敵へ正面から攻めかかろうとしたが、近藤らが南の山の中腹を廻って背後から攻めるよう進言した。直政はこれを承知しなかったため、近藤が直政の馬の口を向けてルートを変更させたという。
 近藤は地形をみてとっさの判断で、背後に回り込んで高い位置から攻め降りるよう軍勢を誘導した。合戦経験が豊富な証しであろう。
 
  長久手合戦での井伊隊の動きはこちらから
 
 秀用はその後も上田城攻め、小田原の陣、九戸の陣にいずれも出陣して活躍するが、その後直政配下からはずれて徳川直臣となることを請い、直政のもとを離れたという。息子の季用は、後述するように、奥州出兵に際して家康の直参に取り立てられており、秀用も同様の処遇を求めたのであろうか。しかし、直参への希望は長らく認められず、季用のもとに寓居することとなった。
 秀用は直政存命中はどこへの出仕も認められず、直政没後になり秀忠から召し出されて上野に5000石の領知を得て鉄砲足軽50人組を預けられた。慶長19年には小田原城番となり、大坂両陣にも出陣する。その後、早世した季用が領していた井伊谷周辺の領地を支配することとなり、
秀用の没後はその子孫へと分知される。最終的に、井伊谷とその周辺地域は秀用の子孫である旗本5家の近藤氏により支配された。
 
 近藤氏は、他の二氏にくらべて井伊氏とのつながりが薄かったことや、単独での戦功も挙げていたことから、秀用は「井伊谷三人衆」として井伊隊に付けられるよりも、直臣となることを望んだのであろう。当時は処遇に不満を持ち仕官先を変えることはしばしばあり、秀用も軍功の評価や拝領した知行高に納得できず、直政のもとを去ることを希望したのかもしれない。ただし、秀用はもともと直政と主従関係を結んでいたのではなく、家康から直政に付けられたという関係にあったため、秀用の希望は各侍をどの備えに配属するかという主君の軍事編成権を侵すことになる。そのため近藤の望みは認められず、息子の元に預けられるという処分をうけたのであろう。
 

近藤季用(1573生~1612没)

 秀用の嫡男季用は、当初井伊直政配下にあったが、のちに徳川直臣となる。それは、小田原の陣での戦功が認められてのことと思われる。
 天正18年(1590)の小田原陣では、豊臣方諸大名が小田原城を取り囲み、ほとんど戦闘が行なわれなかったが、唯一の戦闘といえるのが6月22日の篠曲輪攻めであった。篠曲輪は小田原城外郭の山王口の外に築かれた出丸である。井伊隊はそこに夜襲をかけて篠曲輪を落とし、敵の足軽大将小屋甚内を討ち取った。初陣であった秀用は長野業実とともに一番乗りの武功をあげたとして、秀吉の本陣に召し出され、南部黒の馬と紅裏の胴服を褒賞として拝領したという。(「井伊年譜」)
 
  小田原の陣での井伊隊の動きはこちらから

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 この武功の影響であろうか、季用は奥州出兵に際して家康直臣となり、朝鮮出兵では小姓として家康に同行した。関ヶ原合戦でも徒頭として家康に供奉した。合戦後、井伊谷に3500石の領知を得た。
 季用は慶長17年に死去したため、井伊谷の支配は父秀用に任される。その後、旗本近藤氏は季用の嫡男の家系(近藤登助家)など5家にわかれ、井伊谷周辺地域などを治めた。
 
 
 参考文献
野田浩子『井伊直政 家康筆頭家臣への軌跡』(戎光祥出版、2017年)
 
典拠史料
「井伊年譜」
寛政重修諸家譜