彦根歴史研究の部屋

彦根や井伊家の歴史について、これまで発表してきた私見の紹介・補足説明・修正など。

史料に登場する井伊直政の足跡 第5回小田原の陣唯一の戦闘地「篠曲輪」

前回から随分時間が経ってしまいましたが、
引き続き、小田原の陣での井伊隊の動向について。

 

天正18年(1590)の小田原の陣。

豊臣政権によって動員された諸大名は小田原城を囲んだが、徳川勢は城の東、山王川と酒匂川の間に陣を敷いた。家康の陣は海岸から約1㎞、現在の寿町に置かれた。その地には「徳川家康陣地跡の碑」が建っている。

 

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井伊隊は徳川勢の中でも、もっとも海岸近くに布陣した。

小田原の陣では戦闘はほとんど行われなかったが、その中で唯一といっていい戦闘が6月22日の篠曲輪への夜襲であった。

篠曲輪は小田原城外郭にある山王口の外に築かれた出丸である。井伊隊は篠曲輪を落として旗を建てたが、北条方が城中より出てきて防戦し、味方の援護もなくそれ以上攻め入ることはできず、退いた。ただ、ここで曲輪を落として敵兵を討つという戦果を挙げたことは大きく、翌23日、一番首を挙げた近藤季用と長野業実は秀吉の本陣へ召し出され、秀吉に対面して褒美を下された。

北条氏は小田原城の周囲を総構で囲み、籠城して豊臣との戦いに挑んだ。山王口は総構の出入り口で、海岸線に沿った総構が折れ曲がる角に位置する。篠曲輪は山王口の外にあったということなので、総構えと山王川の間に位置していたと考えられる。

 

そこで現地に行ってみた。

付近には江戸口見附の一里塚がある。国道の広い道沿いにあるが、それもそのはず、東海道が今の国道1号であり、東海道が江戸方面から小田原城下に入る入り口が見附である。

北条氏時代の遺構としては、近くに総構の一部である蓮上院土塁が現存している。土塁の外側には堀が掘られていたはずである。

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蓮上院土塁の延長線上をたどり山王口付近に行くと、北条稲荷神社があった。海岸線と平行に築かれた総構の跡とみられる直線の道筋が突き当たった三角地にある。国道側(写真左側)が低くなっており、総構の痕跡と思われる。

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↑北条稲荷神社

 

引き続き篠曲輪跡をめざす。
山王川沿いに山王神社がある。その一角に「旧山王原村の図」という案内板が建てられていた。これを参考にして考えると、当時の街道は山王口から出ており、東海道(現在の国道1号)よりも数十メートル海岸川を通っていた。この道沿いには、山王川、山王神社の裏から山王川に流れ込む支流,、総構の堀と、三方を水路で囲まれた一帯があったことになる。このあたりが山王口の外に築かれた篠曲輪ではないだろうか。

 

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左:山王神社内の案内板  右:山王川から山王神社方面