井伊直政家臣列伝 プロローグ 井伊谷七人衆
新シリーズとして「井伊直政家臣列伝」の連載を開始します。
『井伊直政 家康筆頭家臣への軌跡』では、直政家臣のことも多く触れています。中には、史料を調べる中で新しくわかってきたこともあります。ただ、この本は直政が主役なので、家臣についてはわかったことすべてを出してはいません。
そこで、毎回直政家臣を1人ずつ(場合によっては数名になるかも)とりあげ、それぞれの活動や直政との関係を示していきます。
最初は、直政が井伊氏当主となる以前に井伊氏の中核を担っていた者についての新しい見解についてです。
それではどうぞ。
それではどうぞ。
プロローグ 井伊谷七人衆 ~直政以前の井伊家家臣~
井伊谷七人衆とは・・・?
初めて目にする方も多いだろう。
まず、辞書的な定義を述べると、
となる。
七人衆のことを初めて紹介したのは、『井伊直政 家康筆頭家臣の軌跡』においてあった。典拠は『譜牒余録』。江戸時代に幕府が諸大名から提出させた家譜・文書をもとに作成した編纂物で、菅沼主水の由緒を記す部分にこの七人のことが記されており、著書でそのことを紹介した。
一方、「井伊谷三人衆」という表現は江戸時代から使われている。家康の遠江進出の際に井伊谷へ手引きをした三人としてそのように称された。しかし三氏の本拠地は井伊谷ではなく、遠江との国境に近い三河国内である。その彼らが井伊谷においてどのような影響力を持っており、家康を井伊谷に引き入れることができたのだろう。なぜ「井伊谷」三人衆と呼ばれてきたのだろう。これまでは、それらについて充分に納得できる説明がされてきていないように思う。
そこで、「三人衆」を含む七人衆とは当時の井伊谷でどのような存在だったのか、考えていきたい。
そこで、「三人衆」を含む七人衆とは当時の井伊谷でどのような存在だったのか、考えていきたい。
当時の井伊氏は、戦国大名今川氏の配下にある「国衆」と位置づけられる。国衆とは、一定領域を支配していた地域権力である。大名今川氏が命じる軍事動員に従うかわりに所領支配が認められるという関係にあった。井伊氏は西遠江の有力国衆で、周辺の者を動員してしばしば今川氏の軍事動員に応じている。
実際、井伊氏の軍勢が今川の要請に応じて出陣したものとして次のものがある。
- 永禄3年(1560)、今川義元、尾張方面へ出陣。桶狭間で当主井伊直盛も討ち死にする。
- 永禄6~7年頃、反今川の動きを見せた八幡山城主天野氏、引馬城主飯尾氏に対して今川は井伊氏にも出兵を命じる。井伊氏は井伊直平や新野親矩・中野直由が陣代として井伊衆を率いて出陣した。
この二例より、永禄6~7年頃に当主が不在となっていても、一族が当主代理(陣代)を務めて軍事組織を統率していたことがわかる。
つまり、井伊氏はリーダーが不在の時期には有力家臣らが分担して地域権力としての仕事をしており、組織は機能していたと考えるのがいいだろう。似た例としては、豊臣秀吉の没後、幼少の当主秀頼のもとで五大老・五奉行によって政務が執行されていたことが思い浮かぶ。
つまり、井伊氏はリーダーが不在の時期には有力家臣らが分担して地域権力としての仕事をしており、組織は機能していたと考えるのがいいだろう。似た例としては、豊臣秀吉の没後、幼少の当主秀頼のもとで五大老・五奉行によって政務が執行されていたことが思い浮かぶ。
近年の戦国大名研究によると、戦国大名の周辺で外交交渉などの政務は側近や一門が担っていたことがわかっている。井伊氏にあてはめると、側近とは家老小野氏、一門としては中野氏、新野氏などが相当すると考えられる。
また、大名の軍事編制では、地域の拠点となる城を置き、その城主や家臣に加えて周辺の中小の国衆・土豪を与力として配属させて部隊を編制していた。具体的に述べると、井伊氏を中核として「井伊衆」という軍団が編制されて今川からの軍事動員にこたえていた。井伊衆の構成員は井伊氏の一門・家臣に加え、その周辺で今川の配下にある武家も多くいたと考えられる。彼らは井伊氏の家臣ではなく、軍事組織として配下にある関係で、同心・与力などと呼ばれた。この編制は軍事上にとどまらず、政治的にも井伊氏は大名今川氏と与力との間を仲介した。例えば与力が軍事上の功績や政治的な願出をする際には井伊氏を通じて行なわれている。
東三河の菅沼・鈴木・近藤は、井伊衆の与力という立場にあったと考えられる。それを示す文書として、永禄6年5月22日付の今川氏真から鈴木重勝に宛てた感状がある(『静岡県史』資料編7所収)。これは、鈴木が山中・大野郷の百姓を今川の味方につけたことを賞するもので、本文中に井伊谷から注進(報告)があったと記している。この頃、桶狭間の戦いの敗北によって徳川家康など今川からの離反者が出ており、東三河から遠江にかけて今川対反今川の争いが繰り返されていた。そのような中、鈴木が山中・大野郷の百姓を今川方に引き込むことに成功したため、その旨が井伊氏を通じて今川へと報告された。この感状は報告を受けた今川が鈴木の活動を賞したものである。
鈴木の功績が井伊氏を通じて今川へ報告されており、鈴木氏が井伊衆の配下にある与力であったと考えられる。
このように、鈴木ら「三人衆」は与力として井伊氏と密接な関係を持っていたと思われる。このほか、七人衆を構成する松下氏や松井氏も井伊氏の家臣ではないが、同様に井伊氏と関わりが深く、当主不在時期の井伊氏を主導したと考えられる。
また、大名の軍事編制では、地域の拠点となる城を置き、その城主や家臣に加えて周辺の中小の国衆・土豪を与力として配属させて部隊を編制していた。具体的に述べると、井伊氏を中核として「井伊衆」という軍団が編制されて今川からの軍事動員にこたえていた。井伊衆の構成員は井伊氏の一門・家臣に加え、その周辺で今川の配下にある武家も多くいたと考えられる。彼らは井伊氏の家臣ではなく、軍事組織として配下にある関係で、同心・与力などと呼ばれた。この編制は軍事上にとどまらず、政治的にも井伊氏は大名今川氏と与力との間を仲介した。例えば与力が軍事上の功績や政治的な願出をする際には井伊氏を通じて行なわれている。
東三河の菅沼・鈴木・近藤は、井伊衆の与力という立場にあったと考えられる。それを示す文書として、永禄6年5月22日付の今川氏真から鈴木重勝に宛てた感状がある(『静岡県史』資料編7所収)。これは、鈴木が山中・大野郷の百姓を今川の味方につけたことを賞するもので、本文中に井伊谷から注進(報告)があったと記している。この頃、桶狭間の戦いの敗北によって徳川家康など今川からの離反者が出ており、東三河から遠江にかけて今川対反今川の争いが繰り返されていた。そのような中、鈴木が山中・大野郷の百姓を今川方に引き込むことに成功したため、その旨が井伊氏を通じて今川へと報告された。この感状は報告を受けた今川が鈴木の活動を賞したものである。
鈴木の功績が井伊氏を通じて今川へ報告されており、鈴木氏が井伊衆の配下にある与力であったと考えられる。
このように、鈴木ら「三人衆」は与力として井伊氏と密接な関係を持っていたと思われる。このほか、七人衆を構成する松下氏や松井氏も井伊氏の家臣ではないが、同様に井伊氏と関わりが深く、当主不在時期の井伊氏を主導したと考えられる。