井伊直政家臣列伝 その5 菅沼忠久 ~「井伊谷三人衆」の家~
菅沼一族
菅沼氏は戦国時代、三河国東部の設楽郡に本拠を置いた一族で、嶋田、長篠、田峯、野田などを領する家に分立していた。
長らく駿河の今川氏の配下にあり、本拠から国境を越えて遠江へも勢力を伸ばしている。永正年間(1504~1521)、駿河の戦国大名今川氏親が遠江への侵攻をはかって遠江守護の斯波氏と対立し、西遠江各地で戦闘が繰り広げられていた際には、引間城の大河内氏や三岳城の井伊次郎が斯波方として戦う中、野田菅沼の定則が今川方として戦功をあげ、遠江国河合・高部郷を恩賞として与えられている。
井伊谷とは国境を挟むが距離的には近く、古くから井伊谷周辺の勢力とも関わりを持っていた。
長らく駿河の今川氏の配下にあり、本拠から国境を越えて遠江へも勢力を伸ばしている。永正年間(1504~1521)、駿河の戦国大名今川氏親が遠江への侵攻をはかって遠江守護の斯波氏と対立し、西遠江各地で戦闘が繰り広げられていた際には、引間城の大河内氏や三岳城の井伊次郎が斯波方として戦う中、野田菅沼の定則が今川方として戦功をあげ、遠江国河合・高部郷を恩賞として与えられている。
井伊谷とは国境を挟むが距離的には近く、古くから井伊谷周辺の勢力とも関わりを持っていた。
菅沼忠久とその家系
「井伊谷三人衆」の菅沼忠久は、『寛政重修諸家譜』によると、父元景の代から井伊直親に仕えたという。また、「都田 菅沼次郎右衛門忠久」とも見え、井伊谷周辺の都田に居住していたと思われる。忠久やその父は一族からみれば庶流であり、長篠を離れて井伊氏の配下にあったのである。 家康は遠江を領すると、次に武田氏との戦いが続いた。「三人衆」の本拠地である奥三河は武田が南下してくるルートにあたり、家康は彼らを最前線で武田の侵攻から守るためそこに配備した。その後、天正10年(1582)末に井伊直政は家康から侍大将に取り立てられ、天正12年の小牧・長久手の合戦にその部隊がはじめて出陣することになった。この出陣に際して、「三人衆」は井伊隊に属することとなった。ただし、忠久の履歴には長久手合戦への出陣はなく、死去した年代は天正10年と文禄4年の二説ある。
忠久またはその跡を継いだ忠道が直政に仕えたが、忠道には跡継ぎがないまま死去したため断絶する。『寛政重修諸家譜』には忠道の子の次郎右衛門勝利が幼少につき井伊家に仕えず江戸へ行き、のちに将軍秀忠に仕えたという。一方、「侍中由緒帳」(菅沼次郎右衛門家)では、次郎右衛門の女子二人のうち旗本永見新右衛門へ嫁して生まれた男子を旗本に取り立て、母方の菅沼姓を称したという。一方「御侍中名寄先祖付帳」では、この人物を次郎右衛門の落とし子という。いずれにしても、忠久の子孫は旗本の家だけが継承されていたが、天保15年(1844)、彦根藩士として次郎右衛門の家が再興された。忠久の娘の一人が彦根藩重臣の長野十郎左衛門家へ嫁していたため、長野氏の次男に10人扶持を与えて菅沼次郎右衛門の名跡を継承させている。
江戸時代後期になり由緒を重んじる意識が高まっており、彦根藩では井伊氏先祖に関わりの深い家をいくつか再興させているが、菅沼家もその一つと考えられる。
<家系>
初代 忠久
2代目 忠道 無嗣断絶
(旗本の家) 勝利 忠久の孫または落とし子、旗本の家として継承
再興 次郎右衛門 天保15年に彦根藩士の家を再興
江戸時代後期になり由緒を重んじる意識が高まっており、彦根藩では井伊氏先祖に関わりの深い家をいくつか再興させているが、菅沼家もその一つと考えられる。
<家系>
初代 忠久
2代目 忠道 無嗣断絶
(旗本の家) 勝利 忠久の孫または落とし子、旗本の家として継承
再興 次郎右衛門 天保15年に彦根藩士の家を再興
忠久の弟の家系
一方、忠久の弟の子である定重は、17歳で召し出されて、直政の小姓として仕えている。ただし、関ヶ原合戦後、200石取となったが井伊家を離れて伊勢長島城主菅沼定芳(菅沼定盈の家系)の家臣となった。井伊家を離れたのは、関ヶ原合戦後の恩賞に満足しなかったからともいう。定芳のもとで当初は客分として300石、のち400石下され大坂の陣に出陣した。ところが、定芳の家督を継いだ定昭が無嗣断絶となったため、定重の跡を継いだ定朝は牢人となった。そのため、彦根藩に願い出て、寛文2年(1662)、井伊直澄より200石取で召し出された。以来、安永10年(1781)に6代目が改易されるまで、代々井伊家に仕えた。<歴代>
初代父 新右衛門 忠久の弟、病弱につき奉公せず
初代 新三定重(『寛政重修諸家譜』では作左衛門重吉としている) 直政小姓、関ヶ原合戦後、菅沼織部正に付く
2代目 作左衛門定朝 菅沼織部正家断絶後、寛文2年に彦根藩へ召出
菅沼淡路守家
菅沼姓をもつ直政家臣として菅沼淡路守がいる。慶長7年(1602)には菅沼藤太郎、同12年には菅沼淡路が1000石拝領しており、同一人物と考えられる。淡路は元和元年(1615)に井伊直継に付いて安中藩士となった。ただし、掛川分限帳には菅沼氏の名は見られなくなっており、掛川在城時(1659~1706)までに井伊家を離れた(または断絶)と思われる。菅沼淡路守(初代)は奥山親朝の娘と縁組みしている1人として奥山氏の系図に記されている。親朝の娘の1人に井伊直政の母がおり、直政と姻戚関係があったことになる。淡路守は『寛政重修諸家譜』などで確認できず菅沼一族の中での位置関係は不明であるが、「淡路守」という国司の官名を称しており、少なくとも「次郎右衛門」を称していた忠久より格上の人物であったと思われる。 直政家臣となった菅沼一族の中でもっとも知行が高く厚遇されたのは、親戚関係や元々の家格によるといえよう。
<歴代>
初代 淡路守:妻は奥山親朝娘
2代目 藤太郎、のち淡路と改称 井伊直継に付き安中藩へ
<歴代>
初代 淡路守:妻は奥山親朝娘
2代目 藤太郎、のち淡路と改称 井伊直継に付き安中藩へ
そのほか、菅沼郷左衛門三房も井伊谷出身という出自を持ち、忠久と近い同族と思われる。天正12年の長久手の陣より直政に御供している。直政の代には200石取であった。彦根藩士の家としてはこの家だけが幕末まで途切れず続いている。