井伊直政
高野山の奥の院、一の橋から弘法大師の御廟までの参道の両側には、戦国武将や大名の墓が多く建てられていることはよく知られている。 その中に井伊直政のものもある。御廟に向かう奥の院参道の左側、参道から少し奥に入ったところに、井伊家の墓所が2か所あ…
戦国武将や江戸時代の大名は、菩提寺のほかにも、ゆかりの地に廟所・供養塔が造られたり、位牌が置かれて供養されていることがあります。井伊直政の場合も墓所のある清凉寺のほかにゆかりの菩提所がいくつかありますので、それぞれを紹介していきます。 まず…
実際に交戦のあった戦いでは、それぞれの部隊がどのような規模でどのような動きをしたのかといったことはよく紹介されているが、実戦にはいたらなくとも、軍事部隊が出動する機会は多くあった。規模の大小はあれ、日常的にも城の入り口や領地の境界、交通の…
”天下分け目”の関ヶ原合戦(慶長5年9月15日の関ヶ原での戦いだけでなく、同年7月の石田三成挙兵から講和成立まで)の中で、東軍(徳川勢と親徳川の豊臣諸将)が岐阜城を1日で落城させたことが、その後の戦況に大きく影響したことはよく知られている。 今回…
前回より時代は遡りますが、天正12年(1584)、直政が侍大将となって初めての大きな戦い、長久手合戦での井伊隊の動きを探ります。 小牧・長久手の戦いで、井伊直政は徳川家康の旗本隊の先鋒として布陣していた。家康は小牧山城に入っていたが、秀吉方の別働…
前回から随分時間が経ってしまいましたが、引き続き、小田原の陣での井伊隊の動向について。 天正18年(1590)の小田原の陣。 豊臣政権によって動員された諸大名は小田原城を囲んだが、徳川勢は城の東、山王川と酒匂川の間に陣を敷いた。家康の陣は海岸から…
天正18年(1590)、豊臣政権は臣従した諸大名に小田原への出陣を命じ、強大な軍事力で小田原城を取り囲んで北条氏を滅ぼした。 このとき、徳川家康にも出陣が命じられ、井伊直政も部隊を率いて出陣した。徳川勢は駿府から東海道を東に向かい、長久保城(静岡県…
久しぶりの更新となります。「史料に登場する井伊直政の足跡」第3弾です。 今回は、井伊隊がはじめて家康から出陣を命じられた「高遠口」の地を探します。 天正11年(1583)正月12日付で、徳川家康から井伊直政へ宛てた直筆書状が残っている。そこには「急ぎ…
「史料に登場する井伊直政の足跡」第2弾です。 今回は、直政初陣の「芝原合戦」の地を探します。 直政の初陣は、天正4年(1576)のことで、芝原合戦とされているのは『井伊直政 家康筆頭家臣の軌跡』でも触れた。 「井伊家伝記」や「井伊年譜」には、芝原…
井伊直政の事績を調べ、いつどこにいたのかという行動ルートを史料から追っていったところ、すぐに判明したこともありますが、場所が特定しづらい場合もありました。場所がわかっても、なぜこの場所なのか? と考えが広がることもあります。そういった場合、…
井伊直政といえば、従来、「徳川四天王」や、「井伊の赤備え」というキーワードが示されていたように、徳川家康の重臣の一人としては認識されていましたが、活躍した場面は関ヶ原合戦や小牧長久手の合戦など、戦場で活躍した人物と思われていました。 それに…
「小山評定」といえば、関ヶ原の合戦の直前、会津の上杉氏へ兵を向けていた徳川家康や豊臣恩顧の諸将らが小山(栃木県小山市)に進軍したところで、上方で石田三成が挙兵したことを聞き、引き返して石田方へ兵を向けることを決めた軍議として知られています。…
関ヶ原合戦で徳川家康をもっとも苦しめたといえるのが真田昌幸。戦後、家康は昌幸を生かしておくつもりはありませんでしたが、井伊直政の交渉術によって昌幸の命は助けられたと伝わります。 ここでは、その話を記す史料を紹介します。 この話は、真田家文書…
写真のなかった時代の人物は、肖像画が残っているとどんな人だったのかイメージしやすいものです。でも何種類もあると、どれが本人に近いのだろう?と思いますよね。 井伊直政の肖像画は数種類残っています。よく使われているのは、『井伊直政 家康筆頭家臣…
『井伊直政 家康筆頭家臣への軌跡』を刊行したことで、いくつか取材を受けました。その中で聞かれたことで、著書の中に記していなかったことをここで記しておきます。 井伊直政が家康の鷹狩の際に偶然対面して家臣となったという逸話について。 直政が家康に…
直政が実績を残した最初の大仕事は何でしょうか? それは、天正10年(1582)8月から10月にかけて甲斐国で北条氏と戦い、旧武田領を手に入れた「天正壬午の乱」と断言できます。 この年の3月に武田氏は滅亡し、旧武田領は織田信長の支配下となりますが、6月の…
『井伊直政 家康筆頭家臣への軌跡』のテーマは、 井伊直政はなぜ徳川家康の筆頭家臣に取り立てられたのか? という理由を探ることでした。 結論だけを言ってしまえば、 名門の出自+外交交渉能力 この2つが直政を家康筆頭家臣にしたと考えられます。 まず出…
大河ドラマ「おんな城主 直虎」では、若き日の井伊直政が松下源太郎の養子となって松下家の跡継ぎとなっていたのに、井伊家を復興したい思いから家康へ井伊の名を名乗ることを願ったと描かれていました。 数少ない史料のすきまを埋めてドラマ化したのでこう…
昨日(10月16日)のNHKテレビ「鶴瓶の家族に乾杯」は彦根が舞台で、大河ドラマで井伊直政役を演じている俳優の菅田将暉が彦根で井伊直政ゆかりのものに触れていました。その中で、彦根城博物館で井伊家当主の「赤備え」の甲冑を見学したとき、説明してい…