彦根歴史研究の部屋

彦根や井伊家の歴史について、これまで発表してきた私見の紹介・補足説明・修正など。

史料に登場する井伊直政の足跡 第4回小田原への道「箱根から宮城野」

天正18年(1590)、豊臣政権は臣従した諸大名に小田原への出陣を命じ、強大な軍事力で小田原城を取り囲んで北条氏を滅ぼした。


このとき、徳川家康にも出陣が命じられ、井伊直政も部隊を率いて出陣した。徳川勢は駿府から東海道を東に向かい、長久保城(静岡県長泉町)で秀吉を迎えて、そこから箱根の山越えをして小田原へ向かった。この時の井伊隊の進軍ルートとして、次のような逸話がある。

このときの先手は榊原隊であったが、直政は家臣の三浦安久を呼び、間道を知らないかと尋ねた。三浦は駿河の出身であり、この地の地理に詳しいと考えたためである。そこで三浦は、細道ではあるが人馬が往還できる道があり、箱根二子山の北より険隘な道を進むと小田原城の北、宮城野という所へ出ると答えた。これにより、直政は三浦に案内役を命じてこの道を進み、榊原隊より一日先に宮城野に到着したという(「井伊年譜」)。
(『井伊直政 家康筆頭家臣への軌跡』119頁)

 

箱根や小田原周辺の地理に詳しくないとどこを通ったのかわからないので、地図で確認し、先ごろ箱根に行ってみた。やはり現地に行くと、どのルートを通ったのか理解しやすい。

 

「井伊年譜」には、直政が三浦安久を呼んでルートを検討したのは、初音原であったと記されている。そこから箱根方面へ向かい、箱根二子山から北へのルートをとったという。

まず「初音原」について。

「初音台」という地名が三島市にあり、東海道が箱根方面の山道に入る手前に位置している。山越えの準備をするのにふさわしい場所である。

 


ここから東海道を東へ進むと、山中城、箱根峠、そこから須雲川沿いに下ると箱根湯本へ至る。この道沿いには北条氏の菩提寺である早雲寺もある。榊原康政隊は箱根峠から早雲寺方面へほぼ直線で結ばれた東海道を通って小田原まで進んだのであろう。

 

f:id:hikonehistory:20180724141441j:plain

f:id:hikonehistory:20180724142748j:plain

 北条氏の菩提寺 早雲寺

 

それに対し、井伊隊は二子山の北から宮城野へと出たとされている。

二子山とは、箱根関所から北東方面に見える上二子山と下二子山の二つの峰からなる山のこと。そして、宮城野とは、強羅や宮ノ下の北側に位置する。
つまり、井伊隊は箱根峠から芦ノ湖の東岸、箱根関所のある道を通り、二子山の西側を通る道を進んで小涌谷方面へ向かうルートをとったと考えられる。

そうすると、最終目的地が宮城野というのは疑問に感じ、別の史料を見たところ、「井家新譜」には「小田原城北宮野口」に着いたとある。宮野口を宮城野と誤解(あるいは写し間違い)したのだろうかと思い、次に小田原城周辺で「宮野口」を探したが、見当たらない。「久野口」はあったが・・・。これも誤認だろうか。

最終的に徳川が陣を敷いたのは小田原城の北東側、山王川の対岸であった。

 

榊原隊を追い越すことをめざした、とか、三浦安久を呼んで間道を尋ねた、などはいかにも逸話っぽいので信用するに足りないが、各部隊が分散して目的地をめざすのは不自然ではないので、井伊隊はこのルートを通って小田原に向かったと考えてよいだろう。