彦根歴史研究の部屋

彦根や井伊家の歴史について、これまで発表してきた私見の紹介・補足説明・修正など。

井伊直政家臣列伝 その25 遠江・駿河・三河出身の諸士

これまでみてきた家臣以外で、井伊氏の出身地である遠江やその周辺の駿河三河出身の者をまとめて示しておく。戦国時代は今川の領国であった地域であり、ほとんどが今川配下にあったという由緒をもつ。

 

芦名元勝
 芦名助兵衛元勝は、「貞享異譜」によると、生国は駿河で今川家に奉公していたが、跡目不足につき今川家を退き浪人していたところ、箕輪で井伊家へ召し出されたという。筋奉行のほか、西郷伊与の代わりに町奉行を務め、関ヶ原合戦時には高崎の留守居を務めたとある。関ヶ原へは息子の作十郎勝秀が出陣している。勝秀はそれ以前に小姓として召し出されていた。
 慶長七年(1602)の分限帳では、芦名助兵衛は1000石取、息子の作十郎は「御供之衆」として400石取と記される。
 また、直勝に付いて安中へ移った家臣の中に芦名勘解由がいる。

 

小野田為盛
 「由緒帳」「貞享異譜」によると、小野田彦右衛門為盛は三河小野田の出身で、今川家被官の安達讃岐守の子という。引馬城主飯尾豊前守の配下にあったが、引馬城の内乱の時に為盛の働きで家康方が引馬城を手に入れることができたとして、為盛は旗本へ加えられた。その後、天正12年(1584)の前に井伊直政のもとへ付けられたという。
 三河国小野田(豊橋市)は、中世には賀茂社領の小野田庄があった地であり、為盛は荘官の一族かもしれない。
 引馬城の内乱とは、桶狭間の合戦後に三河遠江の諸士が今川から離反する中で、引馬城主飯尾氏が今川氏真により永禄8年(1565)に討たれ、城に残った配下の者が徳川派と武田派に分かれて対立したことを指すのであろう。
 天正12年に井伊直政へ付けられたということは、長久手合戦前であり、井伊隊の創設に伴い家康が付けた者の一人ということができる。
 箕輪城時代に母衣役、文禄2年(1593)には足軽20人の大将に取り立てられ、関ヶ原合戦に臨んだ。
 慶長七年(1602)の分限帳では、小野田小一郎として700石取と記される。

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犬塚正長
 犬塚求之介正長は、「由緒帳」「貞享異譜」によると、生国は三河で、父は旗本の犬塚太郎左衛門正忠、兄平右衛門忠次がその跡を継いで旗本の家として存続している。正長自身は箕輪で召し出されて小姓・小納戸役を務めた。関ヶ原合戦時には武功を挙げた褒美として、直政から緋縅の具足を拝領したという。
 兄犬塚忠次は旗本で、『寛政重修諸家譜』にも記される。普請奉行を務め、彦根城築城時にもたずさわったとある。
 慶長七年(1602)の分限帳では、犬塚三四郎として700石取と記される。

海老江里勝
 「貞享異譜」によると、海老江勝右衛門里勝は駿河の生まれで今川家に仕官していたが、親跡目不足により今川を退き、天正12年(1584)より横須賀城大須賀忠政に奉公していた。その後旗本に召し寄せられ、徳川直臣として長久手陣より奥州九戸陣まで出陣。その後、高崎在城時に井伊家に付けられ、30人組の足軽大将となり、関ヶ原陣に出陣後、褒美として100石加増されたほか、十文字鎗を拝領したという。
 今川家臣としての海老江氏は、今川氏真が武田・徳川に敗れて大名としての立場を失った後も従った海老江弥三郎がいる。弥三郎は天正5年までは氏真のもとにいたが、このとき残っていた家臣のほとんどに暇が与えられており、弥三郎も氏真のもとを去ったと思われる。弥三郎と里勝の関係は不明であるが、一族であろう。
 里勝の動向は、「貞享異譜」の年代は不正確であるが、今川を離れて大須賀忠政、徳川直臣を経て井伊直政に付けられるという過程を経たことは間違いないだろう。
 慶長七年(1602)の分限帳では、海老江庄右衛門として600石取と記される。


斎藤昌形
 斎藤昌形は、はじめ豊前、のち半兵衛と称した。
 駿河上井出村出身で、武田配下の小幡衆で、武田氏滅亡後、井伊直政の家臣となり、近習を務めたという。
 天正10年(1582)の天正壬午の乱の中で、徳川方に帰属した武田旧臣に対して井伊直政が奉者となって本領安堵状が出されているが、斎藤半兵衛へ駿州上井出を安堵したものがある。本領はもともと今川の領国であるため、元は今川配下にあり、その滅亡後に武田配下となったと考えられる。
 慶長七年(1602)の分限帳では、斎藤半兵衛は「御供之衆」として600石取と記される。

 

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朝比奈泰広
 朝比奈藤右衛門泰広は、駿河の今川氏に奉公し、今川滅亡後は小田原の松田尾張のところにおり、井伊家へは上野箕輪時代に召し出された。諸礼に通じた人物であったという。
 朝比奈氏は今川家臣で掛川城主の朝比奈泰能、泰朝らがよく知られている。泰能は井伊直親を討ったことで井伊家の歴史に名前が出てくる。そのほかにも朝比奈氏は今川配下に多くの一族がおり、泰広の父もその一人と思われるが、彦根藩関係の記録には泰広の父の名前を示したものはなく、朝比奈一族の中での関係はわからない。今川氏滅亡後に仕えた松田尾張は北条氏の家臣で、小田原衆筆頭の松田憲秀のこと。小田原陣で北条氏が滅亡した後に井伊直政の配下に入った。
 慶長七年(1602)の分限帳では、朝比奈藤右衛門は「御供之衆」として500石取と記される。


勝歳重
 勝五兵衛歳重は、生国は三河で、足助殿のもとにあり、足助殿死去の後、家中は残らず家康へ召し出されたが、歳久は井伊直政が存じていたので箕輪城時代に召し出したという。使番を務め、関ヶ原陣前には伊達政宗のもとへ使者を務め、合戦後には島津氏との交渉の使者として薩摩へ遣わされている。
 足助殿とは、足助城主であった鈴木氏のことであろうか。いずれにせよ、勝氏の出身は足助周辺であろう。
 慶長七年(1602)の分限帳では、勝五兵衛は「御供之衆」として350石取と記される。


渥美広勝
 「貞享異譜」によると渥美与五左衛門広勝は生国は三河で、横須賀城大須賀出羽守の配下にいたが、国替えの時に暇を乞い浪人した。その後上州高崎にて直政に召し出されたという。
 三河の渥美氏といえば、家康家臣の渥美友勝、大須賀康高配下の渥美勝吉などがいる。広勝もその一族であろう。
 慶長七年(1602)の分限帳では、渥美与五左衛門として300石取と記される。

 

加藤高正
 加藤権太夫高正は、「貞享異譜」によると、生国は駿河出今川家に奉公していた。先に井伊家に仕えていた三浦五郎右衛門高連の弟で、故あって加藤と苗字を改めていたという。高連は三浦十左衛門安久の弟ということなので、高正は両名の弟となる。高正も兄のつながりで井伊家へ召し出されたのであろう。
 慶長七年(1602)の分限帳では、加藤権太夫は確認できない。当時は別の名を称しておりのちに権太夫と改称したと思われる。「由緒帳」では、高崎での召出時に500石、「貞享異譜」では300石と記す。
 大坂冬・夏の陣ではいずれも鉄砲足軽大将を務めている。


匂坂長知
 「由緒帳」「貞享異譜」によると、匂坂作太夫長知は三河岡崎の生まれで、匂坂式部の二男。幼少期より家康の小姓として仕え、その後、家康により直政へ付けられたという。直政のもとでは側役を務めていたが、「由緒帳」には、高崎時代、関所に入り込んだ者を仕留めた際に手傷を負い、不自由となったため、務めがたいとして出仕を離れたとある。一方、「貞享異譜」には関ヶ原陣への出陣、大坂陣では老年ゆえ城代加役を務めたとする。
 匂坂氏といえば、遠江豊田郡匂坂(磐田市)を本拠とする一族が知られる。今川配下にあったが、家康の遠江侵攻に際して徳川配下となっている。その末裔は幕臣となっているが、「寛政重修諸家譜」には匂坂式部は確認できない。それでも、長知が家康小姓となっていることから、この一族であることは間違いないだろう。
 また、永禄11年(1568)の井伊谷徳政にも匂坂氏が登場する。徳政実行に向けて駿府へ赴き今川方と交渉した人物が匂坂直興で、彼は井伊谷に何らかの権益を有していたことがわかる。

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 宮崎安実・安長
 宮崎十右衛門安実は、はじめ十内とも称していた。遠江横須賀城大須賀康高に仕えていたが、国替えのときにから暇乞いして浪人していた。安実は鳴海城主渥美大夫の惣領聟であった縁で直政が知っており、牢人であれば井伊家へ来るようにという直政からの誘いにより、召し出されたという。その息子の甚太夫(はじめ与一郎と称す)安長も、関ヶ原陣には父とともに出陣している。
 慶長七年(1602)の分限帳では、宮崎与一郎が100石取と記され、「切符衆」として十右衛門が25石下されている。

 

  

 参考文献
野田浩子『井伊直政 家康筆頭家臣への軌跡』(戎光祥出版、2017年)
 『愛知県の地名』(平凡社
『戦国人名辞典』(吉川弘文館
 
  典拠史料
『新修彦根市史』6巻
『侍中由緒帳』
「貞享異譜」「井伊年譜」(彦根城博物館所蔵、未刊)