彦根歴史研究の部屋

彦根や井伊家の歴史について、これまで発表してきた私見の紹介・補足説明・修正など。

井伊直政家臣列伝 その24 横地吉晴 ~遠江の名門から北条重臣へ~ 

横地氏の出自

 横地吉晴は、元は北条氏家臣で、北条氏滅亡後に井伊直政の家臣となった人物である。
 「貞享異譜」には、吉晴は武蔵国八幡山城主横地監物吉勝の長男で、幼名は与三郎、本国は遠江国と記す。

 ここで遠江国を本国と記したのは、先祖を遠江武家横地氏とするためであろう。遠江の横地氏といえば、井伊氏・勝間田氏とともに『保元物語』にも登場する遠江の鎌倉御家人であった名族で、横地城を本拠とした。近隣の勝間田氏と同族とされ、滅亡したのも勝間田氏と同様、応仁文明の乱の余波で駿河の今川義忠が遠江に出陣してきたのに応戦してのことで、文明7年(1475)頃に滅亡したとされる。滅亡後、遠江を離れて関東へ移ったのであろう。

 また、「貞享異譜」には、関東管領上杉家に仕官して家老職を務め、天正15年(1587)に浪人してそれ以降に北条家に奉公、武蔵鉢形衆とある。
 しかし、横地氏が北条氏の家臣となったのはそれ以前からである。北条配下としての横地氏の動向は諸史料から確認できる。永禄年間(1558~70)、北条氏邦鉢形城主となると近辺の城はその配下に属し、八幡山城(埼玉県本庄市)には氏邦家臣の横地左近忠春(吉春)が在城したという。ついで、天正年間(1573~92)、北条氏照八王子城を築いた際には、横地吉信と息子の与三郎が関わっている。吉信は氏照の重臣でその奉行衆の筆頭、その子の与三郎も氏照の奉行人で、小田原の陣の際には父子が八王子城を守備して討死したという。

 なお、上杉家への仕官という由緒については、北条氏が勢力を広げる前、戦国時代初期の関東は上杉氏が関東管領の家柄として勢力を持っていたことから、遠江での滅亡後間もなく関東にやってきたのであれば、上杉氏の配下に属していてもおかしくない。

 

 小田原の陣の時点で吉信が横地監物丞を称していることから、吉晴の父監物とは吉信のことと考えていいのではないだろうか。また、吉信の息子が称していた与三郎という通称は、吉晴やその子孫である彦根藩士横地家でも受け継がれている。小田原の陣を生き延びた吉晴が跡継ぎの通称である与三郎を称して井伊家に仕えたのであろう。

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横地吉晴の井伊家出仕 

 吉晴が井伊家に召し出されたのは、「貞享異譜」には小田原陣後、高崎においてとある。ただし、天正19年の九戸の陣に出陣しているということなので、天正18年から19年、箕輪時代に召し出されたということになる。当初700石を拝領し、関ヶ原合戦の後に300石加増を受けた。慶長7年(1602)の分限帳では「横地監物」は1000石取と記されている。大坂冬の陣では軍監と武者奉行を務め、夏の陣でも軍監を務めている。陣後、中老格となったが、翌元和2年(1616)に死去した。

 同家の家格としては、元禄12年(1699)、3代目のときに大身の列に仰せ付けられ、4代目から7代目までは家老役を務めている。8代目義致は藩主井伊直中の息男で、横地家の養子となった。同様に藩主子弟を養子として迎え入れた家臣の家は、木俣、中野、奥山ら井伊家と親族関係にあった重臣家に限られている。そのような中、横地家が藩主子弟の養子先となったのは、同家が遠江の古くからの名族と認識されていたからであろう。

 

  
 参考文献
野田浩子『井伊直政 家康筆頭家臣への軌跡』(戎光祥出版、2017年)
 『戦国人名辞典』(吉川弘文館
 
  典拠史料
『新修彦根市史』6巻
『侍中由緒帳』2
「貞享異譜」「井伊年譜」(彦根城博物館所蔵、未刊)