史料に登場する井伊直政の足跡 第6回長久手古戦場
前回より時代は遡りますが、天正12年(1584)、直政が侍大将となって初めての大きな戦い、長久手合戦での井伊隊の動きを探ります。
小牧・長久手の戦いで、井伊直政は徳川家康の旗本隊の先鋒として布陣していた。家康は小牧山城に入っていたが、秀吉方の別働隊が三河・岡崎方面へ兵を動かしたのを察知した家康はこれを追撃する。
秀吉の別働隊は、池田恒興・森長可、堀秀政、三好秀次(のちの豊臣秀次)らである。その先鋒が三河へ向かう途中にある岩崎城を攻め落とし、休息していたところへ、徳川の先鋒隊が襲う。最後尾にいた三好隊は総崩れとなり、その次にいた堀秀政隊は戻って桧ヶ根で徳川方の大須賀康高・榊原康政隊と戦う。先鋒の池田恒興・森長可隊も兵を戻してきた。
家康隊は小幡城から東の山沿いを迂回して色金山に入り、そこから富士ヶ嶺に本陣を置く。井伊隊は家康隊の先鋒として軍勢を先導し、富士ヶ嶺の切通しから頭狭間へ向かい、敵方の池田恒興隊、森長可隊へ攻めかかった。このとき直政は敵の正面から攻めかかろうとしたが、配下の三科肥前と近藤秀用が南の山の中腹を廻って背後から攻めるよう進言した。直政はこれを承知しなかったため、近藤が直政の馬の口を向けてルートを変更させたという。
この合戦の様子は、江戸時代の史料に多く記されている。それらを読んでいると地名が出てくるが、地図がないと復原しづらい。
そこで、地図を見ながら各軍勢の配置を考えていきたい。
家康が本陣を敷いた色金山と富士ヶ嶺(富士が根)は史跡として特定されている。富士が嶺は、家康が旗を立てたことから御旗山と呼ばれるようになったという。また、池田恒興と森長可が討たれたとされる跡地には、それぞれ碑が建てられている。
勝入塚:伝池田恒興戦死地跡
武蔵塚:伝森長可戦死地跡
ただし、これらは江戸時代になって尾張藩士によって比定されて石碑が建てられ、史跡とされたものなので、推測を含んでいるという点に注意しなければならない。
地理院タイル(淡色地図)に文字を貼り込んだ
現在の地名や史跡からは、頭狭間の位置は特定できないが、
頭狭間 仏ヶ根向方敵の右の方 池田父子
烏狭間 同 向の方敵の左の方 森武蔵守
仏ヶ根 此方の右 森長一 井伊兵部少輔直政
此方の左 池田父子 御旗本衆
(「長久手戦話」、『長久手町史』資料編6より、ただし仏ヶ根の割書は『朝野旧聞裒藁』により修正した)
という記述がある。
仏が根は、現在の古戦場公園の北側に地名が残っている。古戦場公園は小高い地形であるが、「○が根」とは高台を示す地名なので、古戦場公園一帯の高台を指すとみられる。
その東の谷が頭狭間、西の谷が烏狭間だろう。狭間とは、はざま・谷間を意味し、谷間の地名に付けられる。
徳川は色金山から富士ヶ嶺に入ったが、ここに布陣することで南方から戻ってきた池田・森隊と、その先の桧ヶ根で戦う堀隊との間を分断できた。また、仏が根や富士ヶ嶺などの高台をいち早く確保することで優位な布陣となった。
井伊隊は池田隊の正面から攻めずに山の中腹から攻めたというが、この山は古戦場公園となっている仏が根のことだろう。戦いに慣れた直政配下の者は、高台に布陣するという戦のセオリーに従って仏が根に布陣し、そこから鉄砲を撃ち下ろす攻撃を仕掛けて勝利に至った。
このように見ると、長久手での勝利は徳川勢の進軍方向と布陣位置の判断のおかげであると言っても過言ではないだろう。その判断は、もちろん家康からの指示もあるだろうが、先鋒を任された井伊隊によるその場でのとっさの判断も大きかったといえよう。
現地に行ってみたが、御旗山から古戦場公園までわずか約1㎞しかなく、狭い範囲での戦いだったことがわかる。ただ、一帯は住宅開発されて新しい道が通り、その中に史跡が点在している状態であった。
ここに建てられている石碑は、江戸時代に造られたものであった。長久手での勝利は徳川にとって重要なものであり、長久手を領する尾張藩の学者らが軍記物などから史跡を特定し、石碑を立てて顕彰したのである。元になった話も徳川創業史として逸話などの創作が加わっており、100%信用できるという程ではない。史跡比定も地元の伝承などは参照にしているであろうが、石碑の建つ地点というより広くその一帯と考えておく方がよいだろう。
勝入塚
色金山
御旗山