彦根歴史研究の部屋

彦根や井伊家の歴史について、これまで発表してきた私見の紹介・補足説明・修正など。

朝鮮人街道の謎に迫る その3 整備の経緯 

前回、朝鮮人街道は下街道(巡礼街道、信長の整備した佐和山城から安土城へ向かう街道)をもとに、江戸時代初期に整備されたことを示した。 今回は、江戸時代初期に整備された経緯を考える。 これを考えはじめたきっかけは、慶長12年(1607)の第1回通信使…

朝鮮人街道の謎に迫る その2 巡礼街道から朝鮮人街道へ

前回、 朝鮮人街道およびその前身街道は、整備された段階として次の3つに区分できることを示した。 中世段階(信長による整備以前) 織田信長による整備 江戸時代初期の整備 1は、彦根山に築城する以前、霊場として寺院が建ち並んでいた時期に、参詣者が彦…

朝鮮人街道の謎に迫る その1

近江(滋賀県)には、通信使一行が通ったことでその名前がつけられた街道が残っている。野洲市から彦根市にかけて、中山道から分岐してその西側の琵琶湖岸との間を通る「朝鮮人街道」と呼ばれる街道である。他の通信使ゆかりの地には見られず、近江独自のも…

『朝鮮通信使と彦根』を刊行しました

このたび、サンライズ出版から、別冊淡海文庫として『朝鮮通信使と彦根 記録に残る井伊家のおもてなし』を刊行しました。 是非ともお手にとってご覧ください。 購入方法、内容紹介はこちらからwww.sunrise-pub.co.jp まずは、執筆の視点を紹介します。 朝鮮…

井伊直政の菩提所 その6 護国殿

江戸時代後期になると、新たに井伊直政らを祀る施設が彦根に建てられた。彦根藩によって清凉寺の境内に建てられた護国殿である。文化8年(1811)に完成した。 ここで祀っているのは直政だけではない。中央に徳川家康の神牌が祀られ、その左に直政、右に直孝…

井伊直政の菩提所 その5 井伊谷・龍潭寺

井伊氏の出身地にある井伊谷(静岡県浜松市北区)にある龍潭寺は、戦国時代の井伊氏によって建てられた菩提寺である。龍潭寺という名は、桶狭間で討ち死にした当主井伊直盛の院号に由来する。 井伊谷龍潭寺 境内の一角に、「井伊氏歴代墓所」が築かれており…

井伊直政の菩提所 その4 彦根・清凉寺

直政の菩提寺として彦根藩によって建てられたのが清凉寺。 城が彦根に移された後、城下町やその周辺を整備した中で、城の北東方向、佐和山の麓に藩祖直政の菩提寺として築いた。寺院の名称は、直政の法号である祥寿院殿清凉泰安居士による。 清凉寺の開山は…

井伊直政の菩提所 その3 京都・六波羅蜜寺

六波羅蜜寺といえば、京都・東山にあり、空也上人や平清盛の像といった鎌倉時代を代表する有名な彫刻があることでも知られている。通常、これらは同寺内にある宝物館で拝観することができる。実は、宝物館では清盛像に並んで、井伊直政の彫像が置かれている…

井伊直政の菩提所 その2 高野山奥の院

高野山の奥の院、一の橋から弘法大師の御廟までの参道の両側には、戦国武将や大名の墓が多く建てられていることはよく知られている。 その中に井伊直政のものもある。御廟に向かう奥の院参道の左側、参道から少し奥に入ったところに、井伊家の墓所が2か所あ…

井伊直政の菩提所 その1 長松院

戦国武将や江戸時代の大名は、菩提寺のほかにも、ゆかりの地に廟所・供養塔が造られたり、位牌が置かれて供養されていることがあります。井伊直政の場合も墓所のある清凉寺のほかにゆかりの菩提所がいくつかありますので、それぞれを紹介していきます。 まず…

史料に登場する井伊直政の足跡 第8回藤森の警固

実際に交戦のあった戦いでは、それぞれの部隊がどのような規模でどのような動きをしたのかといったことはよく紹介されているが、実戦にはいたらなくとも、軍事部隊が出動する機会は多くあった。規模の大小はあれ、日常的にも城の入り口や領地の境界、交通の…

彦根城見学に向けての事前学習

昨日は、岐阜県のある小学校に行ってきました。今度、6年生が校外学習で彦根城へ見学に行くにあたり、事前に学習しておきたいということで、その講師として招かれました。 メインの話は、彦根城は、いつ、誰によって、なぜこの場所に建てられたのか、といっ…

史料に登場する井伊直政の足跡 第7回岐阜城攻め

”天下分け目”の関ヶ原合戦(慶長5年9月15日の関ヶ原での戦いだけでなく、同年7月の石田三成挙兵から講和成立まで)の中で、東軍(徳川勢と親徳川の豊臣諸将)が岐阜城を1日で落城させたことが、その後の戦況に大きく影響したことはよく知られている。 今回…

史料に登場する井伊直政の足跡 第6回長久手古戦場

前回より時代は遡りますが、天正12年(1584)、直政が侍大将となって初めての大きな戦い、長久手合戦での井伊隊の動きを探ります。 小牧・長久手の戦いで、井伊直政は徳川家康の旗本隊の先鋒として布陣していた。家康は小牧山城に入っていたが、秀吉方の別働…

史料に登場する井伊直政の足跡 第5回小田原の陣唯一の戦闘地「篠曲輪」

前回から随分時間が経ってしまいましたが、引き続き、小田原の陣での井伊隊の動向について。 天正18年(1590)の小田原の陣。 豊臣政権によって動員された諸大名は小田原城を囲んだが、徳川勢は城の東、山王川と酒匂川の間に陣を敷いた。家康の陣は海岸から…

史料に登場する井伊直政の足跡 第4回小田原への道「箱根から宮城野」

天正18年(1590)、豊臣政権は臣従した諸大名に小田原への出陣を命じ、強大な軍事力で小田原城を取り囲んで北条氏を滅ぼした。 このとき、徳川家康にも出陣が命じられ、井伊直政も部隊を率いて出陣した。徳川勢は駿府から東海道を東に向かい、長久保城(静岡県…

史料に登場する井伊直政の足跡 第3回井伊隊はじめての出陣「高遠口」

久しぶりの更新となります。「史料に登場する井伊直政の足跡」第3弾です。 今回は、井伊隊がはじめて家康から出陣を命じられた「高遠口」の地を探します。 天正11年(1583)正月12日付で、徳川家康から井伊直政へ宛てた直筆書状が残っている。そこには「急ぎ…

史料に登場する井伊直政の足跡 第2回直政初陣の地「芝原」

「史料に登場する井伊直政の足跡」第2弾です。 今回は、直政初陣の「芝原合戦」の地を探します。 直政の初陣は、天正4年(1576)のことで、芝原合戦とされているのは『井伊直政 家康筆頭家臣の軌跡』でも触れた。 「井伊家伝記」や「井伊年譜」には、芝原…

史料に登場する井伊直政の足跡 第1回「大鳥居土佐屋敷」を探す

井伊直政の事績を調べ、いつどこにいたのかという行動ルートを史料から追っていったところ、すぐに判明したこともありますが、場所が特定しづらい場合もありました。場所がわかっても、なぜこの場所なのか? と考えが広がることもあります。そういった場合、…

関ヶ原合戦図屏風[井伊家伝来本]の構図 その4

関ヶ原合戦図屏風の構図を読み解く 第4弾。今回が最終回。5扇と6扇です。 *屏風は1曲ごとに右から1扇・2扇とかぞえます。 合戦図はこちらからご覧ください 関ヶ原合戦図(井伊家伝来資料) | 彦根城博物館|Hikone Castle Museum|滋賀県彦根市金亀町に…

関ヶ原合戦図屏風[井伊家伝来本]の構図 その3

関ヶ原合戦図屏風の構図を読み解く 第三弾、今回は4扇です。 *屏風は1曲ごとに右から1扇・2扇とかぞえます。 合戦図はこちらからご覧ください 関ヶ原合戦図(井伊家伝来資料) | 彦根城博物館|Hikone Castle Museum|滋賀県彦根市金亀町にある博物館 *…

講演のご依頼

このブログで紹介した内容は、講演することができます。 最近講演したテーマやお問い合わせ先をこちらにご案内しております。 野田浩子のプロフィール - はてな 公民館や各種団体の勉強会にいかがでしょうか。

関ヶ原合戦図屏風[井伊家伝来本]の構図 その2

前回に引き続き、関ヶ原合戦図屏風のどこに何が書かれているのか見ていきましょう。 今回は3扇です。 *屏風は1曲ごとに右から1扇・2扇とかぞえます。 合戦図はこちらからご覧ください 関ヶ原合戦図(井伊家伝来資料) | 彦根城博物館|Hikone Castle Mus…

関ヶ原合戦図屏風[井伊家伝来本]の構図  その1

関ヶ原合戦図屏風を楽しむには、まず、どこに何が描かれているのかを知ること。 順番に見ていきましょう。 今回は1扇と2扇です。 *屏風は1曲ごとに右から1扇・2扇とかぞえます。 合戦図はこちらからご覧ください hikone-castle-museum.jp 図の中には付…

関ヶ原合戦図屏風に関する発表済み文章

関ヶ原合戦図屏風については、2003年に論文を発表し、その成果を展覧会や一般向けの文章で紹介してきました。 これまで発表した文章をここでまとめておきます。 論文 「関ヶ原合戦図屏風の図像とその展開」『彦根城博物館研究紀要』14号 2003年 展覧会 彦根…

関ヶ原合戦図屏風は観て楽しみたい

先週末の夜、テレビ番組で「関ヶ原合戦図屏風」が使われているのを見つけました。 「嵐にしやがれ」3月17日放送の中、将棋の羽生さんと嵐メンバーとの対決で、関ヶ原合戦図屏風の複製が背景に立てかけられていました。 説明などまったくなかったので、井伊家…

肩書のない1年

昨年の3月末に退職し、どこにも属さずに1年を過ごしました。 肩書がない暮らしは、日常的には何ら問題ないものの、所属を表示しないといけない場面も何度かありました。 最初は、名刺の表記。フリーであれ仕事をしている以上、名刺は必須。仕事上で渡す際…

「創り出した」偶然 その2

前回は、『黒田家文書』の史料集との偶然の出会いについて記しました。 偶然の出会いについて、もう一つ。 『井伊直政 家康筆頭家臣への軌跡』では、井伊直政が差し出した、あるいは受け取った書状類を何点も写真掲載しました。その中に、ある偶然で見つけた…

『黒田家文書』との出会い

井伊直政といえば、従来、「徳川四天王」や、「井伊の赤備え」というキーワードが示されていたように、徳川家康の重臣の一人としては認識されていましたが、活躍した場面は関ヶ原合戦や小牧長久手の合戦など、戦場で活躍した人物と思われていました。 それに…

「小山評定」は2度あった!

「小山評定」といえば、関ヶ原の合戦の直前、会津の上杉氏へ兵を向けていた徳川家康や豊臣恩顧の諸将らが小山(栃木県小山市)に進軍したところで、上方で石田三成が挙兵したことを聞き、引き返して石田方へ兵を向けることを決めた軍議として知られています。…