井伊直政家臣列伝 その11 片桐正直 ~井伊一門の伊平氏~
片桐正直は、その名から一見したところではわからないが、井伊氏一族で初期から直政家臣となった者である。元は伊平氏で、権之丞、のち権右衛門と称した。
伊平氏
伊平氏は引佐郡伊平を本拠とする一族で、系譜上では井伊氏の一門となっている。井伊氏の系図類では、始祖の共保からかぞえて8代(別の数え方もあり)泰直の弟に伊平直時が見える。史料上「井平」と表記されることもあるが、同じ一族である。
戦国時代には、井伊直平(直政の曾祖父)の近くに伊平河内守がいたことが諸史料からうかがえる。「井伊直平公御一代記」には、井伊一騎の井平河内守が今川と北条との合戦に出陣して討死したと記す。また、「井平実記」には、井平河内守直種は直平の末子で、直種の息子の弥三郎は直政のもとで小田原陣に出陣し、笹曲輪の夜襲で討死して家は途絶えたとある。いずれも『引佐町史料』に収録されている史料であり、地元で言い伝えられたものである。そのほか、幕末に長野義言が井伊谷周辺で史料採訪して作成した系図には、井伊直平の妻は伊平河内守安直の娘、その息子の直宗の妻は伊平河内守直卿の娘と記す。これらの関係すべてを信用すると直平と伊平河内守の姻戚関係が深すぎるため、何らかの誤認があった可能性も考えられるが、関係が深かったことは間違いないだろう。
片桐正直
正直の履歴として、井伊家連枝で御家門筋であり、元は伊平氏を称していたということが「貞享異譜」に記されている。このことより、正直も河内守と同様、伊平を本拠とする伊平氏の一族であると判断できる。ただし、河内守との具体的な親族関係はわからない。正直が直政のもとではじめて出陣したのが天正10年(1582)の若神子陣ということであり、その年までに直政の配下に入ったと考えられる。側役を勤め、その後の直政の出陣にも御供したが、関ヶ原合戦時には高崎城の留守を勤めた。知行は最終的に300石取という。
正直は慶長15年(1610)に死去し、孫の正行が11才で2代目を継承する。正行の父(正直の息子)は幕府の代官を務めていたという。ただし、慶長7年の分限帳では、片桐権右衛門は「御扶持取衆、但隠居衆共」として名が挙がっており、片桐松千世が300石取であった。このことから、慶長7年段階で正直は隠居し、跡継ぎの松千世が300石を継承したが、松千世は正直に先だって死去したため、正直から孫の正行へ家督が継承されたのであろう。正行はもともと菅沼次郎右衛門の元にいたことや、半知の150石のみ相続が許されたことも、早くから予定されていた家督継承でなかったことをうかがわせる。
その他の伊平氏
直政家臣には、伊平姓を称していた者も確認できる。慶長7年の分限帳には、「伊平弥四郎 150石」、「伊平庄左衛門 100石」、慶長12年の分限帳には「伊平四郎兵衛 150石」が記されている。また、慶長19年、井伊直継に付けられて上野国安中へ移った家臣92名の中に「井平少三郎」がいる。弥四郎と庄左衛門は別家か当主と惣領の関係かは不明であるが、彼らが四郎兵衛、少三郎と改称したものと思われる。つまり、直継の代には、伊平氏は1~2家あったことがわかる。ただし、元和年中の安中分限帳には伊平氏・井平氏の名は確認できない。井伊家を去ったか、または改姓したと考えられるが、史料が確認できないためそれ以上は不詳である。井伊直政家臣列伝 その10 酒居忠常 ~もう一人の従兄弟~
前回の奥山朝忠が直政にとって母方の従兄弟であったのに対し、父方の従兄弟も直政の側近くにいた。酒井忠常である。
忠常は酒井大膳亮忠敏と井伊直満の娘を父母にもつ。つまり、直政の父直親と忠常の母親が兄妹であり、直政と忠常は従兄弟という関係にあった。
「貞享異譜」には、酒井氏は遠江の出身で井伊家の「御一家筋」と記しており、酒井氏が井伊氏の親族という関係にあると当時から認識されていた。その具体的な関係については、由緒書類には記されていない。ただし、幕末に長野義言が遠江へ史料採訪に行って集めた中に、
・井伊直平の再内室が「遠江初倉住人酒井但馬守忠雄女」
・奥山村に伝わった井伊氏系図に、井伊直親の弟直方は駿河へ養子に行き酒井三郎右衛門を称する、と記す
とある。別の史料には直方は直満の弟ともあり、詳細は不正確かもしれないが、
・酒井氏は井伊氏と婚姻関係を重ねている一族であった
・酒井氏の出身地として遠江初倉(静岡県島田市)という説がある
という程度なら間違いないだろう。
「貞享異譜」には、酒井氏は遠江の出身で井伊家の「御一家筋」と記しており、酒井氏が井伊氏の親族という関係にあると当時から認識されていた。その具体的な関係については、由緒書類には記されていない。ただし、幕末に長野義言が遠江へ史料採訪に行って集めた中に、
・井伊直平の再内室が「遠江初倉住人酒井但馬守忠雄女」
・奥山村に伝わった井伊氏系図に、井伊直親の弟直方は駿河へ養子に行き酒井三郎右衛門を称する、と記す
とある。別の史料には直方は直満の弟ともあり、詳細は不正確かもしれないが、
・酒井氏は井伊氏と婚姻関係を重ねている一族であった
・酒井氏の出身地として遠江初倉(静岡県島田市)という説がある
という程度なら間違いないだろう。
直政が徳川へ出仕して数年以内の頃に酒井三郎右衛門へ宛てた書状がある。現物は確認できないが、明治時代には彦根藩士酒居氏が所蔵していたもので、写しが伝わる(『井伊直政 家康筆頭家臣への軌跡』に本文を掲載)。そこには、「私は親の親類が一人もいないので、内々に頼み入る覚悟です」とある。井伊氏の中に頼れる親族が少ないため、親族である酒井氏を頼りにしていたことがうかがえる。
忠常と同時期に直政に仕えた人物として酒井又左衛門忠政がいる。父は美作守忠員という。忠常との関係は明示されていないが、父同士が兄弟であろうか。近い親族で政治的な行動を共にし、一緒に直政配下に入ったと思われる。
慶長7年(1602)の分限帳では、酒居三郎兵衛(忠常)が300石取、酒居又左衛門(忠政)が250石取、そのほか酒居右衛門次と酒居三郎右衛門がそれぞれ200石取として名が挙がっている。なお、苗字の漢字を「酒居」と改めているが、これは井伊家の苗字にある「井」の字を使うことを憚ったためである。
井伊直政家臣列伝 その9 奥山朝忠 ~似た境遇の従兄弟~
奥山一族
奥山氏は、井伊谷より北西に約5㎞、奥山の地に拠点を置く武家である。
系図上は井伊氏と同族となっている。井伊氏の伝説の「元祖」共保からかぞえて5代目の良直、俊直、政直の兄弟がそれぞれ井伊氏、赤佐氏、貫名氏へと分立し、さらに赤佐氏から奥山氏が分立したとある。
「したとある」と表記したのは、系図ではそのようになっているということで、それが史実かどうかは別問題である。
系図上は井伊氏と同族となっている。井伊氏の伝説の「元祖」共保からかぞえて5代目の良直、俊直、政直の兄弟がそれぞれ井伊氏、赤佐氏、貫名氏へと分立し、さらに赤佐氏から奥山氏が分立したとある。
「したとある」と表記したのは、系図ではそのようになっているということで、それが史実かどうかは別問題である。
史実としては、室町時代の応安4年(1371)、奥山六郎次郎朝藤によって奥山の地に方広寺が建立されており、この時までに奥山氏はこの地で一定の勢力をもっていたことがわかる。また、編纂物ではあるが「今川家譜」「今川記」などには、応安3年に九州探題に命じられた今川貞世が配下の侍を引き連れて九州へ向かったが、その中に奥山氏や井伊氏が登場する。貞世の父今川範国は、南北朝の争乱期、足利尊氏に味方して各地に出兵し、駿河・遠江の守護を命じられており、その際、在地の武士を軍事的に組織化して配下に入れた。その関係が貞世の時代にも引き継がれたと考えられる。
桶狭間で井伊氏と運命を共にする
戦国時代、遠江が今川氏の配下にあった時代には、奥山氏は井伊氏をトップとする軍事組織の中にあったようである。
桶狭間の戦いで井伊直盛とともに討死した者の中に
奥山六郎次郎、奥山彦市郎(彦市とも)、奥山彦五郎
の名が見える(「井伊年譜」)。このことから、奥山氏は「井伊衆」に与力として加わり出陣していたことがわかる。
奥山六郎次郎、奥山彦市郎(彦市とも)、奥山彦五郎
の名が見える(「井伊年譜」)。このことから、奥山氏は「井伊衆」に与力として加わり出陣していたことがわかる。
桶狭間で討死した六郎次郎が、井伊直政の家臣となる奥山朝忠の父親という。ただし、このあたりの系図は諸説あり、
親朝 ― 朝利 ― 親秀 ― 朝忠
と、朝忠を親朝の曾孫とする系図がいくつかある。『侍中由緒帳』所収系図もこれを採用している。しかし、直政の母(親朝の娘)と親秀を兄弟とする系図も多い。以上より推測すると、
親朝 ─ 朝利
├ 親秀 ― 朝忠
└ 直政母
と、朝利と親秀は兄弟と考えるのがもっとも整合するのではないだろうか。
朝忠は父が桶狭間で討死した後の永禄4年1月に出生したともいう。また、『侍中由緒帳』は16歳で直政に召し出されたという。直政が永禄4年生まれで15歳で家康に召し出されていることから、朝忠は直政とほぼ同年齢であったことがわかる。さらに、出生まもなく(または誕生前)に城主である父を失い、母や譜代の家臣に守られて成長したということであり、直政と類似した境遇で成長したのであった。
親朝 ― 朝利 ― 親秀 ― 朝忠
と、朝忠を親朝の曾孫とする系図がいくつかある。『侍中由緒帳』所収系図もこれを採用している。しかし、直政の母(親朝の娘)と親秀を兄弟とする系図も多い。以上より推測すると、
親朝 ─ 朝利
├ 親秀 ― 朝忠
└ 直政母
と、朝利と親秀は兄弟と考えるのがもっとも整合するのではないだろうか。
朝忠は父が桶狭間で討死した後の永禄4年1月に出生したともいう。また、『侍中由緒帳』は16歳で直政に召し出されたという。直政が永禄4年生まれで15歳で家康に召し出されていることから、朝忠は直政とほぼ同年齢であったことがわかる。さらに、出生まもなく(または誕生前)に城主である父を失い、母や譜代の家臣に守られて成長したということであり、直政と類似した境遇で成長したのであった。
一波乱あった奥山朝忠の出仕
朝忠は、直政が家康へ出仕してまもなく、直政へ仕えたという。しかしその出仕には一波乱あったようである。
直政が父方の親族である酒井三郎右衛門に宛てた書状(『井伊直政―家康筆頭家臣への軌跡―』に読み下しと現代語訳を掲載)には、直政が酒井に対して、立ち寄ってもらい対面したいと思っているが「奥山年寄女」がそれを妨害することを吹聴しているらしい、とある。他の史料でも朝忠は実母と縁を切って直政のもとに出仕したという(「御侍中名寄先祖付帳」)ことなので、直政と奥山の母らとの間に何らかの対立があったことが窺える。その要因は史料からは読み取ることはできないが、朝忠も奥山城主の跡継ぎであり、大名の家臣になれる家柄であったにもかかわらず、直政のみが家康の直臣となり、息子がその配下に入ることに反対したのかもしれない。
井伊氏親族の家柄
朝忠が直政の配下に入ったのは、奥山氏が直政の母の一族であることと無関係ではないだろう。
奥山氏の系図には、直政の母の妹(直政からみると叔母)に
中野越後守直之室
小野玄蕃室
西郷伊与守正員室
鈴木石見守室
菅沼淡路守室
橋本四方助室
らが記されている。中野・小野・鈴木ら「井伊谷七人衆」などと婚姻関係を結び、「井伊衆」中核メンバーで結束を図っていたことが読み取れる。
一方、西郷正員は天正10年(1582)頃に家康によって直政に付けられた人物である。正員は元文元年(1532)生まれで永禄12年にすでに正室を亡くしている。直政に付けられて以降、つながりを強固なものとする政略的な目的で、その親族を後妻に迎えたことがわかる。
奥山氏の系図には、直政の母の妹(直政からみると叔母)に
中野越後守直之室
小野玄蕃室
西郷伊与守正員室
鈴木石見守室
菅沼淡路守室
橋本四方助室
らが記されている。中野・小野・鈴木ら「井伊谷七人衆」などと婚姻関係を結び、「井伊衆」中核メンバーで結束を図っていたことが読み取れる。
一方、西郷正員は天正10年(1582)頃に家康によって直政に付けられた人物である。正員は元文元年(1532)生まれで永禄12年にすでに正室を亡くしている。直政に付けられて以降、つながりを強固なものとする政略的な目的で、その親族を後妻に迎えたことがわかる。
諸系統の奥山氏
そのほか、系図では具体的な関係はわからない者もいるが、同族の者が数名、井伊氏家臣となっている。
慶長7年の分限帳では、奥山藤十郎(500石)、奥山源十郎(150石)がいる。系図では、直政母の次兄の孫(=直政の従兄弟の子)に藤十郎朝直がいる。
源十郎は、系図では確認できない。慶長12年の分限帳では見当たらなくなっており、代わりに源太右衛門(300石)がいる。改名したのであろうか。
両名は元和元年の安中分限帳に出てきており、そこでは藤十郎は250石、源太右衛門は300石である。掛川と与板の分限帳にも奥山氏の名はあり、両名の家系が継承されたと思われる。
源十郎は、系図では確認できない。慶長12年の分限帳では見当たらなくなっており、代わりに源太右衛門(300石)がいる。改名したのであろうか。
両名は元和元年の安中分限帳に出てきており、そこでは藤十郎は250石、源太右衛門は300石である。掛川と与板の分限帳にも奥山氏の名はあり、両名の家系が継承されたと思われる。
代々彦根藩士として継続した家としては、奥山伝右衛門家がある。初代伝右衛門の父奥山左近は井伊谷の出身で家康より本知の証文を受け取っているという。一方で初代伝右衛門は、井伊家に仕える前に真田昌幸に仕えていたという(「御侍中名寄先祖付帳」)。井伊家へ出仕したのは慶長6年とも直継の代ともいうので、昌幸が関ヶ原合戦で敗れて流罪となった後、親族を頼って井伊家に仕えたのであろう。
井伊直政家臣列伝 その8 近藤秀用 ~「井伊谷三人衆」から井伊谷の領主へ~
近藤康用(1517生~1588没)
宇利の周辺には「井伊谷三人衆」として行動を共にすることになる鈴木氏・菅沼氏らがおり、彼らと同様、今川の三河侵攻によって今川氏の配下に入った。しかし、桶狭間合戦後に徳川家康が離反したのにあわせ、今川から離反しようとしたらしく、永禄4年(1561)に吉田の鈴木重勝が近藤氏を今川方の味方につける働きをしている。
鈴木氏と近藤氏は隣接する地域であり関係が深く、親戚関係もあった。両氏とも今川配下として井伊衆の与力に組み入れられたが、鈴木氏の方が井伊氏に近い存在であり、「三人衆」の中で近藤氏は井伊氏ともっとも浅い関係であったようだ。
鈴木氏と近藤氏は隣接する地域であり関係が深く、親戚関係もあった。両氏とも今川配下として井伊衆の与力に組み入れられたが、鈴木氏の方が井伊氏に近い存在であり、「三人衆」の中で近藤氏は井伊氏ともっとも浅い関係であったようだ。
それでも、永禄11年12月からの家康による遠江進出では、康用は菅沼忠久、鈴木重時とともに家康に味方し、井伊谷周辺の地理を伝えて攻略を助けた。
その後、甲斐の武田氏が奥三河まで攻め込み、宇利城を囲んだ際には、息子の秀用が敵地へ兵を向けて刈田し、城兵が少ないところを秀用が防戦したとして、家康から感状を下され、あわせて家康から名前の一文字を下されて「康用」と名乗ったという。
その後、甲斐の武田氏が奥三河まで攻め込み、宇利城を囲んだ際には、息子の秀用が敵地へ兵を向けて刈田し、城兵が少ないところを秀用が防戦したとして、家康から感状を下され、あわせて家康から名前の一文字を下されて「康用」と名乗ったという。
近藤秀用(1547生~1613没)
近藤氏が徳川配下に入った頃、当主康用は高齢で、実戦では息子の秀用が兵を率いた。元亀3年に武田家の山県昌景が井伊谷方面に出張してきた際には、地元でもあり菅沼・鈴木らとともに防戦している。長篠の合戦では、酒井忠次が鳶巣城を攻める際に秀用が現地の案内をして先手に加わっている。天正10年の若神子の陣では、大久保忠世の隊に属して密かに険しい山を越えて敵を背後から討つなどの活躍をしている。このように、徳川と武田との対立では本拠地周辺が衝突の最前線であったため戦場で活躍していたが、天正12年の長久手の合戦の直前に、井伊谷三人衆がまとめて井伊直政隊に属するよう家康から命じられた。
長久手合戦では、井伊隊は家康隊の旗本先鋒として進軍し、敵の池田恒興・森長可らを討ち取るが、この大勝利には近藤秀用ら戦術慣れした者の判断があった。
家康隊が池田隊らを追い、富士ヶ嶺へ本陣を置くと、まず先鋒の井伊隊が頭狭間へ向かって敵方へ攻めかかった。その際、直政は敵へ正面から攻めかかろうとしたが、近藤らが南の山の中腹を廻って背後から攻めるよう進言した。直政はこれを承知しなかったため、近藤が直政の馬の口を向けてルートを変更させたという。
近藤は地形をみてとっさの判断で、背後に回り込んで高い位置から攻め降りるよう軍勢を誘導した。合戦経験が豊富な証しであろう。
家康隊が池田隊らを追い、富士ヶ嶺へ本陣を置くと、まず先鋒の井伊隊が頭狭間へ向かって敵方へ攻めかかった。その際、直政は敵へ正面から攻めかかろうとしたが、近藤らが南の山の中腹を廻って背後から攻めるよう進言した。直政はこれを承知しなかったため、近藤が直政の馬の口を向けてルートを変更させたという。
近藤は地形をみてとっさの判断で、背後に回り込んで高い位置から攻め降りるよう軍勢を誘導した。合戦経験が豊富な証しであろう。
長久手合戦での井伊隊の動きはこちらから
秀用はその後も上田城攻め、小田原の陣、九戸の陣にいずれも出陣して活躍するが、その後直政配下からはずれて徳川直臣となることを請い、直政のもとを離れたという。息子の季用は、後述するように、奥州出兵に際して家康の直参に取り立てられており、秀用も同様の処遇を求めたのであろうか。しかし、直参への希望は長らく認められず、季用のもとに寓居することとなった。
秀用は直政存命中はどこへの出仕も認められず、直政没後になり秀忠から召し出されて上野に5000石の領知を得て鉄砲足軽50人組を預けられた。慶長19年には小田原城番となり、大坂両陣にも出陣する。その後、早世した季用が領していた井伊谷周辺の領地を支配することとなり、秀用の没後はその子孫へと分知される。最終的に、井伊谷とその周辺地域は秀用の子孫である旗本5家の近藤氏により支配された。
秀用は直政存命中はどこへの出仕も認められず、直政没後になり秀忠から召し出されて上野に5000石の領知を得て鉄砲足軽50人組を預けられた。慶長19年には小田原城番となり、大坂両陣にも出陣する。その後、早世した季用が領していた井伊谷周辺の領地を支配することとなり、秀用の没後はその子孫へと分知される。最終的に、井伊谷とその周辺地域は秀用の子孫である旗本5家の近藤氏により支配された。
近藤氏は、他の二氏にくらべて井伊氏とのつながりが薄かったことや、単独での戦功も挙げていたことから、秀用は「井伊谷三人衆」として井伊隊に付けられるよりも、直臣となることを望んだのであろう。当時は処遇に不満を持ち仕官先を変えることはしばしばあり、秀用も軍功の評価や拝領した知行高に納得できず、直政のもとを去ることを希望したのかもしれない。ただし、秀用はもともと直政と主従関係を結んでいたのではなく、家康から直政に付けられたという関係にあったため、秀用の希望は各侍をどの備えに配属するかという主君の軍事編成権を侵すことになる。そのため近藤の望みは認められず、息子の元に預けられるという処分をうけたのであろう。
近藤季用(1573生~1612没)
秀用の嫡男季用は、当初井伊直政配下にあったが、のちに徳川直臣となる。それは、小田原の陣での戦功が認められてのことと思われる。天正18年(1590)の小田原陣では、豊臣方諸大名が小田原城を取り囲み、ほとんど戦闘が行なわれなかったが、唯一の戦闘といえるのが6月22日の篠曲輪攻めであった。篠曲輪は小田原城外郭の山王口の外に築かれた出丸である。井伊隊はそこに夜襲をかけて篠曲輪を落とし、敵の足軽大将小屋甚内を討ち取った。初陣であった秀用は長野業実とともに一番乗りの武功をあげたとして、秀吉の本陣に召し出され、南部黒の馬と紅裏の胴服を褒賞として拝領したという。(「井伊年譜」)
小田原の陣での井伊隊の動きはこちらから
典拠史料
「井伊年譜」
「寛政重修諸家譜」
「井伊年譜」
「寛政重修諸家譜」
井伊直政家臣列伝 その7 鈴木重好(後編) ~「井伊谷三人衆」から直政筆頭家臣へ~
直政家臣の筆頭
鈴木重好は、井伊直政家臣団の中で筆頭に位置する重臣であった。
井伊隊の軍事構成は、2つの先備え隊と旗本隊を基本としたが、関ヶ原合戦の際には重好と木俣守勝が先備え隊の隊長を務めている。合戦後、重好が土佐浦戸城の受け取りに出向いたのも、そのような立場に基づいて派遣されたのであった。慶長7年(1602)の分限帳では、5500石という家臣団の中で最高の知行を得ている。
また、彦根城の築城工事の最中、視察にやってきた大久保長安へ応対したのも鈴木と木俣であり、幕府への応対や政務の上でも家臣の筆頭であった。
井伊隊の軍事構成は、2つの先備え隊と旗本隊を基本としたが、関ヶ原合戦の際には重好と木俣守勝が先備え隊の隊長を務めている。合戦後、重好が土佐浦戸城の受け取りに出向いたのも、そのような立場に基づいて派遣されたのであった。慶長7年(1602)の分限帳では、5500石という家臣団の中で最高の知行を得ている。
また、彦根城の築城工事の最中、視察にやってきた大久保長安へ応対したのも鈴木と木俣であり、幕府への応対や政務の上でも家臣の筆頭であった。
そのように取り立てられた理由は、「井伊谷三人衆」として井伊家と古くから関わりが深く、また、軍事的能力があってのことであろうが、そのほかにも重要な要因があったと思われる。
それは、重好は直政と従兄弟という関係にあったという点である。直政の母と重好の母は姉妹(奥山親朝の娘)であった。もちろん、中野三信・小野朝之など、ほかにも直政の従兄弟は配下にいた。そこで、今川配下時代の関係をみると、中野・小野らは井伊家の配下にあったのに対し、鈴木は今川直臣であり、独立した城主の立場で与力として井伊家とともに軍事行動をともにしていた。つまり、もともと対等な格の家柄であった親族のため、鈴木は井伊家の中で一門衆の扱いを受け、先手隊の隊長に取り立てられたと考えられる。
それは、重好は直政と従兄弟という関係にあったという点である。直政の母と重好の母は姉妹(奥山親朝の娘)であった。もちろん、中野三信・小野朝之など、ほかにも直政の従兄弟は配下にいた。そこで、今川配下時代の関係をみると、中野・小野らは井伊家の配下にあったのに対し、鈴木は今川直臣であり、独立した城主の立場で与力として井伊家とともに軍事行動をともにしていた。つまり、もともと対等な格の家柄であった親族のため、鈴木は井伊家の中で一門衆の扱いを受け、先手隊の隊長に取り立てられたと考えられる。
鈴木が直政の親族という立場でその家中にあったのは、重好の男子を直政の養子にしたことからも言える。重好四男の直重は、慶長12年(1607)までには井伊采女と称していた。井伊の苗字を名乗っており、直政の養子として家康にも対面したという。しかし、慶長14年に死去しており、どのように遇しようとしていたのかは不明である。
家中騒動と鈴木重好の井伊家からの退去
重好が井伊家の中核にあったのは、当主直政のもとでさまざまな出自をもつ家臣に対する統率が行き渡っていたからであった。直政が亡くなるとすぐに井伊家の統制はとれなくなり、家中騒動が起こった。
家中騒動は、直政没後の重好の行動に対し、他の重臣が不満を持つという関係で生じた。慶長10年(1605)6月、河手主水、椋原対馬、中野介大夫、西郷勘兵衛、松下源太郎は連名で、本多正純ら家康の側近に宛てて重好の行状を非難する訴状を提出した。そこには、金銀の不正流用、年貢未進の不正処分、役儀や賞罰・知行宛行の不正などが記されている。
その結果、家康周辺からの内済により、重好を隠居させて井伊家から放し、嫡子の重辰に5500石の知行と重臣としての立場を継承させることで落着となった。それでも根本的な解決とはならなかったようで、最終的には重辰も彦根を離れることとなる(後述)。
さて、重好自身は隠居してしばらくは重辰の知行地に居住していたが、慶長19年の大坂冬の陣に際して本多正信に属して戦い、続く夏の陣では正信隊から離れて戦功を挙げた。その後一時期、松平忠輝を後見するようにと付けられたが、元和2年(1616)に忠輝が改易となったので、重好も一旦重辰のもとに戻った。
元和4年になり、将軍秀忠の命によって水戸徳川頼房への付家老となった。水戸の家中には実戦経験が豊かな家臣がおらず、軍事経験豊富な重好をその家中に付けたということである。5000石の知行を拝領し、寛永10年(1633)に隠居した。その家督は、孫(重辰の男子)の重政が養子となり継承した。
元和4年になり、将軍秀忠の命によって水戸徳川頼房への付家老となった。水戸の家中には実戦経験が豊かな家臣がおらず、軍事経験豊富な重好をその家中に付けたということである。5000石の知行を拝領し、寛永10年(1633)に隠居した。その家督は、孫(重辰の男子)の重政が養子となり継承した。
その後も鈴木家は代々、水戸藩の家老を務め、幕末に至った。幕末水戸藩の藩内抗争では、穏健派の「諸生党」の中核におり、慶応4年(1868)、戊辰戦争が始まると対立した天狗党の残党により八代重矩・九代重棟らは捕らえられ、重矩は獄中病死、重棟とその息子らは斬罪となった。
井伊家家臣の立場の継承と断絶
慶長10年、重好が家中騒動の収束のために井伊家から離れることになったが、重辰はその立場や知行高はそのまま継承した。つまり、幕府へ鈴木の不正を訴えたにも関わらず、鈴木へ処罰は下されず、鈴木を筆頭家臣として井伊家を支える状況に変化はなかったのであった。
その後も井伊家の重臣層は安定しなかったようである。その要因の一つに、当主井伊直継が若年であり家中を統率しきれなかった点があった。ただ、直継の成人後もその状況は変わらず、最終的に井伊家を二つに分けることで決着がはかられた。
大坂冬の陣では、直政二男の直孝を大将として井伊家の部隊は出陣し、陣後、直孝は彦根15万石、直継は上野安中3万石を領することとなった。重辰も、冬の陣では先手備えの大将として出陣したが、直継に従って安中に移る。3000石を拝領してここでも筆頭家臣の立場にあり、夏の陣では横川関所の警備を担った。
ところが、寛永11年(10年という説もあり)に重辰が死去すると、その息子は幼少につき、惣領重信へ1500石(1000石とも)、二男へ500石、三男へ300石を相続するよう命じられた。それに対し、彼らの祖父である重好はそれに納得せず、寛永12年、重信ら三兄弟を井伊家の扶持から離して、直臣にしたいと幕府に願った。しかしそれが実現するまでに重好が死去してしまい、重信は牢人となり、二男と三男は帰農した。
ところが、寛永11年(10年という説もあり)に重辰が死去すると、その息子は幼少につき、惣領重信へ1500石(1000石とも)、二男へ500石、三男へ300石を相続するよう命じられた。それに対し、彼らの祖父である重好はそれに納得せず、寛永12年、重信ら三兄弟を井伊家の扶持から離して、直臣にしたいと幕府に願った。しかしそれが実現するまでに重好が死去してしまい、重信は牢人となり、二男と三男は帰農した。
これにより、鈴木家の嫡流で井伊家に仕える者はいなくなった。ただ、分家では井伊家に仕えている者がいる。鈴木石見守(重好)の甥という鈴木甚大夫重長を初代とする家で、300石~500石取で足軽大将などを務めた中級藩士の家である。
井伊直政家臣列伝 その6 鈴木重好(前編) ~「井伊谷三人衆」から直政筆頭家臣へ~
鈴木平左衛門尉重勝
「井伊谷三人衆」の一人、鈴木重時は、父重勝の時代から三河国山家吉田に居住し、足助の鈴木氏と同族という。重勝は天文元年(1532)に青龍山満光寺(新城市下吉田)を造立しており、隣接する柿本城もその頃までに重勝により整備されたと考えられる。
重勝は、今川義元が三河へ進出してきた際に臣従している。義元は天文15年(1546)冬から三河平定に向けて動き出していたが、天文22年、今川一族の関口氏純からの働きかけによって重勝が被官となったことを示す義元朱印状が現存している。
その後、永禄3年(1560)の桶狭間の戦い後に徳川家康が今川から離反したのに伴って東三河の者が今川から離れようとした際に、重勝は今川方として行動している。永禄4年9月には、宇利城にいる近藤康用を味方につけて井伊谷へ申し合わせて軍事行動をしたとして、今川氏真から本領安堵と宇利に200貫文の地を所務するようにという判物が下されている。これにより、鈴木氏は今川配下で井伊谷の「井伊衆」という軍事組織に組み込まれて軍事行動をとっていたことと、近藤氏を味方につける(=徳川方へ離反させない)ために重勝が尽力したことがわかる。
このように、鈴木氏は「井伊衆」のなかで三河衆の中核的立場にあったことが窺えるが、婚姻関係からもそのことが推測できる。重勝の息子の重時の妻は奥山朝親の娘であり、井伊直親(直政の父)や中野直之、小野朝直とは妻が姉妹同士という関係で結ばれていた。
鈴木三郎大夫重時
鈴木三郎大夫重時
重勝は永禄年間に隠居して重時が当主となる。永禄7年に重時に宛てた今川氏真からの感状が出されているので、その時までに家督を相続していたと思われる。永禄10年までは重時と近藤康用は今川方として対徳川の最前線で戦っていたが、永禄11年12月、家康が遠江に侵攻しようとして菅沼定盈から菅沼忠久へ調略を働きかけたのに両名も同調し、徳川方について家康の遠江進出を手引きした。しかし、重時は翌年の堀江城での戦いで討死した。
重時が討死したとき、嫡子の重好はまだ12歳だったので、重時の弟である重俊が鈴木の兵を率いて出陣した。元亀元年(1570)の姉川合戦の後、翌年に武田氏が遠州犬居・奥山へ兵を向けた際にも近藤らとともに防戦のため出陣したが、その際に重俊は討死した。
鈴木石見守重好
その後も三人衆は井伊隊に属して出陣している。天正18年の小田原の陣では、鈴木隊は小田原城を囲んでいた井伊隊の別働隊として行動し、武蔵方面に向かった。浅野長政、本多忠勝の部隊に同行して岩槻城攻めに加わり、重好は手傷を負っている。
慶長5年(1600)の関ヶ原合戦では、重好は井伊隊の先手として布陣した。合戦では他の部隊に先んじて一番に馬を入れ、井伊隊で討ち取った首級150のうち53は鈴木隊で討ち取ったものであったという。
慶長5年(1600)の関ヶ原合戦では、重好は井伊隊の先手として布陣した。合戦では他の部隊に先んじて一番に馬を入れ、井伊隊で討ち取った首級150のうち53は鈴木隊で討ち取ったものであったという。
重好の戦功として知られているのが、土佐浦戸城の接収である。合戦後、敵方についた長宗我部盛親の領地を没収することになり、直政は重好を土佐へ派遣した。しかし長宗我部の家臣が浦戸城に立てこもって抵抗し、接収は難航した。そのことを直政に報告すると、重好を叱責する返書が2通送られてきた。12月1日付書状では、あえて入魂な仲である井伊家が赴いたのに抵抗された不手際を叱責し、成果が得られなければ帰ってくるか、そうでなければ家康から軍勢を派遣して悉く討ち果たすのでお前たちもそこで討死するように、と強い口調で指示している。このことは脅しではなかったようで、12月5日の書状では、四国の大名に対し土佐への出陣命令が下りたことを伝えている。同日、浦戸では城の接収に成功し、重好もミッションを成功させた。
慶長7年の分限帳をみると、重好は5500石となっており、直政家臣団のなかで筆頭の石高であったことがわかる。
~鈴木家(後編)につづく~
後編では、なぜ鈴木氏は井伊家の筆頭家臣となったのか、また、その後の鈴木家のゆくえについて述べます。
典拠史料
『新修彦根市史』6巻
『新修彦根市史』6巻
井伊直政家臣列伝 その5 菅沼忠久 ~「井伊谷三人衆」の家~
菅沼一族
菅沼氏は戦国時代、三河国東部の設楽郡に本拠を置いた一族で、嶋田、長篠、田峯、野田などを領する家に分立していた。
長らく駿河の今川氏の配下にあり、本拠から国境を越えて遠江へも勢力を伸ばしている。永正年間(1504~1521)、駿河の戦国大名今川氏親が遠江への侵攻をはかって遠江守護の斯波氏と対立し、西遠江各地で戦闘が繰り広げられていた際には、引間城の大河内氏や三岳城の井伊次郎が斯波方として戦う中、野田菅沼の定則が今川方として戦功をあげ、遠江国河合・高部郷を恩賞として与えられている。
井伊谷とは国境を挟むが距離的には近く、古くから井伊谷周辺の勢力とも関わりを持っていた。
長らく駿河の今川氏の配下にあり、本拠から国境を越えて遠江へも勢力を伸ばしている。永正年間(1504~1521)、駿河の戦国大名今川氏親が遠江への侵攻をはかって遠江守護の斯波氏と対立し、西遠江各地で戦闘が繰り広げられていた際には、引間城の大河内氏や三岳城の井伊次郎が斯波方として戦う中、野田菅沼の定則が今川方として戦功をあげ、遠江国河合・高部郷を恩賞として与えられている。
井伊谷とは国境を挟むが距離的には近く、古くから井伊谷周辺の勢力とも関わりを持っていた。
菅沼忠久とその家系
「井伊谷三人衆」の菅沼忠久は、『寛政重修諸家譜』によると、父元景の代から井伊直親に仕えたという。また、「都田 菅沼次郎右衛門忠久」とも見え、井伊谷周辺の都田に居住していたと思われる。忠久やその父は一族からみれば庶流であり、長篠を離れて井伊氏の配下にあったのである。 家康は遠江を領すると、次に武田氏との戦いが続いた。「三人衆」の本拠地である奥三河は武田が南下してくるルートにあたり、家康は彼らを最前線で武田の侵攻から守るためそこに配備した。その後、天正10年(1582)末に井伊直政は家康から侍大将に取り立てられ、天正12年の小牧・長久手の合戦にその部隊がはじめて出陣することになった。この出陣に際して、「三人衆」は井伊隊に属することとなった。ただし、忠久の履歴には長久手合戦への出陣はなく、死去した年代は天正10年と文禄4年の二説ある。
忠久またはその跡を継いだ忠道が直政に仕えたが、忠道には跡継ぎがないまま死去したため断絶する。『寛政重修諸家譜』には忠道の子の次郎右衛門勝利が幼少につき井伊家に仕えず江戸へ行き、のちに将軍秀忠に仕えたという。一方、「侍中由緒帳」(菅沼次郎右衛門家)では、次郎右衛門の女子二人のうち旗本永見新右衛門へ嫁して生まれた男子を旗本に取り立て、母方の菅沼姓を称したという。一方「御侍中名寄先祖付帳」では、この人物を次郎右衛門の落とし子という。いずれにしても、忠久の子孫は旗本の家だけが継承されていたが、天保15年(1844)、彦根藩士として次郎右衛門の家が再興された。忠久の娘の一人が彦根藩重臣の長野十郎左衛門家へ嫁していたため、長野氏の次男に10人扶持を与えて菅沼次郎右衛門の名跡を継承させている。
江戸時代後期になり由緒を重んじる意識が高まっており、彦根藩では井伊氏先祖に関わりの深い家をいくつか再興させているが、菅沼家もその一つと考えられる。
<家系>
初代 忠久
2代目 忠道 無嗣断絶
(旗本の家) 勝利 忠久の孫または落とし子、旗本の家として継承
再興 次郎右衛門 天保15年に彦根藩士の家を再興
江戸時代後期になり由緒を重んじる意識が高まっており、彦根藩では井伊氏先祖に関わりの深い家をいくつか再興させているが、菅沼家もその一つと考えられる。
<家系>
初代 忠久
2代目 忠道 無嗣断絶
(旗本の家) 勝利 忠久の孫または落とし子、旗本の家として継承
再興 次郎右衛門 天保15年に彦根藩士の家を再興
忠久の弟の家系
一方、忠久の弟の子である定重は、17歳で召し出されて、直政の小姓として仕えている。ただし、関ヶ原合戦後、200石取となったが井伊家を離れて伊勢長島城主菅沼定芳(菅沼定盈の家系)の家臣となった。井伊家を離れたのは、関ヶ原合戦後の恩賞に満足しなかったからともいう。定芳のもとで当初は客分として300石、のち400石下され大坂の陣に出陣した。ところが、定芳の家督を継いだ定昭が無嗣断絶となったため、定重の跡を継いだ定朝は牢人となった。そのため、彦根藩に願い出て、寛文2年(1662)、井伊直澄より200石取で召し出された。以来、安永10年(1781)に6代目が改易されるまで、代々井伊家に仕えた。<歴代>
初代父 新右衛門 忠久の弟、病弱につき奉公せず
初代 新三定重(『寛政重修諸家譜』では作左衛門重吉としている) 直政小姓、関ヶ原合戦後、菅沼織部正に付く
2代目 作左衛門定朝 菅沼織部正家断絶後、寛文2年に彦根藩へ召出
菅沼淡路守家
菅沼姓をもつ直政家臣として菅沼淡路守がいる。慶長7年(1602)には菅沼藤太郎、同12年には菅沼淡路が1000石拝領しており、同一人物と考えられる。淡路は元和元年(1615)に井伊直継に付いて安中藩士となった。ただし、掛川分限帳には菅沼氏の名は見られなくなっており、掛川在城時(1659~1706)までに井伊家を離れた(または断絶)と思われる。菅沼淡路守(初代)は奥山親朝の娘と縁組みしている1人として奥山氏の系図に記されている。親朝の娘の1人に井伊直政の母がおり、直政と姻戚関係があったことになる。淡路守は『寛政重修諸家譜』などで確認できず菅沼一族の中での位置関係は不明であるが、「淡路守」という国司の官名を称しており、少なくとも「次郎右衛門」を称していた忠久より格上の人物であったと思われる。 直政家臣となった菅沼一族の中でもっとも知行が高く厚遇されたのは、親戚関係や元々の家格によるといえよう。
<歴代>
初代 淡路守:妻は奥山親朝娘
2代目 藤太郎、のち淡路と改称 井伊直継に付き安中藩へ
<歴代>
初代 淡路守:妻は奥山親朝娘
2代目 藤太郎、のち淡路と改称 井伊直継に付き安中藩へ
そのほか、菅沼郷左衛門三房も井伊谷出身という出自を持ち、忠久と近い同族と思われる。天正12年の長久手の陣より直政に御供している。直政の代には200石取であった。彦根藩士の家としてはこの家だけが幕末まで途切れず続いている。