彦根歴史研究の部屋

彦根や井伊家の歴史について、これまで発表してきた私見の紹介・補足説明・修正など。

井伊直政の肖像画あれこれ

写真のなかった時代の人物は、肖像画が残っているとどんな人だったのかイメージしやすいものです。
でも何種類もあると、どれが本人に近いのだろう?
と思いますよね。

 

井伊直政肖像画は数種類残っています。
よく使われているのは、『井伊直政 家康筆頭家臣への軌跡』の表紙にも使った画像です。

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肖像画の上部には賛が記されていますが、これは禅僧の鉄山宗鈍(1532-1617)が書いたもの。家康も帰依した妙心寺派の重鎮なので、直政自身も交流があったはずです。
そのため、描かれた時期は没後まもなくと考えられており、本人の面影をよく伝える肖像画といえるでしょう。


井伊家の菩提寺である清凉寺には、井伊家歴代当主の肖像画があり、もちろん直政画像もあるのですが、ちょうど顔のあたりに損傷があり、残念ながら風貌はわからなくなっています。


一方、「片岡愛之助の歴史捜査」#95では、長松院所蔵の肖像画が何度も使われていました。

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長松院(彦根市中央町)は、直政荼毘の地に建てられたお寺です。境内には荼毘の地に

建てられた供養塔がありますが、その前面にはそれを説明する高い石碑が建っています。

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その側面には、明治34年(1901)の直政300年祭の際に供養塔を整備したと記されています。旧彦根藩士で内務官僚でもあった西村捨三の筆によるものです。

直政の肖像画もこの300年祭にあわせて制作されました。この頃は、「赤備え」の甲冑を身につけて馬に乗る武者ぶりが直政を象徴する姿だと人々に認識されていたことが窺えます。

 

このほか、彫像も数点現存しています。
最も古いのは、京都の六波羅蜜寺にある木像で、元和9年(1623)に井伊家2代の直孝が創らせたと伝えます。

遠江井伊谷龍潭寺の御霊屋には、共保、直盛とともに直政の木像が祀られています。この直政木像の作成経緯は「井伊家伝記」に記されています。正徳元年(1711)に龍潭寺祖山が井伊家を味方につけて訴訟に勝利した後、井伊家先祖を供養するために井伊直興から寄進を受け、共保と直政の木像や、井伊家歴代の位牌を新たに作成したというものです。

時代が下って文化8年(1811)、井伊直政・直孝(井伊家2代)を祀る「護国殿」が清凉寺内に創られましたが、その中には両者の木像が安置されました。

 

時代が古いほど本人の風貌をよくとらえており、時代が下ってからのものは作成意図を反映しているという特徴が見られます。

井伊直政が家康家臣となった際の逸話について(推論)

井伊直政 家康筆頭家臣への軌跡』を刊行したことで、いくつか取材を受けました。
その中で聞かれたことで、著書の中に記していなかったことをここで記しておきます。

 

 井伊直政が家康の鷹狩の際に偶然対面して家臣となったという逸話について。

 

直政が家康に召し出されたのは、家康が鷹狩りに出かけた際に対面して声を掛けたのがきっかけというのは、江戸時代初期の由緒書にも書いてあるため、完全な創作とは言いがたい。ただ、それは偶然ではなく、偶然性を装う「演出」がなされたと見るのがよいと思う。


名家の跡継ぎが召し出されるということなので、直政が居城(浜松城)に登城してそこで対面するというのが正式なやり方になるはずであるが、そうはしなかった。その理由は、井伊家の跡継ぎの存在について、家康はあえて周囲の家臣らにも秘密にしていたためではないだろうか。


直政の存在は家康と井伊家旧臣たちの間だけのトップシークレットで、家康の外出時に対面する機会が設定され、主従関係をとり結び、家臣となったのではないかと考える。

 

直政出仕直前の頃の政情を考えると、徳川はまだ武田と対立しているため、井伊の跡継ぎの存在が武田に知られると、武田としてはその身を奪って自分たちの手元に置こうと考えかねない。当主を味方にすることで、井伊谷周辺を支配下に置くのに有利に働くことになるからである。
井伊家の跡継ぎの存在が徳川家臣の間に知れ渡ると、その情報が武田に漏れないとも限らない。

 

このようなことが起こらないよう、直政の存在を秘密にしておき、直政が15歳になるとすぐに、比較的動きやすい鷹狩りで対面して主従関係を結び、家臣にすることに成功した。とは考えられないだろうか。

 

この対面のために裏で働いたのは、もちろん「井伊家伝記」が述べるような次郎法師や南渓ではなく、松下ら井伊家配下にあった者でこの時点では徳川家臣となっていた者しか考えられない。

井伊直政 はじめての大仕事

直政が実績を残した最初の大仕事は何でしょうか?

 

それは、天正10年(1582)8月から10月にかけて甲斐国で北条氏と戦い、旧武田領を手に入れた「天正壬午の乱」と断言できます。

この年の3月に武田氏は滅亡し、旧武田領は織田信長支配下となりますが、6月の本能寺の変によってそれは崩れたため、武田旧領には徳川・北条・上杉が進出し、争うことになりました。
徳川は、いち早く甲府に進出しましたが、まもなく北条が北信濃から甲州に入ってきて徳川と衝突します。このとき北条勢は2万とも4万とも言われる大軍を率いて若神子(わかみこ)城に本陣を置きましたが、それに対する徳川勢はわずか数千でした。それに加えて北条は小田原から1万の兵を送って徳川方の守る甲府盆地へ攻めかかりました。徳川方はわずか1500の兵ながら、北条方を破ります。この「黒駒の合戦」は劣勢ながらも北条に勝利し、武田旧領を手中に収めて5か国の大名への道が開けたもので、家康の生涯でも大事な一戦だったといえるでしょう。
兵力差がありながら徳川方が勝利できた要因は、軍事的な作戦も一つでしょうが、地元の武士や村を味方につけていたためではないかと言われています。

家康は、7月上旬に甲府に入ると、もともと武田配下にあった地元の武士たちに対して、徳川の配下に入るよう交渉をしていました。
そのとりまとめを担った中心の一人が直政でした。

武田旧臣で徳川配下に入った者は、最終的に800名以上となったようです(家康への臣従を誓った「天正壬午甲信諸士起請文」の人数による)。
そのそれぞれに対して、徳川の家臣が対面して、元から支配している領地や権限をそのまま認めるといった交渉を行い、臣従する合意を取り付けました。

この交渉は手分けして行われましたが、その主要な一つが直政とその配下のグループだったと考えられます。
最初に配下の者が交渉を進め、次に直政も対面して彼らが徳川に臣従する合意ができると、最終的に家康の面前に出て主従関係を取り結ぶ対面儀礼が行われました。この儀礼の場で直政は、彼らの意向を家康に伝え、両者の間をとりもつ役割を担いました。
また、これを受けて本領を認めるという家康の朱印状が出されましたが、ここには「井伊兵部少輔がこれをうけたまわる」という文言が明記されています。
つまり、直政は、武田旧臣が徳川方に帰属する交渉の責任者という仕事を与えられ、見事その結果を残したわけです。

この時直政は22歳。直前に呼び名を「兵部少輔」と改めていることからしても、名門井伊家のプリンスに「箔」をつけて、対外交渉役に抜擢したのが家康の策であったことがわかります。

これらは、「黒駒の合戦」やその後の北条氏との戦いの最中に行われていました。
直政は、軍事力ではなく、味方を増やす交渉という側面で尽力し、徳川の大勝利へ貢献したのでした。

くわしくは、『井伊直政 家康筆頭家臣への軌跡』第1部第3章をご覧下さい。 

井伊直政はなぜ徳川家康の筆頭家臣に昇り詰めたのか?

井伊直政 家康筆頭家臣への軌跡』のテーマは、

井伊直政はなぜ徳川家康の筆頭家臣に取り立てられたのか?

という理由を探ることでした。

 

結論だけを言ってしまえば、

名門の出自+外交交渉能力

この2つが直政を家康筆頭家臣にしたと考えられます。

 

まず出自について・・・
井伊氏は西遠江の有力国衆の家柄であり、徳川よりもはるかに名家です。
家康はその地に軍事進出して領地としましたが、元の領主の「プリンス」である直政を配下に入れ、相応に遇することは、徳川が新しい領地を治めるためにも有効でした。

そのような家柄に生まれた直政は、生まれついての才能に加え、大将となるべき教育を受けて育ち、抜群の交渉能力を身につけます。


この2つを武器に、家康は22歳の直政に武田氏が滅んだ後の家臣を味方につける交渉を担当させます。
その後も秀吉の母である大政所が家康のもとに人質として送られた際、直政は大政所を預かる役を担い、大政所に気に入られたといわれています。
また、直政の交渉力が際立ったのは、豊臣秀吉の没後から関ヶ原合戦までの政争の中で、諸大名を味方につける交渉を担ったことでしょう。

 

直政の破格の出世は家康の寵童だったためという俗説がありますが、井伊家という出自のもつ重みがわからなくて、何らかの理由をひねり出したものでしょう。

井伊直政が松下家の養子となった理由

大河ドラマ「おんな城主 直虎」では、若き日の井伊直政松下源太郎の養子となって松下家の跡継ぎとなっていたのに、井伊家を復興したい思いから家康へ井伊の名を名乗ることを願ったと描かれていました。

 

数少ない史料のすきまを埋めてドラマ化したのでこうなるのですが、史実はどうなのでしょう。

史料での叙述は、
・「直政公御一代記」
直政は、家康に仕える時、最初は自分のことを牢人の倅と言っていたが、その後井伊直親の子であると述べたので、家康は井伊の名字を名乗ることを許した。

→この史料では、松下の苗字との関係には触れていません。

・「井伊家伝記」
直政は、家康が鷹狩りしていた際に初めて対面して召し抱えられ、浜松城に帰って家康から父祖の由来を述べた。それを聞いた家康が、松下を改めて井伊の家名とするように、また、虎松を改めて万千代とするよう名前を下された。

とあります。

そのほか、松下家の系図にも、直政が松下源太郎の養子として記されており、直政の母が直政を連れて松下源太郎のもとに再嫁したのは間違いないと考えられます。

ではなぜ、直政の母は松下に再嫁したのでしょう。

当時の領主階層では、婚姻とは政治的なつながりのために行われるのが常であったと考えると、この婚姻も政治的な理由があったと考えるのがいいのではないでしょうか。
その理由とは、幼少の直政をかくまって松下のもとに置くこと、そして一人前の武家とするための教育を施すことがあったと考えました。
また、直政にとって松下は義父となるので、直政が一人前になった際には親族として直政を後見する関係となったといえます。

当時、井伊谷周辺は徳川と武田の戦場と化していました。また、今川・北条との関係も不安定な中で、例えば、井伊家跡継ぎの存在が知られたならば人質として奪われる可能性もあるので、その存在を知られないで武家の息子として育てるために、前代より井伊家を支えてきた「7人衆」の1人である松下氏のもとに預けられたのではないでしょうか。

直政が松下屋敷に入った年代は不明です。
「井伊家伝記」では、天正2年12月に直政が父直親の13回忌のために鳳来寺から龍潭寺にやってきたので、その際に直盛正室・次郎法師・直政実母と南渓和尚が相談して、家康に出仕させようと相談して鳳来寺に帰さず松下源太郎の方へ忍ばせたとあります。
そうすると、直政が松下屋敷に入ったのは出仕の2か月ほど前ということになりますが、「井伊家伝記」は南渓和尚の功績をたたえようとする脚色が多く施されているため、この話も史実ではなく逸話としておくのがよいと思います。

家康が井伊谷に進出した永禄11年12月頃、直政は井伊谷から離れた安全な場所に身を隠すために鳳来寺に逃れ、そこで数年間を過ごし、その後松下が養父という関係で後見することになり、母の再嫁という形を取って直政が松下屋敷に入って育てられたと考えられます。
このように考えると、松下は徳川配下に入っていたので、松下の養子となることも家康の了解のもとでおこなわれたのではないでしょうか。

そうすると、松下に入ったのは直政が井伊家当主として出仕する準備のためであり、出仕後、井伊の名を名乗ることになった(家康がそれを認めた)のは当然のことでしょう。

くわしくは、『井伊直政 家康筆頭家臣への軌跡』第1部第1章・第2章をご覧下さい。

「直虎」の時代の井伊谷を支えた人物は・・・

大河ドラマでは、「おんな城主直虎」が井伊谷を治めていたことになっていますが、実際の所はよくわかっていません。

少なくとも、成年男子の当主が不在だったことは確実です。
このような場合、形式的な当主は置いても、実質的な政務は一族や重臣らによって執られるのが一般的でした。

この時期の井伊氏も、地域を統治する行政組織や軍事組織としての井伊氏は存在しており、それらを数名の一族・重臣が担っていたことがわかる記述を見つけたので、『井伊直政 家康筆頭家臣への軌跡』ではそれに基づいて論を展開しました。

新しく見つけたのは、『譜牒余録』という史料で、永禄11年(1568)12月に徳川家康遠江へ進出する際に味方工作をした菅沼定盈の末裔が幕府に提出した家譜の記述です。定盈が味方工作を進める様子を記す中に、
井伊谷の跡を守る家臣小野・松下・松井・中野ら7人の内、都田の菅沼次郎右衛門忠久は定盈と一家(一族)なので家臣を忠久の宅に遣わして遠州打ち入りの儀を儀談(相談)した。忠久はまた井伊谷の近藤石見守康用・瀬戸の鈴木三郎太夫重路とこの儀を謀り・・・」(意訳)
と記されています。

ここからは、家康侵攻直前の井伊谷は、「井伊谷三人衆」と呼ばれた菅沼・近藤・鈴木と、小野、松下、松井、中野の7氏が守っていたと読み取れます。

小野は井伊氏家老の小野但馬守、松下は頭陀寺(浜松市南区)を本拠とする国衆でのちに井伊直政の養父となる松下源太郎、中野は井伊氏一門の中野直之のことと考えられます。また、松井は、直政の初期からの家臣に二俣城主松井宗信の孫という由緒を持ち、井伊谷で生まれ育った4兄弟がいることから、その父に比定できると考えました。

このことから、家康侵攻の直前の井伊氏は、当主「次郎法師」のもと、配下にある「七人衆」によって政務運営されており、そのうちの「三人衆」が家康に味方してその遠江進出の案内役となった、ということが導き出せました。


なお、『譜牒余録』は、天和3年(1683)から翌年にかけて大名・幕臣らが幕府に提出した古文書や由緒書などを編纂したものです。由緒書は、一般論として、先祖の功績を誇大に記すこともありますが、井伊谷家臣の名を創作したとしても菅沼氏にメリットはないため、ここの記述は信用してよいと判断しました。

 

くわしくは、『井伊直政 家康筆頭家臣への軌跡』第1部第2章をご覧下さい。

家康から拝領した「唐の頭」 ~菅田将暉への説明の補足~

昨日(10月16日)のNHKテレビ「鶴瓶の家族に乾杯」は彦根が舞台で、大河ドラマ井伊直政役を演じている俳優の菅田将暉彦根井伊直政ゆかりのものに触れていました。
その中で、彦根城博物館で井伊家当主の「赤備え」の甲冑を見学したとき、説明していた学芸員が「唐の頭(からのかしら)」の話をしていましたので、ここで説明を加えておきます。

江戸時代の井伊家当主は、当主の座につくとそれぞれ「大将タイプ」の甲冑をこしらえましたが、その際、徳川家康から拝領した「唐の頭」を先代から受け継いでいたことを私がみつけたのは、2011年秋に開催した展覧会「武門の絆―徳川将軍家と井伊家―」の調査の際のことです。


戦国時代の甲冑は、「変わり兜」と呼ばれるさまざまな飾りが施されましたものが見られます。その中に「唐の頭」と呼ばれた毛をつけたものがあります。

この毛は、チベット高原に生息する犛牛(やく)という動物の毛で、中国からもたされたため「唐の頭」と呼ばれました。雨露を防ぎ、威嚇効果もあることから、兜に動物の毛をかぶせることが戦国大名の間で流行しました。徳川家康がこれを好んだことは、「家康に過ぎたるものが二つあり、唐の頭と本多平八」とうたわれたことからもよく知られています。

江戸時代中期から明治期の井伊家伝来資料の中に、井伊家当主を継承すると受け継ぐ3品があったという記述を見つけました。いわゆる「三種の神器」のようなものです。その3品とは
1 御拝領唐頭毛御立物
2 御麾
3 御軍扇
の3つで、これを列記した目録が数点現存しています。
年代がわかるもの古いものとしては、寛政元年(1789)4月24日付けの文書が現存しています。これは、井伊家11代直中が家督相続した8日後にあたります。

ここに記される1つ目は、拝領した「唐の頭」の毛で、「立物(たてもの)」(兜につける装飾)として使うものということがわかります。この目録からだけでは誰から拝領したかは特定できませんが、明治時代の記録には家康からの拝領品と記されています。また、誰が受け取ったかも記録はありませんが、家康から拝領したとなれば初代直政か2代直孝のどちらかに限定されます。
2つ目と3つ目は、大将が軍団を指揮するする際に使う采配と軍扇です。

このことから、この3品は家康から拝領した「唐の頭」を付けて軍団を指揮することを象徴する品であり、それを受け継ぐということは井伊の「赤備え」隊の大将の役割を継承する意味が込められていることがわかります。

井伊隊とは、直政を大将にするよう家康が命じて組織した部隊であったことを考えると、「唐の頭」を拝領したのは直政だったのではないでしょうか。
(もちろんこれは裏付けのある話ではなく、直政であってほしいという希望的観測が含まれているのですが。)

この3品は、13代当主直弼の甲冑にも附属していたことが、その具足櫃に入っている「御具足入記」に記されています。さらにそこには、万延元年(1860)5月21日に御譲りになったという加筆があり、新当主の就任に伴ってこの具足櫃から取り出されて移されたことが明記されています。

その後の3品の行方については、明治35年(1902)時点で東京に所在するという記録があります。明治以降、井伊家の本邸は東京市麹町区一番町(現、東京都千代田区)にあったことから、そこで保管されていたのでしょう。しかし、この屋敷は関東大震災によって罹災し、多くの所蔵品が焼失してしまいました。これらの3品もそれらと同様の運命をたどったようです。


この内容は、
彦根市制75周年・彦根城博物館開館25周年記念企画展「武門の絆―徳川将軍家と井伊家―」2011年10月~11月、彦根城博物館
で初めて紹介し、展覧会図録でも、コラムとして「井伊家当主の『三種の神器』」を掲載しています。

コラムの文章は
「井伊家当主の『三種の神器』」(彦根市の広報誌「広報ひこね」での彦根城博物館の連載「ときの玉手箱」、2011年11月1日号)でもご覧いただけます。
http://www.city.hikone.shiga.jp/cmsfiles/contents/0000003/3707/20111101KH03.pdf