彦根歴史研究の部屋

彦根や井伊家の歴史について、これまで発表してきた私見の紹介・補足説明・修正など。

「直虎」の時代の井伊谷を支えた人物は・・・

大河ドラマでは、「おんな城主直虎」が井伊谷を治めていたことになっていますが、実際の所はよくわかっていません。

少なくとも、成年男子の当主が不在だったことは確実です。
このような場合、形式的な当主は置いても、実質的な政務は一族や重臣らによって執られるのが一般的でした。

この時期の井伊氏も、地域を統治する行政組織や軍事組織としての井伊氏は存在しており、それらを数名の一族・重臣が担っていたことがわかる記述を見つけたので、『井伊直政 家康筆頭家臣への軌跡』ではそれに基づいて論を展開しました。

新しく見つけたのは、『譜牒余録』という史料で、永禄11年(1568)12月に徳川家康遠江へ進出する際に味方工作をした菅沼定盈の末裔が幕府に提出した家譜の記述です。定盈が味方工作を進める様子を記す中に、
井伊谷の跡を守る家臣小野・松下・松井・中野ら7人の内、都田の菅沼次郎右衛門忠久は定盈と一家(一族)なので家臣を忠久の宅に遣わして遠州打ち入りの儀を儀談(相談)した。忠久はまた井伊谷の近藤石見守康用・瀬戸の鈴木三郎太夫重路とこの儀を謀り・・・」(意訳)
と記されています。

ここからは、家康侵攻直前の井伊谷は、「井伊谷三人衆」と呼ばれた菅沼・近藤・鈴木と、小野、松下、松井、中野の7氏が守っていたと読み取れます。

小野は井伊氏家老の小野但馬守、松下は頭陀寺(浜松市南区)を本拠とする国衆でのちに井伊直政の養父となる松下源太郎、中野は井伊氏一門の中野直之のことと考えられます。また、松井は、直政の初期からの家臣に二俣城主松井宗信の孫という由緒を持ち、井伊谷で生まれ育った4兄弟がいることから、その父に比定できると考えました。

このことから、家康侵攻の直前の井伊氏は、当主「次郎法師」のもと、配下にある「七人衆」によって政務運営されており、そのうちの「三人衆」が家康に味方してその遠江進出の案内役となった、ということが導き出せました。


なお、『譜牒余録』は、天和3年(1683)から翌年にかけて大名・幕臣らが幕府に提出した古文書や由緒書などを編纂したものです。由緒書は、一般論として、先祖の功績を誇大に記すこともありますが、井伊谷家臣の名を創作したとしても菅沼氏にメリットはないため、ここの記述は信用してよいと判断しました。

 

くわしくは、『井伊直政 家康筆頭家臣への軌跡』第1部第2章をご覧下さい。