彦根歴史研究の部屋

彦根や井伊家の歴史について、これまで発表してきた私見の紹介・補足説明・修正など。

井伊直政家臣列伝 プロローグ 井伊谷七人衆

 新シリーズとして「井伊直政家臣列伝」の連載を開始します。
 
 『井伊直政 家康筆頭家臣への軌跡』では、直政家臣のことも多く触れています。中には、史料を調べる中で新しくわかってきたこともあります。ただ、この本は直政が主役なので、家臣についてはわかったことすべてを出してはいません。
 そこで、毎回直政家臣を1人ずつ(場合によっては数名になるかも)とりあげ、それぞれの活動や直政との関係を示していきます。
 
 最初は、直政が井伊氏当主となる以前に井伊氏の中核を担っていた者についての新しい見解についてです。
 それではどうぞ。
 


プロローグ 井伊谷七人衆 ~直政以前の井伊家家臣~

 井伊谷七人衆とは・・・?
 初めて目にする方も多いだろう。

 まず、辞書的な定義を述べると、
 
徳川家康遠江に侵攻した永禄11年(1568)頃、成年男子の当主が不在であった遠江の有力国衆井伊氏のもとで政務をつかさどっていた井伊氏の一門・重臣・与力の七氏。
 

となる。

具体的には、「井伊谷三人衆」と呼ばれた菅沼忠久近藤康用鈴木重時に加え、井伊氏の家老であった小野、井伊一門の中野、周辺国衆の松下、松井の七氏で構成される。
 
 七人衆のことを初めて紹介したのは、『井伊直政 家康筆頭家臣の軌跡』においてあった。典拠は『譜牒余録』。江戸時代に幕府が諸大名から提出させた家譜・文書をもとに作成した編纂物で、菅沼主水の由緒を記す部分にこの七人のことが記されており、著書でそのことを紹介した。
 一方、「井伊谷三人衆」という表現は江戸時代から使われている。家康の遠江進出の際に井伊谷へ手引きをした三人としてそのように称された。しかし三氏の本拠地は井伊谷ではなく、遠江との国境に近い三河国内である。その彼らが井伊谷においてどのような影響力を持っており、家康を井伊谷に引き入れることができたのだろう。なぜ「井伊谷」三人衆と呼ばれてきたのだろう。これまでは、それらについて充分に納得できる説明がされてきていないように思う。
 そこで、「三人衆」を含む七人衆とは当時の井伊谷でどのような存在だったのか、考えていきたい。
 
 当時の井伊氏は、戦国大名今川氏の配下にある「国衆」と位置づけられる。国衆とは、一定領域を支配していた地域権力である。大名今川氏が命じる軍事動員に従うかわりに所領支配が認められるという関係にあった。井伊氏は西遠江の有力国衆で、周辺の者を動員してしばしば今川氏の軍事動員に応じている。

 実際、井伊氏の軍勢が今川の要請に応じて出陣したものとして次のものがある。
 この二例より、永禄6~7年頃に当主が不在となっていても、一族が当主代理(陣代)を務めて軍事組織を統率していたことがわかる。
 つまり、井伊氏はリーダーが不在の時期には有力家臣らが分担して地域権力としての仕事をしており、組織は機能していたと考えるのがいいだろう。似た例としては、豊臣秀吉の没後、幼少の当主秀頼のもとで五大老五奉行によって政務が執行されていたことが思い浮かぶ。
  
 近年の戦国大名研究によると、戦国大名の周辺で外交交渉などの政務は側近や一門が担っていたことがわかっている。井伊氏にあてはめると、側近とは家老小野氏、一門としては中野氏、新野氏などが相当すると考えられる。
 また、大名の軍事編制では、地域の拠点となる城を置き、その城主や家臣に加えて周辺の中小の国衆・土豪を与力として配属させて部隊を編制していた。具体的に述べると、井伊氏を中核として「井伊衆」という軍団が編制されて今川からの軍事動員にこたえていた。井伊衆の構成員は井伊氏の一門・家臣に加え、その周辺で今川の配下にある武家も多くいたと考えられる。彼らは井伊氏の家臣ではなく、軍事組織として配下にある関係で、同心・与力などと呼ばれた。この編制は軍事上にとどまらず、政治的にも井伊氏は大名今川氏と与力との間を仲介した。例えば与力が軍事上の功績や政治的な願出をする際には井伊氏を通じて行なわれている。
 
 東三河の菅沼・鈴木・近藤は、井伊衆の与力という立場にあったと考えられる。それを示す文書として、永禄6年5月22日付の今川氏真から鈴木重勝に宛てた感状がある(『静岡県史』資料編7所収)
。これは、鈴木が山中・大野郷の百姓を今川の味方につけたことを賞するもので、本文中に井伊谷から注進(報告)があったと記している。この頃、桶狭間の戦いの敗北によって徳川家康など今川からの離反者が出ており、東三河から遠江にかけて今川対反今川の争いが繰り返されていた。そのような中、鈴木が山中・大野郷の百姓を今川方に引き込むことに成功したため、その旨が井伊氏を通じて今川へと報告された。この感状は報告を受けた今川が鈴木の活動を賞したものである。
 鈴木の功績が井伊氏を通じて今川へ報告されており、鈴木氏が井伊衆の配下にある与力であったと考えられる。
 
 このように、鈴木ら「三人衆」は与力として井伊氏と密接な関係を持っていたと思われる。このほか、七人衆を構成する松下氏や松井氏も井伊氏の家臣ではないが、同様に井伊氏と関わりが深く、当主不在時期の井伊氏を主導したと考えられる。
 

 

朝鮮通信使と鳥居本宿

 先日、中山道鳥居本宿(彦根市鳥居本町)で開催された「とりいもと宿場まつり」の催しの1つとして、「朝鮮通信使鳥居本宿」というテーマで講演をしてきました。そこでは、通信使の通行と鳥居本宿との関わりについて紹介しました。
もちろん、先日刊行した『朝鮮通信使彦根 記録に残る井伊家のおもてなし』(サンライズ出版)で著した内容がベースになっていますが、それ以外に、宿泊・休憩をしていない街道上の宿場町であっても通信使の来日に対して独自の関わりがあったことを述べました。その概要を紹介します。

 

まず、鳥居本宿の人馬も通信使一行の輸送体制に組み込まれた点について。
宿場の主な機能に伝馬継立がある。宿場に人足と馬を常備しておき、隣の宿場まで輸送する仕事である。鳥居本宿のある中山道江戸幕府の道中奉行が管轄する街道であり、鳥居本宿にも伝馬継立を差配する問屋場が置かれ、人足と馬を50人・50疋常備することになっていた。通常は、宿駅ごとの伝馬継立によって輸送され、鳥居本からは中山道の高宮宿・番場宿と、彦根城下町に置かれた彦根宿、北国街道の米原の4か所へ継ぎ立てすることとなっており、幕府から公定駄賃も定められていた。

ところが、朝鮮通信使の通行時はこのような通常の輸送では行なわれなかった。通信使の輸送は規模が大きく、大量の人馬を必要とするため臨時体制がとられたのである。年代によって詳細は異なるが、1日分もしくは数日分の区間ごとの輸送がその地域の大名らに命じられた。それらのうち、彦根を出発して1日分の区間は、通常、彦根藩が輸送した。往路は彦根から大垣、復路は彦根から守山の区間である。この輸送には鳥居本の人馬も動員されたと考えられる。それは、彦根宿は日常的には伝馬継立の仕事はしなかったが、朝鮮通信使など臨時に輸送する際には彦根藩領内4宿(番場・鳥居本・高宮・愛知川)より人馬を呼び寄せるという定めがあったことからわかる。使節が通行する当日はもちろん、事前準備にやってきた幕府役人らが彦根宿から出発する輸送の一部を鳥居本宿の人馬が担ったと考えられる。

 

次に、通信使が通った街道の整備について。
彦根藩は、藩領内の通信使通行ルート上の整備を行なった。その1つに高札場の改修がある。高札は風雨に晒されて年月を経ると文字が読みづらくなっていくが、通信使の通行に際して、文字が読みづらいものは板を削るか文字を書き直すといった修繕が施された。また、街道の入り口に築かれた竹矢来も整備された。

彦根藩領内の街道の整備の実態として、次のような記録が残る。
第5回(寛永20年)の復路で、随行した対馬藩宗氏から幕府老中へ進行状況報告を伝えた書状に、「今須から彦根への道中で掃除人も付け置いており、道中の道には砂を置き、彦根町中の人が通る筋ではない所まで掃除が行き届いていた。見物人の作法も行儀よく、辻での警固もしており、格別の馳走であった。」と記されている。
この道中に鳥居本も含まれる。鳥居本宿内も掃除が行き届き、街道の両側で人々が通信使の行列を見物したことであろう。


鳥居本宿の人々にとって朝鮮通信使は、人馬の御用を負担し、宿場周辺の整備を指示され、相応の負担も課せられたものであったが、朝鮮人御用に関わる負担は全国に及んでいることであり、鳥居本に特有のものではない。その一方で通信使が目の前を通行し、行列を間近に見ることのできるのは限られた地域である。鳥居本は数少ない通信使の行列が目の前で見物できる「特等席」であったといえる。
 

 

f:id:hikonehistory:20191018134750j:plain

 

朝鮮人街道の謎に迫る その6 名称

 今回は朝鮮人街道」という街道の名称について。

 

現在は一般的にこの名称が使われているが、江戸時代の史料を見る限り、これが公式な名前ではなかったことがわかる。江戸時代にはいくつも呼び名があり、むしろ「朝鮮人街道」という名を探す方が難しいほどである。


江戸時代の絵図や文書を見ていくと、佐和山海道、御上洛道、朝鮮人道、御所海道、唐人海道など、さまざまな表記を見つけることができる。

有名なものは、幕府が作製した「五街道分間延絵図」(現在は東京国立博物館と郵政博物館が所蔵)で、朝鮮人街道のタイトルは「朝鮮人見取絵図」である。

早い段階の表記では、江戸時代前期に描かれたとされる「東海道中山道甲州街道図屏風」(篠山市立歴史美術館蔵)に、野洲側の分岐点付近に「佐和山海道」と記される。

幕末から明治初年頃の地元での呼び名には「唐人海道」というものが見られる。明治初年に作製された村ごとの耕地絵図(『彦根 明治の古地図』)には、そのような記載がある。


では、「朝鮮人街道」と名称が統一されたのはいつのことであろう?


江戸時代の間は名称を統一する必要性はなかったが、明治時代になり、政府が街道を管轄するようになると、地域でさまざまな名称で呼ばれていた道路に統一した公式名称がつけられることととなった。滋賀県の行政文書をたどると、明治2年には、地元でこの街道を朝鮮下街道、朝鮮人往来、唐人街道江州八幡街道と呼んでいる文書が確認できるが、政府が全国の道路を統一的に把握する政策のもと、明治7年には滋賀県がこの街道を「朝鮮人街道」と名付けた。

 

江戸時代には、それぞれの地域でわかりやすい名前をつけていたため、同じ街道であっても呼び名がいくつもあった。野洲、八幡、彦根それぞれの地域での呼び名が異なっていても不具合は生じなかった。しかし、明治になり全国を統一的な基準で統治する社会になると、行政政策上、名称を固定化されることになり、「朝鮮人街道」が正式な名称となったのである。

  

 

詳しくは、こちらの書籍をご覧ください。
www.sunrise-pub.co.jp

 

f:id:hikonehistory:20190412172450j:plain
f:id:hikonehistory:20190412172506j:plain



 

 

朝鮮人街道の謎に迫る その5 通行者の謎

朝鮮人街道についての解説の中で、「一般人の通行が禁じられていた」「将軍以外では唯一朝鮮通信使の通行が認められていた」というものを見たことがある。
この表現は正確なのだろうか?検証してみたい。

 

まず前提として、参勤交代や幕府役人など幕府公用での通行と、庶民の私的な通行を区分して考えたい。

参勤交代の大名が朝鮮人街道を通行しなかったのは確かである。西国の大名が参勤交代で通るのは原則として東海道で、事情によって中山道を通行することもあった。幕府は東海道中山道に宿場を置いて大名の宿泊施設である本陣を設置しており、大名が通行・宿泊するための設備が整えられていた。
一方、朝鮮人街道は彦根城下町を貫き、城下の伝馬町に「彦根宿」が置かれたが、この宿は中山道から彦根城下町に引き込まれた宿駅で、伝馬機能のみを持ち、宿泊機能は常備していなかった。彦根に立ち寄る目的がある場合に限り、彦根城下町に入り込む朝鮮人街道を通行し、彦根宿でも臨時の宿泊に応対した。
彦根へ立ち寄った公的な旅行者は、上洛する将軍と朝鮮通信使の他には、将軍代替わりごとに派遣された幕府の巡検使があった。そのほか臨時の幕府公用旅行者として伊能忠敬の一行もいる。彼らは朝鮮通信使を通行している。

一般の旅行者も、彦根や周辺の村々に用事のない者が通過するためだけに朝鮮人街道を通ることは考えにくい。一方、朝鮮人街道は彦根と周辺村落をつなぐ道筋でもあり、彦根藩関係者や地元の者が日常的に通行するのに支障があった訳ではない。

 

以上より、朝鮮人街道は、一般の通行が「禁じられていた」というより、彦根や街道上の村々に用事がなく通過するだけの旅行者が通行することを想定しておらず、宿泊施設なども常備されていなかったため、通行しなかったというべきであろう。

 

 

 

f:id:hikonehistory:20190729175553p:plain

 

 

 

詳しくは、こちらの書籍をご覧ください。
www.sunrise-pub.co.jp

 

f:id:hikonehistory:20190412172450j:plain
f:id:hikonehistory:20190412172506j:plain



 

 

朝鮮人街道の謎に迫る その4 幕府の街道政策の中で

 今回は、朝鮮人街道が江戸幕府の街道政策においてどのような位置づけであったのかを考えたい。

 

 まず前提として、幕府の管轄していた街道の区分を確認しておくと、

  Ⅰ 道中奉行の管轄していた五街道およびその附属街道

  Ⅱ 勘定奉行が地元領主を通じて取り扱った脇往還

に大別できる。


 中山道は当然五街道に含まれるが、朝鮮人街道はどういった位置づけであったのだろう。
 これを的確に示しているのが、道中奉行が作成した五街道他の「見取延絵図」であろう。道中奉行が支配下の街道を調査して作製し、文化3年(1806)に完成したものである。この時作製された絵図の一つに「朝鮮人道」があるため、この街道が道中奉行の管轄する街道であり、上記Ⅰにあたることがわかる。


 また、道中奉行から各宿へ宛てた文書を見ると、鳥居本・高宮など中山道の宿駅一斉に出した文書の宛先に「彦根」が含まれることがある。
 この「彦根」とは、朝鮮人街道が彦根城下町に引き込まれ、城下の伝馬町に置かれた宿駅「彦根宿」のことである。
 幕府は、荷物を輸送させるため伝馬宿継の仕組みをつくった。宿駅に一定数の人馬を配置し、それを使って荷物を次の宿へと継ぎ送る。宿駅の中で伝馬宿継を担った施設が問屋場である。

 

 伝馬町内には問屋場が置かれ、荷物を輸送する人足と馬が常備されていた。また、宿場の中央には他の宿駅と同様、幕府の基本法令などを記した高札が掲げられており、その一枚には彦根宿から鳥居本宿と高宮宿への公定賃銭を記した札もあった。つまり、鳥居本彦根間と、彦根-高宮間は、中山道から彦根城下町へ引き込まれた街道としての機能を有していた。
 一方、彦根宿から南下する方向へは日常的に公的な荷物を輸送することを想定しておらず、臨時に幕府公用の荷物を運ぶ時には彦根藩領の四宿から人馬を呼び寄せて御用を務めることになっていた。

 

 以上より、朝鮮人街道は幕府の管轄という点では中山道の附属街道という位置づけであったが、伝馬宿継の機能を持つのは鳥居本彦根間だけで、それ以南は日常的な幕府公用の通行が想定されておらず伝馬宿継機能を持たなかった。


 他の街道とくらべると、この街道に与えられた機能は限定的であったといえるだろう。

 

 

f:id:hikonehistory:20190729175553p:plain

 

 

 

詳しくは、こちらの書籍をご覧ください。
www.sunrise-pub.co.jp

 

f:id:hikonehistory:20190412172450j:plain
f:id:hikonehistory:20190412172506j:plain



 

 

朝鮮人街道の謎に迫る その3 整備の経緯 

 

  前回、朝鮮人街道は下街道(巡礼街道、信長の整備した佐和山城から安土城へ向かう街道)をもとに、江戸時代初期に整備されたことを示した。

 今回は、江戸時代初期に整備された経緯を考える。

 

 これを考えはじめたきっかけは、慶長12年(1607)の第1回通信使の時点では、彦根城下町や朝鮮人街道はどの程度整備されていたのだろう? という疑問であった。当時、彦根城は築城工事中で、慶長12年の早い段階で公儀普請は完了したと考えられているが、第1回通信使を迎える前にどの程度の宿泊施設が整備されていたのかを考えてみた。


 調べはじめると、慶長10年に上洛した徳川秀忠一行が「佐和山」に宿泊していたが、このことは彦根築城の歴史においてこれまであまり注目されてこなかったことに気づいた。しかもこの上洛は秀忠が将軍宣下を受けて将軍となるためのものであり、大人数で上洛している。幕府の成立にとって重要な意味をもつ大がかりな儀礼的行為でもあり、事前に街道や宿泊場所が整えられた。

 秀忠の宿泊場所を「佐和山」と記すのは「慶長見聞録案紙」という史料で、この史料は全体的に秀忠の動向が比較的詳細に記されている。そこに「佐和山」と記してあっても、廃城となった佐和山城のこととは限らない。江戸の将軍周辺にいる人々にとって、彦根という地名はまだなじみ薄く、引き続きこの史料では井伊家を「佐和山城主」と記していたからである。
 また、彦根城の工事では、周辺の廃城から石材などが集められたという伝承があり、実際に佐和山城跡には石垣がほとんど残っていない。そのように考えれば、慶長10年の秀忠上洛で宿泊したのは佐和山城ではなく、築城工事中の彦根城であろう。また、慶長9年10月に大久保長安彦根にやってきて築城工事の進捗状況を見分したのも、秀忠上洛の準備のためと考えられる。

 そうであれば、秀忠が宿泊する御殿に加え、多くの随行者の宿泊所が必要となり、急ぎ彦根城下町に宿泊施設が設営されたと考えられる。同時に、彦根からの上洛道も整備されたことであろう。

 

 一方、第1回通信使の通行ルートはいつ決定したのであろう。
 第1回の通信使は、朝鮮からの外交使節が江戸へ向かう初めての機会であり、どのルートを通るか事前に確定していたわけではなかった。使節は途中、京都に20日以上も滞在しているが、これは京都所司代板倉勝重が通信使の処遇について江戸へ問い合わせをして回答を待っていたためである。その回答の中に、通信使が江戸へ向かうルートが指定されていたことであろう。幕府の意向により、一行は将軍上洛道を通って彦根城下町に宿泊するルートを通り江戸へ向かった。
 これを先例とし、次回以降の通信使でも同じルートを通行したため、通信使の通行ルートが確定することとなったのである。

 

 徳川将軍の上洛は寛永11年(1634)を最後として幕末まで途絶えてしまう。そのため、将軍上洛道を通る最大のイベントが朝鮮通信使となり、人々にもその記憶が残ることとなった。

 

 なお、彦根周辺での下街道の新道(江戸時代の朝鮮人街道)への付け替えについて、第1回通信使の時点ですでに行なわれていたかどうかは明らかではない。少なくとも慶長10年の秀忠上洛では、宿泊所などの整備を最優先としたはずなので、新道を敷設する余裕はなかったと思われ、すでにある旧道(巡礼街道)を通行した可能性が高い。元和元年から8年の城下町整備工事に際して、伝馬町の設置とともに城下へ引き入れる街道も敷設されたのではないだろうか。

 

 

f:id:hikonehistory:20190713154736p:plain

朝鮮人街道 彦根城下町周辺

 

 

 

詳しくは、こちらの書籍をご覧ください。
www.sunrise-pub.co.jp

 

f:id:hikonehistory:20190412172450j:plain
f:id:hikonehistory:20190412172506j:plain



 

 

朝鮮人街道の謎に迫る その2 巡礼街道から朝鮮人街道へ

 前回、 朝鮮人街道およびその前身街道は、整備された段階として次の3つに区分できることを示した。

  1. 中世段階(信長による整備以前)
  2. 織田信長による整備
  3. 江戸時代初期の整備

1は、彦根山に築城する以前、霊場として寺院が建ち並んでいた時期に、参詣者が彦根山へ向かった道である。

彦根古図」「彦根御山絵図」などと称される築城以前の彦根周辺を描いた絵図には、彦根山に向かって南側から道が描かれており、「御幸道」などという名称も書き込まれている。

この道が、江戸時代以来、地元で「巡礼街道」と呼ばれる道で間違いないだろう。

 

f:id:hikonehistory:20190713161020p:plain

巡礼街道

織田信長は、安土城を築いた際、周辺街道も整備した。岐阜と安土をつなぐ街道は、城郭があった佐和山と山崎山を通っているのは確実である。この両山をつなぐルートは、それ以前から巡礼街道が通っていたが、信長はこの道を整備したと思われる。それは、次に述べるとおり、江戸時代には古道(巡礼街道)と新道(朝鮮人街道)の2ルートが通っていたがそれ以外の「第3の道」が存在していた痕跡はなく、信長時代に新道へと付け替える理由も考えられないからである。

信長の時代の佐和山・山崎山間の街道も、旧来と変わらず「巡礼街道」のルートと考えてよいだろう。

 

ところが、江戸時代に入ると途中でルートが変更された。

山崎山から日夏をすぎるまでは古道(=1・2段階の街道)と同一であるが、甘呂村近くで東に進路を変えて、条里地割で8町分東側の道を北上して芹橋につながり、彦根城下へと入る。

 

f:id:hikonehistory:20190713144755p:plain

巡礼街道(古道)と朝鮮人街道(新道)

この街道は、彦根城下に入ると、城下で宿駅機能をもつ伝馬町へといたる。さらに先へ進むと、城下を貫いて佐和山切通しを越え、鳥居本宿の南端で中山道と合流する。彦根城下でのルート設定は、城下の宿駅を置く位置に関わってくることであり、彦根城下町の都市計画の中で決定されたと考えるのが妥当であろう。

新道(変更後のルート)へと付け替えられた時期は明らかではないが、彦根城下町の町割りは元和8年(1622)までに完成していることから、その時までに変更されたと想定できる。

 

f:id:hikonehistory:20190713154736p:plain

朝鮮人街道 彦根城下町周辺

要は、古来より、東山道よりも琵琶湖側に通っていた「下街道」は彦根山に向かって延びていたが、江戸時代初期、彦根城築城の一環で彦根山より約4キロメートル手前で東側に折れた新ルートへと付け替えられ、彦根城下町の中を貫いて鳥居本中山道に合流したということである。

 

 

詳しくは、こちらの書籍をご覧ください。
www.sunrise-pub.co.jp

 

f:id:hikonehistory:20190412172450j:plain
f:id:hikonehistory:20190412172506j:plain