朝鮮人街道の謎に迫る その6 名称
今回は「朝鮮人街道」という街道の名称について。
現在は一般的にこの名称が使われているが、江戸時代の史料を見る限り、これが公式な名前ではなかったことがわかる。江戸時代にはいくつも呼び名があり、むしろ「朝鮮人街道」という名を探す方が難しいほどである。
江戸時代の絵図や文書を見ていくと、佐和山海道、御上洛道、朝鮮人道、御所海道、唐人海道など、さまざまな表記を見つけることができる。
有名なものは、幕府が作製した「五街道分間延絵図」(現在は東京国立博物館と郵政博物館が所蔵)で、朝鮮人街道のタイトルは「朝鮮人道見取絵図」である。
早い段階の表記では、江戸時代前期に描かれたとされる「東海道・中山道・甲州街道図屏風」(篠山市立歴史美術館蔵)に、野洲側の分岐点付近に「佐和山海道」と記される。
幕末から明治初年頃の地元での呼び名には「唐人海道」というものが見られる。明治初年に作製された村ごとの耕地絵図(『彦根 明治の古地図』)には、そのような記載がある。
では、「朝鮮人街道」と名称が統一されたのはいつのことであろう?
江戸時代の間は名称を統一する必要性はなかったが、明治時代になり、政府が街道を管轄するようになると、地域でさまざまな名称で呼ばれていた道路に統一した公式名称がつけられることととなった。滋賀県の行政文書をたどると、明治2年には、地元でこの街道を朝鮮下街道、朝鮮人往来、唐人街道や江州八幡街道と呼んでいる文書が確認できるが、政府が全国の道路を統一的に把握する政策のもと、明治7年には滋賀県がこの街道を「朝鮮人街道」と名付けた。
江戸時代には、それぞれの地域でわかりやすい名前をつけていたため、同じ街道であっても呼び名がいくつもあった。野洲、八幡、彦根それぞれの地域での呼び名が異なっていても不具合は生じなかった。しかし、明治になり全国を統一的な基準で統治する社会になると、行政政策上、名称を固定化されることになり、「朝鮮人街道」が正式な名称となったのである。
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