関ヶ原合戦図屏風に関する発表済み文章
関ヶ原合戦図屏風については、2003年に論文を発表し、その成果を展覧会や一般向けの文章で紹介してきました。
これまで発表した文章をここでまとめておきます。
論文
「関ヶ原合戦図屏風の図像とその展開」『彦根城博物館研究紀要』14号 2003年
展覧会
彦根城博物館テーマ展「よみがえる関ヶ原合戦 -関ヶ原合戦図を読む-」2010年10月29日~11月30日
展覧会図録です。
2003年頃、常設展示でも紹介しているはずですが、データが手元にありません。
一般向け文章
「描き変えられた関ヶ原合戦図」(「彦根城博物館だより」61 2003年6月1日号)
「旗印から読む関ヶ原合戦図」(「広報ひこね」2003年11月1日号)
http://www.city.hikone.shiga.jp/cmsfiles/contents/0000003/3669/20031101KH03.pdf
「創作された旗印~関ヶ原合戦図の史実とフィクション」(「広報ひこね」2010年11月1日号)
http://www.city.hikone.shiga.jp/cmsfiles/contents/0000003/3742/20101101KH03.pdf
「二つの関ヶ原合戦図~制作意図を読み解く」(「広報ひこね」2013年7月1日号)
https://www.city.hikone.shiga.jp/cmsfiles/contents/0000004/4216/20130701KH09.pdf
関連グッズ
2010年の展覧会にあわせて作ったものです。
現在、彦根城博物館ミュージアムショップで購入できるのはポスターのみ。研究紀要と展覧会図録は完売しています。(2018年3月現在)
関ヶ原合戦図屏風は観て楽しみたい
先週末の夜、テレビ番組で「関ヶ原合戦図屏風」が使われているのを見つけました。
「嵐にしやがれ」3月17日放送の中、将棋の羽生さんと嵐メンバーとの対決で、関ヶ原合戦図屏風の複製が背景に立てかけられていました。
説明などまったくなかったので、井伊家伝来本(彦根城博物館所蔵)だと気づく人はほとんどいないと思いますが・・・。
関ヶ原合戦を描いた絵画は何種類もあります。
十数年前から戦国合戦図について研究が進み、一つの合戦でも色々なパターンの作品が見つかりました。関ヶ原合戦図を描いた作品も、何系統も現存していることがわかってきました。
絵画作品として評価されている関ヶ原合戦図は、
通称「津軽屏風」と呼ばれる八曲一双の大きな屏風。現存する関ヶ原合戦図のうちもっとも古く、家康が戦勝記念に描かせたと伝えるもので、重要文化財に指定されている作品。大坂歴史博物館所蔵。
が有名です。
大阪歴史博物館:第26回特集展示「前田コレクション名品撰-重要文化財「関ヶ原合戦図屏風」と工芸の優品-」
ただ、有名な部将たちが東西両軍にわかれて関ヶ原でバトルを繰り広げた様子がわかりやすく描かれているのは、井伊家に伝来した関ヶ原合戦図でしょう。
この作品は古くから知られており、社会の教科書や資料集をはじめとしてさまざまな書籍にも掲載されているので、見たことのある方は多いはずです。
関ヶ原合戦図 | 彦根城博物館|Hikone Castle Museum|滋賀県彦根市金亀町にある博物館
この関ヶ原合戦図が受け入れられたのは、単に古くから知られているだけではなく、観ていて楽しいからだと思います。
関ヶ原合戦では、多くの大名・領主が配下の者を統率して軍事組織を結成し、戦いました。
この合戦図は、関ヶ原で戦ったほとんどの部隊を描き込んでいます。そのため、どこにどの部隊がいるのか、どの隊と戦っているのか、あるいはどのような動きをしているのか探して楽しむことができます。
おそらく作者自身がそのように意識して描いたと考えられます。
実は、井伊家伝来本はオリジナル作品ではなく、写しです。同様の構図をもつ写しの作品には
- 井伊家家老の木俣家に伝来した屏風(彦根城博物館所蔵)
- 関ケ原町歴史民俗資料館所蔵
などがあります。
オリジナルは現存していませんが、狩野梅春という幕末の絵師が描いたようです。
このこと、つまり幕末の絵師が同時代の読者を想定して描いた作品であることを念頭において作品を見てみると、興味深いことがわかってきます。当時と私たちとでは、関ヶ原合戦について知っている歴史知識が異なっているからです。
江戸時代の人は関ヶ原合戦についてどのような情報を持っていたのかを知ると、この作品をいっそう楽しむことができます。
詳しくは、
野田浩子「関ヶ原合戦図屏風の図像とその展開」(『彦根城博物館研究紀要』14号、2003年)に記しています。
次回以降、楽しさを少し紹介しましょう。
この関ヶ原合戦図屏風は、観ていて楽しい作品です。テレビ番組では、相応の利用料金を支払って使用しているはずなので、背景として使うなら他にふさわしい絵画があるのでは? と思って見ていました。
肩書のない1年
昨年の3月末に退職し、どこにも属さずに1年を過ごしました。
肩書がない暮らしは、日常的には何ら問題ないものの、所属を表示しないといけない場面も何度かありました。
最初は、名刺の表記。
フリーであれ仕事をしている以上、名刺は必須。
仕事上で渡す際には、自分が何者か表記しておく必要があります。
そこで、前の所属と研究テーマを記しました。そして、渡す際には「退職して現在はフリーで研究しています」と、説明を加えることにしました。
肩書を表記することを迫られたのは、論文掲載の時です。
『日本歴史』という専門の論文雑誌に論文が掲載されることになったのですが、論文の末尾には所属を表記することになっています。
この場合も編集部の方と相談して、「元○○」と前職を入れることにしました。
唯一支障があったといえば、史料閲覧を依頼した際のことでしょうか。
歴史史料の現物の多くは博物館施設が所蔵しており、研究する上でどうしても必要な場合、所蔵機関に閲覧を依頼します。
前回述べたとおり、『井伊直政』の執筆に際して、未確認の井伊直政書状があったため、所蔵機関に閲覧を依頼しようとしました。
電話して用件を伝えたところ、こちらの所属を聞かれ、「博物館を退職して現在は所属していない」と伝えると、電話の主(おそらく事務方)から先に取り次いでもらませんでした。
ようやく、教員からの推薦があれば可能な場合もあるということを聞き出し、改めてそのルートで依頼して閲覧しました。
もちろん、機関により方針があるのは当然です。私も同様の依頼を受け付ける担当をしていたため、一般の歴史愛好家から史料を見せてほしいという電話に何度も応対してきました。
おそらく多くの機関では、一定の基準を設けて、必要不可欠な専門家に限って認めるという運用をしているのでしょう。
専門家と考えるかどうかのわかりやすい基準が所属・肩書であり、応対した人が誰であっても同様の判断ができます。
私の場合はレアケースで、事務方では判断できる基準がないため、事情のわかる専門家へ判断が委ねられたと理解できます。
「創り出した」偶然 その2
前回は、『黒田家文書』の史料集との偶然の出会いについて記しました。
偶然の出会いについて、もう一つ。
『井伊直政 家康筆頭家臣への軌跡』では、井伊直政が差し出した、あるいは受け取った書状類を何点も写真掲載しました。その中に、ある偶然で見つけた書状があります。
2017年1月、京都大学総合博物館で「日本の表装―紙と絹の文化を支える」という展覧会が開催され、観覧に行きました。この館は、学生時代、学芸員資格を取るための実習をさせていただいた思い出深い博物館です(当時は「京都大学文学部博物館」という名称でしたが)。
この展覧会は、職務で古文書の保存や修理に携わっていた関係で、非常に興味ある内容でした。担当していた彦根藩井伊家文書の修理を写真パネルで取り上げていただいていたこともあり、寒い時期でしたが足を運びました(もちろんプライベートで)。復職後はじめて、久々の観覧でした。
展示内容は、古文書修理を担当してそれなりに知識がある身にとっても、非常に教わることの多い展示で、来てよかったと感じて観覧していました。
このように満足した気持ちで、最後に展示室の中央に置かれたケースを見ていたとき、書状を貼り継いだ文書の中に「井伊侍従殿」という文字を見つけました。
その文書は、公家の勧修寺家文書の一つで、勧修寺晴豊が差し出した文書の控えなどが、貼り継がれて太く巻かれているものでした。
さらによく見ると、裏側には差出人名の位置に「井伊」や「直政(花押)」と記されています。つまり、直政から受け取った書状の裏側を使って、晴豊は直政らへ差し出す書状の文言を写し置いていたのでした。のちに、これらの文書は関連文書と一括して貼り継いで巻物に仕立てられますが、その際に紙の高さを調節するため上下は裁断され、署名も一部が切断されています。
それでも、直政と勧修寺晴豊が交わした実物の書状が現存していたのです。
実は、この文書は展覧会の図録には掲載されていません。図録には勧修寺家文書の修理の歴史を示すという展示意図が示され、別の文書は掲載されています。展示スペースに余裕があったため、後世に貼り継いだ文書の実例を追加して紹介したのでしょうか。いずれにせよ、形状を見せる展示意図であり、直政の部分が開披されたのは偶然と思われます。
勧修寺家文書は外部の者が容易に閲覧できる状態ではなく、さらに文書名に井伊直政の名は出ていません。さまざまな偶然が重なって、展覧会会場でこの文書を見つけることができました。できるかぎり展覧会へ出向いて原史料に向き合おうと心がけていたからこそ出会えたと感じました。
ここまでなら、いい話で終わるのですが・・・
その後、申請して原史料を閲覧させていただいたところ、この文書の後半には徳川家康と井伊直政の口宣案写が含まれており、すでに遠藤珠紀氏が論文で紹介されているものだったことが判明しました。その論文(「徳川家康前半生の叙位任官」『日本歴史』803号)を読み返してみると、井伊直政らへ宛てた時候の挨拶の書状が写されていると明示されていました。
結局は自分の見落としだったのです。
今回は展覧会での偶然によりリカバーできましたが、これを肝に銘じて、以後気をつけようと思いました。
それでも、現物を見なければ紙背文書に気づくことはなかったでしょう。
『黒田家文書』との出会い
井伊直政といえば、従来、「徳川四天王」や、「井伊の赤備え」というキーワードが示されていたように、徳川家康の重臣の一人としては認識されていましたが、活躍した場面は関ヶ原合戦や小牧長久手の合戦など、戦場で活躍した人物と思われていました。
それに対して、私が直政の政治家・外交官としての功績を初めて示したのは、2007年のことでした。同年3月に論文「徳川家康天下掌握過程における井伊直政の役割」を発表し、その内容は同年秋の彦根城博物館展覧会「戦国から泰平の世へ-井伊直政から直孝の時代-」で取り上げました。
ここでは、豊臣秀吉没後から関ヶ原合戦に至る政治抗争=政界再編において、徳川が多数派を占めることができた大きな要因には、直政の優れた外交交渉能力があったことを、実際に交わされた書状等をひもといて示しました。
この論をまとめようというきっかけには、ある史料集との出会いがありました。
福岡市博物館が発行した『黒田家文書』第1巻(1999年)です。
ここには、黒田如水・長政が豊臣秀吉・徳川家康や諸大名から受け取った書状など、黒田家にとって最も重要な文書類239点が掲載されています。
その中に黒田長政と井伊直政が交わした書状や起請文が含まれていました。中には、これまで知らなかった直政関連文書があり、これらの直政文書の意味を考える中から、直政の外交交渉能力の検討へと至ったのでした。
この史料集は、その他にもさまざまな点で“すごい”1冊でした。
全体構成や内容的にも他に例を見ない作りのものです。
すべての文書について、釈文、読み下し文、注釈が示されています。また、別冊ですべての資料の写真が示されており、活字では読み取れないさまざまな情報を読み取ることができます。
多くの史料集を見ていると、紙面の都合から掲載できる情報を限定しています。釈文中心となったり、重要資料のみの抜粋となることが多いですが、『黒田家文書』は省略することなく、あらゆる情報をその中に入れようという方針がうかがえます。そのため、専門の研究者だけでなく、歴史に興味のある一般の方にも理解できる内容となっています。
さらに、第1巻ということもあり、この史料集の刊行の意義と、黒田家資料寄贈の経緯が述べられています。
特に、大名家資料の場合、大名家の末裔が所蔵していた史料を地元自治体に寄贈して、地元の博物館が中核的な資料として保管・公開する例が各地に見られますが、黒田家資料が現在のように収蔵されるに至る経緯がきっちりと示されたことは非常に意義あると感じました。旧華族の「家」の資産から、地域の歴史を示す公共性の高い文化財へとすることで、永続的に保存管理できる体制を整えた、おそらく先駆的な事業であり、担当者ご本人による文章からは、情熱をもって苦難を乗り越えてその使命を果たしたという達成感が読み取れます。
同様の大名家資料の保存管理・史料集作成を仕事としてきた身として、考えることの多い1冊でした。
実はこの本に出会ったのは、「創り出した」偶然の成果といえます。
博物館で仕事をしていると、つきあいのある博物館等から刊行物を贈っていただくことはありますが、それがすべてではありません。大学のように、専門書が揃っている図書館を自由に使えるわけでもありません。
そのため、自主的に(当然公務ではなく)出かけていき、「何か関係する研究がないか探す」ということを時々やっています。『黒田家文書』を見つけたのは、京都府立総合資料館でのことでした。井伊直政の文書が含まれているとは知らず、何げなく手に取ったところ、前述したような豊富な内容のものだったのです。
京都府立総合資料館は、近年新しくなって京都府立京都学・歴彩館となりました。新しい建物で使いやすくなった点もありますが、開架で自由に手に取れる図書は少なくなったように感じます。開架スペースの減少はこの館に限ったことではありませんが、開架されていたからこそ偶然の出会いが生まれ、新たな着想へ展開することもあるのです。
「小山評定」は2度あった!
「小山評定」といえば、関ヶ原の合戦の直前、会津の上杉氏へ兵を向けていた徳川家康や豊臣恩顧の諸将らが小山(栃木県小山市)に進軍したところで、上方で石田三成が挙兵したことを聞き、引き返して石田方へ兵を向けることを決めた軍議として知られています。
最近、「小山評定」は無かったという説も出てきています(白峰旬『新解釈関ヶ原合戦の真実』)。たしかに、諸将が一堂に会して進軍方針をはかったところ、福島正則が家康に味方するとまっさきに発言し、諸将がそれに同意して上方へ戻ることにした、という評定のドラマ的なやりとりは創作されたものとみてよいと思いますが、だからといって小山の地で進軍計画を変更したという事実が否定されるものではありません。
*ここでは、徳川家康が小山で軍事方針を変更したことを「小山評定」とカッコをつけて表現します。
この頃の井伊直政の行動と役割を見ていったところ、小山で徳川家康によってなされた進軍方針についての大きな決断は2度あったとことがわかりました。
1回目は、これまでから知られているように、上杉氏へ兵を向けていたのを引き返すという方針転換です。慶長5年7月26日付の書状で、今日より兵を上らせると述べているので、25日頃に変更を決めたことがわかります。
この時の方針は、
①豊臣恩顧の諸将が先行して東海道を西上する
②家康もそれを追って清洲周辺で合流する
③徳川秀忠を大将とする徳川の主力部隊は、宇都宮周辺で上杉方に対する防衛を整えた上で東山道を上る
という3手にわかれて尾張・美濃方面へ向かい、合流して揃って敵に向かう、というものでした。
これに基づいて26日以降、それぞれが兵を動かしはじめています。
ところが、29日頃、家康の元へ大坂方面の新たな動きが報告されました。
第1報の段階では、石田三成らが挙兵したということだけで、大坂城の淀殿や奉行衆は家康と対立した訳ではありませんでした。
それが第2報では、「内府ちがいの条々」が出され、豊臣政権が家康を敵としたという情報が入ってきました。もはや家康は政権の一員ではなく、政権と対立する謀叛人という立場になったのです。
そうすると、第1報に基づく軍事計画をそのまま続行するわけにはいきません。しかし各部隊はすでに進軍を開始しています。
そこで、豊臣諸将の中のキーパーソンである黒田長政を呼び戻し、家康・井伊直政と長政とで再度軍議を開きました。
軍議の結論は次のようなものでした。
家康に味方をするということは豊臣政権つまり豊臣秀頼に敵対することを意味する。豊臣恩顧の諸将はこれまで、政権の一員である家康にはついてきてくれたが、「謀叛人」となった家康に味方するとは限らない。それを考えると、当初計画通りに家康が彼らに合流するのは危険が高い。そこで、諸将が徳川方に味方することが確実となるまで家康は諸将と合流せず、井伊直政が家康の名代として諸将のもとへ行って、彼らを統率する。
この結論は8月3日に決定したようで、4日付で家康は諸将それぞれへ「直政を先勢として遣わすので、家康が到着するまでは直政の指図に従うように」という書状を出しています。
この決定を受けて直政は家康の元を出発して清洲で諸将と合流し、直政と諸将の軍議によって岐阜城への攻撃を開始しました。
直政は徳川方の最前線として、刻々と変化する情勢に対応しながら、同行する諸将が徳川方から離反しないよううまくコントロールし、関ヶ原の決戦へと至ったのでした。
くわしくは、『井伊直政 家康筆頭家臣への軌跡』第3部第2章をご覧下さい。ほかにも論拠となる史料を示して論じています。
真田昌幸の助命~井伊直政の交渉術~
関ヶ原合戦で徳川家康をもっとも苦しめたといえるのが真田昌幸。戦後、家康は昌幸を生かしておくつもりはありませんでしたが、井伊直政の交渉術によって昌幸の命は助けられたと伝わります。
ここでは、その話を記す史料を紹介します。
この話は、真田家文書に所収される「真田家武功口上之覚」(米山一政編輯『真田家文書 中巻』)に記されています。
史料(読み下し)
関ヶ原御勝利の上、安房守・左衛門佐儀御誅罰遊ばさるべきの由仰せ出さるるのところ、伊豆守一命に替え、父命の儀御助け下され候ように、本多中書・伊井兵部少殿達って頼み入る。伊豆守存じ詰め候段、右の御両人至極と御聞き届け、権現様へは委細申し上げられず、御前へ御出、安房守儀伊豆守一命に替えて御訴訟申し上げ候間、御意受け申さず候へども、安房守一命助け申し候段、伊豆守方へ申し渡し候由、兵部少殿仰せ上られ候。その時以ての外御腹立遊ばされ、治部少よりおもき謀叛人のところ、むさと致たる申し様と御意なされ候へば、兵部殿申され候は、伊豆守父子引き別れ忠義申し上げ候義、安房守御刑罰の上は、何分の御厚恩御座候ても在命甲斐なしと存じ御訴訟申し上げ、御承引御座なく候はば、伊豆守存知相究め候と相見え申し候、その上私儀も頼まれ、御承引御座なく候えば、御奉公罷り成りがたく存じ詰め候、本多中書儀も私同意に御訴訟申し上げ候間、この儀においては安房守の命御助け下され候ように、達って申し上げ候故、右の通り命御助け、高野山へ遣わされ候事
内容
真田信幸(伊豆守)は、家康が父昌幸(安房守)に厳しく処分し命を奪おうとしていると知り、直政と本多忠勝のもとへ出向き、自分の一命をかけてでも命を助けられないか、懇願した。
そこで直政は一計をめぐらした。
直政は信幸が家康に対面して父の助命を願う機会を設定した。ただ、家康にはわざと対面内容・目的を説明しておかなかった。
家康の面前に出た信幸は「自分の一命にかえて父安房守の命を助けてほしい」と願ったが、家康としては突然のことで返事を保留した。
しかし直政が独断で信幸に「安房守の一命を助ける」と伝えた。
それを聞いた家康は「昌幸は石田三成よりも重い謀反人ではないか。どういう了見なのか」と怒ったが、直政は「信幸は父と別れて徳川方に忠義を尽くしてくれた。どんな恩賞より昌幸の命に優るものはない」「この願いを叶えられなければ信幸は今後徳川に味方しなくなるだろう」と述べた。さらに、「私も頼まれた上は、これを認めていただけなければ面目が立たない、今後家康様への奉公を続けていけない」と述べ、昌幸の命は助かったと伝わる。
自分の進退を懸けたすさまじい交渉術である。相手が主君の家康といえども、一時の感情に動かされるのではなく、その後の影響を考えて最善の策を主張している。訴えてきている者にとって何が最良の恩賞かを判断し、それを与えることによって相手はさらに忠義を尽くすであろうし、結局は徳川のためになるという判断である。