彦根歴史研究の部屋

彦根や井伊家の歴史について、これまで発表してきた私見の紹介・補足説明・修正など。

井伊直政家臣列伝 その14 渡辺昌元 ~初めての新規家臣~ 

 これまで見てきた初期からの直政家臣は、直政以前より井伊氏と関わりを持っていた。井伊氏を再興させようとして直政を当主に据えることに尽力してきた者や、井伊氏の没落により離れていたが直政の出仕とともに戻ってきた者らが集結した。
 
 しかしそれだけでは家臣の人数が十分ではない。
 直政は、おそらく出仕当初から、遠江の有力国衆の家を継ぐ名家として処遇されたと思われる。そうであれば、相応の家臣を抱え、家臣団を充実させる必要が生じる。
 
 渡辺九郎左衛門昌元は、直政以前の井伊氏とのつながりを由緒として持たず直政配下に入った最初の者といえる。
 その出仕経緯は、『侍中由緒帳』には「権現様より直政様へ御付け遊ばされ」という記述のみで出仕時期が明確ではないが、「貞享異譜」には出仕年次が天正16年であることと天龍河原の陣から出陣していると記す。天龍河原の陣は、武田勝頼天正2年(1574)に高天神城を落として遠江の拠点としたため、徳川が周辺に城を築いて対峙する状況で起こった衝突である。武田との対立は高天神城を落とす天正9年まで続くが、天龍河原の陣は天正7年頃のことと推定できる。昌元は天龍河原の陣までには直政家臣となっているということなので、貞享異譜の記す出仕年次「天正16年」は誤記と判断できる。天正6年であれば齟齬はない。
 
 渡辺昌元の出身は遠江横須賀で、大須賀出羽守のもとに奉公していたが、父の跡目を不足に思い大須賀のもとを退き井伊谷にて井伊家に召し出されたという。昌元は遠江須々木領司渡辺大炊介昌遠の嫡子で、その先祖は渡辺綱にまで遡れるとする(「貞享異譜」)。

 大須賀出羽守といえば、榊原康政の子である大須賀忠政の称であるが、ここではその祖父である大須賀康高(通称は五郎左衛門尉)のことを指すとみてよいだろう。康高は高天神城攻めで最前線にいた人物である。天正2年の高天神城籠城戦では城主小笠原氏とともに籠城し、城を明け渡した後も横須賀城静岡県掛川市)を築いて高天神城の奪還をはかった。このとき、高天神城の籠城兵らは康高のもとに与力として家康から付けられ、「横須賀衆」と称されたという。つまり、地元の武士で徳川方に臣従する者は康高のもとに配されたことになる。昌元の父は須々木(静岡県牧之原市)の領司とあり、昌元は横須賀の出身ということであり、彼らも大須賀康高配下の横須賀衆の一翼を担っていたと推測できる。

 昌元にとって大須賀氏は軍事上の付属先であり、根本的には家康の家臣である。そのため、昌元が直政配下となったのは付属先が替わったにすぎない。伝承では、昌元は父の死去に伴う相続に際して大須賀氏の示す条件に満足しなかったため離反したと伝わるが、家康の意向により附属先が変更となっただけかもしれない。
 さらに想像をたくましくすれば、渡辺氏はその本拠が遠江国内であり、井伊氏と直接の関係はないにしろ、間に何名かを挟めばつながりや親戚関係があってもおかしくはない。井伊氏に付属する者を増やそうとして縁者を頼って探した結果、昌元が井伊氏に付属されることになった可能性もあるだろう。実は、昌元の嫡男である昌常の妻は中野直之の娘を迎えている。その兄弟は中野三信、松下一定、広瀬将房ら井伊氏重臣の家を継承した二代目であり、姉妹も奥山氏・松居氏・小野氏に嫁いでいる。つまり、渡辺氏も井伊氏重臣間の姻戚関係に入っており、単なる新参者とは位置づけられていないことがわかる。
 

f:id:hikonehistory:20200430024730p:plain


 
 昌元は直政の出陣した長久手の戦い、関ヶ原合戦に従軍し、さらに大坂両陣にも出陣しており、元和3年(1617)に死去した。
 慶長7年の分限帳では、渡辺九郎左衛門(昌元)は300石取であった。
 
 昌元には2人の男子がおり、昌元の没後、その家督は二男源次郎昌信が受け継いだ。嫡男助之進昌常は慶長8年(1603)に井伊直継の小姓に召し出されており、慶長15年に新知300石を拝領していたからである。しかし、昌信は若年にて死去したため、その家は継承されず断絶となった。そのため、『侍中由緒帳』では昌元を家の初代と数えるが、「貞享異譜」では昌常を別家の元祖としており、歴代の数え方が諸説ある。
 

参考文献

野田浩子『井伊直政 家康筆頭家臣への軌跡』(戎光祥出版、2017年)
 
 典拠史料
『侍中由緒帳』9巻
「貞享異譜」(彦根城博物館所蔵、未刊)
『新修彦根市史』6巻(彦根市、2002年)
 
 
 

井伊直政家臣列伝 その13 内山正辰 ~今村氏に次ぐ譜代家臣~ 

 内山正辰は「侍中由緒帳」によると、生国は信濃国内山であるが井伊谷井伊直盛に奉公しており、その筋目により直政が徳川家康に出仕した際、直政に召し抱えられた3人の中の一人という。また、「貞享異譜」では、天正3年(1575)に召し出され、直政の初陣となった芝原の戦いから関ヶ原合戦まで、直政の出陣12度に御供しており、関ヶ原後には近習を御免となり目付役を務めた。今村家に次ぐ譜代の家と記す。
 
 
 正辰の出身地とする信濃国内山とは、内山城のあった長野県佐久市内山であろう。
 
f:id:hikonehistory:20200414163746p:plain
 
 内山城は、天文15年(1546)頃に武田信玄の侵攻を受けて攻略され、城主大井氏は逃れたという。想像をたくましくすれば、正辰はこのような争乱から逃れるために信州を離れ、井伊谷にやってきて井伊直盛へ奉公したのかもしれない。直盛は永禄3年(1560)の桶狭間の合戦で討死しているので、正辰がそれまでに井伊谷に来ているのは間違いない。直盛没後、実質的に当主不在の井伊家のもと、正辰が奉公し続けていたかどうかはわからないが、直政が井伊家当主として家康に仕えることになると、正辰は直政の側近くに仕えて身の回りの世話をした。
 
  内山氏が今村氏に次ぐ譜代という意味は、正辰も今村正実も父祖以来井伊家に仕えており、井伊家当主となった直政にも引き続き仕えたということである。また、その職務内容も、当主の身の回りの世話をする近習という点で両名は同様の役にあった。
 「侍中由緒帳」には、正辰は直政出仕時に召し抱えられた3人のうちの1人とある。あと2人のうち1人が今村正実であるのは確実であろうが、もう一人は今村正躬(正実の弟)なのか、それとも小野朝之を指すのかはわからない。
 
 慶長7年(1602)の分限帳によると、九左衛門(正辰)は200石取であった。また、慶長12年の分限帳では、九左衛門は200石、嫡男の十太夫(正重)も200石取となっている。そのほか、正辰二男の正全は天正20年から直政の小姓を勤め、慶長4年には新知300石を下されている。慶長7年の分限帳で御供衆のうちに400石取として「内山忠三郎」とあるのが正全と思われる。正全本人は鉄砲足軽大将として大坂冬の陣に出陣したところ討死したが、その子孫の家は継承されている(内山次右衛門家)。
 

もう一つの内山家

 彦根藩士の内山家はほかに数系統あるが、その一つに同様の出自を持つ家がある。内山十郎右衛門政武は、井伊直孝上野国白井の領主であった時代に召し出され、その家老役を勤めたという。慶長13年に直孝が江戸城書院番頭を拝命して5000石を拝領した際のことと考えられる。政武の出自は、信州内山城主内山播磨守政光の嫡子とされている(「貞享異譜」)。正辰と政武の出身地が同じで、親戚などの関係があった可能性も考えられる。
 
 
参考文献
野田浩子『井伊直政 家康筆頭家臣への軌跡』(戎光祥出版、2017年)
 
 典拠史料
『侍中由緒帳』10巻
「侍中由緒帳」、「貞享異譜」(いずれも彦根城博物館所蔵、未刊)
『新修彦根市史』6巻(彦根市、2002年)
 
 
 

井伊直政家臣列伝 その12 今村正実・正躬 ~父祖以来の家人~ 

 今村正実・正躬兄弟も、最初期からの直政家臣である。直政の初陣とされる芝原の陣から御供していたと伝える。
 両名の父である今村藤七郎は、直政の父直親の少年期にその傍にいた人物として『井伊家伝記』で描かれている。
 『井伊家伝記』では、天文13年、直親の父直満が井伊家家老小野和泉守との確執により命を奪われると、直親も同様に命を狙われたため、今村藤七郎が直親を連れて信州市田へ身を隠したとする。つまり、藤七郎は直満の家に仕える家人であり、直親の亡命に同行して身の回りの世話をしていた人物であったことがわかる。

正実・正躬の直政への出仕

 年代的に考えて、藤七郎は少年の直親を守る年長者であり、正実・正躬兄弟は直親と同世代に近かったと思われる。そのため、正実・正躬も直親に仕えていた可能性が高い。直親の死去により出仕する先を失った両名は、別の家に出仕していたが、新野左馬介方で養育されていた幼少の直政のもとへしばしば見舞いに訪問していたという。これは、直政が成長した暁には直政の元へ仕えようとしてのことではないだろうか。天正3年、直政が徳川家康のもとへ出仕すると、両名はすぐに直政に仕えている。「貞享異譜」には、正実は直政が龍潭寺にいるころから奉公していた、とあるため、直政が家康に仕えて独り立ちする前から仕えていたかもしれない。正実は江戸時代の職制で言えば側役として仕えており、直政が井伊氏の当主として処遇されることとなって以来、正実は父以来の縁で直政の側に仕えて身の回りの世話をしたと考えられる。
 当時、領主でもある武家のもとには、その家政を支える家人がいた。出陣の際には主君が乗る馬を引き、道具類を調えるなど、その暮らしには欠かせなかった。今村氏は少なくとも2代にわたり、井伊直満・直親・直政の家に家人として仕える関係であった。
 
 慶長7年の分限帳では、正実・正躬ともに400石取である。また、「今村彦九郎」が300石とある。この時出仕して小姓を勤めていた正実の嫡男正盛のことであろう。正実は慶長11年に死去し、正盛は父の知行よりも多い600石を相続している。この600石は正実の遺領に自身の領知から200石を加えたものと考えれば納得できる。 

今村氏の由緒

 『井伊家伝記』では、藤七郎の出自を遠江の名族勝間田氏とし、直親が信州に落ち行く際に苗字を今村と改めたとする。また、直親が信州へ落ち延びる途中、正月元日に藤七郎が吸い物を差し上げて祝った吉例により、今(江戸時代中期)になっても元日の給仕は今村家が勤めると伝える。
 今村氏自身、先祖が勝間田氏であると称しているが、井伊氏に出仕していた時点では侍身分(=領主身分)ではないと考えられる。
 また、正月に吸い物を差し上げる慣例は、江戸時代中期以降の井伊家当主の日常を記した日記類からは確認できなかった。記録されていないところで執り行われている可能性は残されるが、今村氏の由緒書類(「侍中由緒帳」「貞享異譜」など)にも記録はなく、今のところ実行されていた裏付けはとれていない。
 
参考文献
野田浩子『井伊直政 家康筆頭家臣への軌跡』(戎光祥出版、2017年)
 
 典拠史料
『侍中由緒帳』3巻、7巻
「貞享異譜」、「御侍中名寄先祖付帳」(いずれも彦根城博物館所蔵、未刊)
『新修彦根市史』6巻(彦根市、2002年)
 
 
 

井伊直政家臣列伝 その11 片桐正直 ~井伊一門の伊平氏~ 

 片桐正直は、その名から一見したところではわからないが、井伊氏一族で初期から直政家臣となった者である。元は伊平氏で、権之丞、のち権右衛門と称した。

平氏

 伊平氏引佐郡伊平を本拠とする一族で、系譜上では井伊氏の一門となっている。井伊氏の系図類では、始祖の共保からかぞえて8代(別の数え方もあり)泰直の弟に伊平直時が見える。史料上「井平」と表記されることもあるが、同じ一族である。
 

f:id:hikonehistory:20200325173958p:plain

 

 戦国時代には、井伊直平(直政の曾祖父)の近くに伊平河内守がいたことが諸史料からうかがえる。「井伊直平公御一代記」には、井伊一騎の井平河内守が今川と北条との合戦に出陣して討死したと記す。また、「井平実記」には、井平河内守直種は直平の末子で、直種の息子の弥三郎は直政のもとで小田原陣に出陣し、笹曲輪の夜襲で討死して家は途絶えたとある。いずれも『引佐町史料』に収録されている史料であり、地元で言い伝えられたものである。そのほか、幕末に長野義言が井伊谷周辺で史料採訪して作成した系図には、井伊直平の妻は伊平河内守安直の娘、その息子の直宗の妻は伊平河内守直卿の娘と記す。これらの関係すべてを信用すると直平と伊平河内守の姻戚関係が深すぎるため、何らかの誤認があった可能性も考えられるが、関係が深かったことは間違いないだろう。

片桐正直

 正直の履歴として、井伊家連枝で御家門筋であり、元は伊平氏を称していたということが「貞享異譜」に記されている。このことより、正直も河内守と同様、伊平を本拠とする伊平氏の一族であると判断できる。ただし、河内守との具体的な親族関係はわからない。
 正直が直政のもとではじめて出陣したのが天正10年(1582)の若神子陣ということであり、その年までに直政の配下に入ったと考えられる。側役を勤め、その後の直政の出陣にも御供したが、関ヶ原合戦時には高崎城の留守を勤めた。知行は最終的に300石取という。
 正直は慶長15年(1610)に死去し、孫の正行が11才で2代目を継承する。正行の父(正直の息子)は幕府の代官を務めていたという。ただし、慶長7年の分限帳では、片桐権右衛門は「御扶持取衆、但隠居衆共」として名が挙がっており、片桐松千世が300石取であった。このことから、慶長7年段階で正直は隠居し、跡継ぎの松千世が300石を継承したが、松千世は正直に先だって死去したため、正直から孫の正行へ家督が継承されたのであろう。正行はもともと菅沼次郎右衛門の元にいたことや、半知の150石のみ相続が許されたことも、早くから予定されていた家督継承でなかったことをうかがわせる。

その他の伊平氏

 直政家臣には、伊平姓を称していた者も確認できる。慶長7年の分限帳には、「伊平弥四郎 150石」、「伊平庄左衛門 100石」、慶長12年の分限帳には「伊平四郎兵衛 150石」が記されている。また、慶長19年、井伊直継に付けられて上野国安中へ移った家臣92名の中に「井平少三郎」がいる。弥四郎と庄左衛門は別家か当主と惣領の関係かは不明であるが、彼らが四郎兵衛、少三郎と改称したものと思われる。つまり、直継の代には、伊平氏は1~2家あったことがわかる。ただし、元和年中の安中分限帳には伊平氏・井平氏の名は確認できない。井伊家を去ったか、または改姓したと考えられるが、史料が確認できないためそれ以上は不詳である。 

平氏の再興

 幕末頃、伊平氏名跡が再興されている。井伊直弼の息子である直達は伊平保三郎と称したと系図にある。井伊直中の子や孫により新野、貫名といった戦国時代の井伊氏親族の家が再興されたのと同様と考えられる。
 

  

参考文献
野田浩子『井伊直政 家康筆頭家臣への軌跡』(戎光祥出版、2017年)
 
典拠史料
「貞享異譜」、「御侍中名寄先祖付帳」(いずれも彦根城博物館所蔵、未刊)
『新修彦根市史』6巻(彦根市、2002年)
井伊直平公御一代記」(『引佐町史料 第1集』)
「井平実記」(『引佐町史料 第2集』)

井伊直政家臣列伝 その10 酒居忠常 ~もう一人の従兄弟~ 

 前回の奥山朝忠が直政にとって母方の従兄弟であったのに対し、父方の従兄弟も直政の側近くにいた。酒井忠常である。

 
  忠常は酒井大膳亮忠敏と井伊直満の娘を父母にもつ。つまり、直政の父直親と忠常の母親が兄妹であり、直政と忠常は従兄弟という関係にあった。
 「貞享異譜」には、酒井氏は遠江の出身で井伊家の「御一家筋」と記しており、酒井氏が井伊氏の親族という関係にあると当時から認識されていた。その具体的な関係については、由緒書類には記されていない。ただし、幕末に長野義言が遠江へ史料採訪に行って集めた中に、
 ・井伊直平の再内室が「遠江初倉住人酒井但馬守忠雄女」  
 ・奥山村に伝わった井伊氏系図に、井伊直親の弟直方は駿河へ養子に行き酒井三郎右衛門を称する、と記す
とある。別の史料には直方は直満の弟ともあり、詳細は不正確かもしれないが、
 ・酒井氏は井伊氏と婚姻関係を重ねている一族であった
 ・酒井氏の出身地として遠江初倉(静岡県島田市)という説がある
という程度なら間違いないだろう。
 
 忠常は、天正7年(1579)に井伊谷にて「当分御客分」として直政のもとに召し寄せられ、天龍河原の陣以降、直政の出馬に御供したという。直政が家康に召し出されたのが天正3年のことであり、比較的早い段階から直政の配下にあった一人である。もう一人の直政従兄弟の奥山朝忠も当初、客分として直政配下に入っており、朝忠と忠常は直政のもとで同様の立場にあったと思われる。忠常は寛永10年(1633)に死去するまで井伊家に仕え、直政、直継、直孝の三代にわたり定奥詰役を務めた(「貞享異譜」)。
 
 直政が徳川へ出仕して数年以内の頃に酒井三郎右衛門へ宛てた書状がある。現物は確認できないが、明治時代には彦根藩士酒居氏が所蔵していたもので、写しが伝わる(井伊直政 家康筆頭家臣への軌跡』に本文を掲載)。そこには、「私は親の親類が一人もいないので、内々に頼み入る覚悟です」とある。井伊氏の中に頼れる親族が少ないため、親族である酒井氏を頼りにしていたことがうかがえる。
 
 忠常と同時期に直政に仕えた人物として酒井又左衛門忠政がいる。父は美作守忠員という。忠常との関係は明示されていないが、父同士が兄弟であろうか。近い親族で政治的な行動を共にし、一緒に直政配下に入ったと思われる。
 
 慶長7年(1602)の分限帳では、酒居三郎兵衛(忠常)が300石取、酒居又左衛門(忠政)が250石取、そのほか酒居右衛門次と酒居三郎右衛門がそれぞれ200石取として名が挙がっている。なお、苗字の漢字を「酒居」と改めているが、これは井伊家の苗字にある「井」の字を使うことを憚ったためである。
 
参考文献
野田浩子『井伊直政 家康筆頭家臣への軌跡』(戎光祥出版、2017年)
 
 典拠史料
『侍中由緒帳』4巻、13巻
「貞享異譜」(彦根城博物館所蔵、未刊)
『新修彦根市史』6巻(彦根市、2002年)

井伊直政家臣列伝 その9 奥山朝忠 ~似た境遇の従兄弟~ 

奥山一族

 奥山氏は、井伊谷より北西に約5㎞、奥山の地に拠点を置く武家である。
 系図上は井伊氏と同族となっている。井伊氏の伝説の「元祖」共保からかぞえて5代目の良直、俊直、政直の兄弟がそれぞれ井伊氏、赤佐氏、貫名氏へと分立し、さらに赤佐氏から奥山氏が分立したとある。
 「したとある」と表記したのは、系図ではそのようになっているということで、それが史実かどうかは別問題である。

 史実としては、室町時代の応安4年(1371)、奥山六郎次郎朝藤によって奥山の地に方広寺が建立されており、この時までに奥山氏はこの地で一定の勢力をもっていたことがわかる。また、編纂物ではあるが「今川家譜」「今川記」などには、応安3年に九州探題に命じられた今川貞世が配下の侍を引き連れて九州へ向かったが、その中に奥山氏や井伊氏が登場する。貞世の父今川範国は、南北朝の争乱期、足利尊氏に味方して各
地に出兵し、駿河遠江の守護を命じられており、その際、在地の武士を軍事的に組織化して配下に入れた。その関係が貞世の時代にも引き継がれたと考えられる。
 このように、南北朝期から室町時代にかけて、井伊氏と奥山氏は近隣で同様の立場にある領主同士という関係にあったといえるだろう。

 

f:id:hikonehistory:20200228025619p:plain

 

桶狭間で井伊氏と運命を共にする

 戦国時代、遠江が今川氏の配下にあった時代には、奥山氏は井伊氏をトップとする軍事組織の中にあったようである。
 桶狭間の戦い井伊直盛とともに討死した者の中に
  奥山六郎次郎、奥山彦市郎(彦市とも)、奥山彦五郎
の名が見える(「井伊年譜」)。このことから、奥山氏は「井伊衆」に与力として加わり出陣していたことがわかる。
 
 桶狭間で討死した六郎次郎が、井伊直政の家臣となる奥山朝忠の父親という。ただし、このあたりの系図は諸説あり、
  親朝 ― 朝利 ― 親秀 ― 朝忠 
と、朝忠を親朝の曾孫とする系図がいくつかある。『侍中由緒帳』所収系図もこれを採用している。しかし、直政の母(親朝の娘)と親秀を兄弟とする系図も多い。以上より推測すると、
  親朝 ─  朝利
     ├  親秀  ― 朝忠
          └     直政母
と、朝利と親秀は兄弟と考えるのがもっとも整合するのではないだろうか。
 朝忠は父が桶狭間で討死した後の永禄4年1月に出生したともいう。また、『侍中由緒帳』は16歳で直政に召し出されたという。直政が永禄4年生まれで15歳で家康に召し出されていることから、朝忠は直政とほぼ同年齢であったことがわかる。さらに、出生まもなく(または誕生前)に城主である父を失い、母や譜代の家臣に守られて成長したということであり、直政と類似した境遇で成長したのであった。
 

一波乱あった奥山朝忠の出仕

 朝忠は、直政が家康へ出仕してまもなく、直政へ仕えたという。しかしその出仕には一波乱あったようである。


 直政が父方の親族である酒井三郎右衛門に宛てた書状(『井伊直政―家康筆頭家臣への軌跡―』に読み下しと現代語訳を掲載)には、直政が酒井に対して、立ち寄ってもらい対面したいと思っているが「奥山年寄女」がそれを妨害することを吹聴しているらしい、とある。他の史料でも朝忠は実母と縁を切って直政のもとに出仕したという(「御侍中名寄先祖付帳」)ことなので、直政と奥山の母らとの間に何らかの対立があったことが窺える。その要因は史料からは読み取ることはできないが、朝忠も奥山城主の跡継ぎであり、大名の家臣になれる家柄であったにもかかわらず、直政のみが家康の直臣となり、息子がその配下に入ることに反対したのかもしれない。

 

井伊氏親族の家柄

 朝忠が直政の配下に入ったのは、奥山氏が直政の母の一族であることと無関係ではないだろう。
  奥山氏の系図には、直政の母の妹(直政からみると叔母)に
  中野越後守直之室
  小野玄蕃
  西郷伊与守正員室
  鈴木石見守室
  菅沼淡路守室
  橋本四方助室
らが記されている。中野・小野・鈴木ら「井伊谷七人衆」などと婚姻関係を結び、「井伊衆」中核メンバーで結束を図っていたことが読み取れる。
 一方、西郷正員は天正10年(1582)頃に家康によって直政に付けられた人物である。正員は元文元年(1532)生まれで永禄12年にすでに正室を亡くしている。直政に付けられて以降、つながりを強固なものとする政略的な目的で、その親族を後妻に迎えたことがわかる。
 

諸系統の奥山氏

 そのほか、系図では具体的な関係はわからない者もいるが、同族の者が数名、井伊氏家臣となっている。

 慶長7年の分限帳では、奥山藤十郎(500石)、奥山源十郎(150石)がいる。系図では、直政母の次兄の孫(=直政の従兄弟の子)に藤十郎朝直がいる。
 源十郎は、系図では確認できない。慶長12年の分限帳では見当たらなくなっており、代わりに源太右衛門(300石)がいる。改名したのであろうか。
 両名は元和元年の安中分限帳に出てきており、そこでは藤十郎は250石、源太右衛門は300石である。掛川と与板の分限帳にも奥山氏の名はあり、両名の家系が継承されたと思われる。
 
 代々彦根藩士として継続した家としては、奥山伝右衛門家がある。初代伝右衛門の父奥山左近は井伊谷の出身で家康より本知の証文を受け取っているという。一方で初代伝右衛門は、井伊家に仕える前に真田昌幸に仕えていたという(「御侍中名寄先祖付帳」)。井伊家へ出仕したのは慶長6年とも直継の代ともいうので、昌幸が関ヶ原合戦で敗れて流罪となった後、親族を頼って井伊家に仕えたのであろう。
 
参考文献
野田浩子『井伊直政 家康筆頭家臣への軌跡』(戎光祥出版、2017年)
 『彦根城博物館古文書調査報告書5 西郷藤左衛門家文書他調査報告書』
 
 典拠史料
『侍中由緒帳』3巻、7巻
「貞享異譜」、「御侍中名寄先祖付帳」(いずれも彦根城博物館所蔵、未刊)
『新修彦根市史』6巻(彦根市、2002年)

井伊直政家臣列伝 その8 近藤秀用 ~「井伊谷三人衆」から井伊谷の領主へ~ 

近藤康用(1517生~1588没)

 
 近藤氏は三河国宇利を本拠としていた。「寛政重修諸家譜」には康用の祖父である満用から記載されており、その墓所は宇利村にあったことから、その段階で宇利に拠点を置いていたことがわかる。
 

f:id:hikonehistory:20200117141919p:plain

 宇利の周辺には「井伊谷三人衆」として行動を共にすることになる鈴木氏・菅沼氏らがおり、彼らと同様、今川の三河侵攻によって今川氏の配下に入った。しかし、桶狭間合戦後に徳川家康が離反したのにあわせ、今川から離反しようとしたらしく、永禄4年(1561)に吉田の鈴木重勝が近藤氏を今川方の味方につける働きをしている。
 鈴木氏と近藤氏は隣接する地域であり関係が深く、親戚関係もあった。両氏とも今川配下として井伊衆の与力に組み入れられたが、鈴木氏の方が井伊氏に近い存在であり、「三人衆」の中で近藤氏は井伊氏ともっとも浅い関係であったようだ。
 それでも、永禄11年12月からの家康による遠江進出では、康用は菅沼忠久鈴木重時とともに家康に味方し、井伊谷周辺の地理を伝えて攻略を助けた。
 その後、甲斐の武田氏が奥三河まで攻め込み、宇利城を囲んだ際には、息子の秀用が敵地へ兵を向けて刈田し、城兵が少ないところを秀用が防戦したとして、家康から感状を下され、あわせて家康から名前の一文字を下されて「康用」と名乗ったという。

近藤秀用(1547生~1613没)

 近藤氏が徳川配下に入った頃、当主康用は高齢で、実戦では息子の秀用が兵を率いた。元亀3年に武田家の山県昌景井伊谷方面に出張してきた際には、地元でもあり菅沼・鈴木らとともに防戦している。長篠の合戦では、酒井忠次鳶巣城を攻める際に秀用が現地の案内をして先手に加わっている。天正10年の若神子の陣では、大久保忠世の隊に属して密かに険しい山を越えて敵を背後から討つなどの活躍をしている。
 このように、徳川と武田との対立では本拠地周辺が衝突の最前線であったため戦場で活躍していたが、天正12年の長久手の合戦の直前に、井伊谷三人衆がまとめて井伊直政隊に属するよう家康から命じられた。
 長久手合戦では、井伊隊は家康隊の旗本先鋒として進軍し、敵の池田恒興森長可らを討ち取るが、この大勝利には近藤秀用ら戦術慣れした者の判断があった。
 家康隊が池田隊らを追い、富士ヶ嶺へ本陣を置くと、まず先鋒の井伊隊が頭狭間へ向かって敵方へ攻めかかった。その際、直政は敵へ正面から攻めかかろうとしたが、近藤らが南の山の中腹を廻って背後から攻めるよう進言した。直政はこれを承知しなかったため、近藤が直政の馬の口を向けてルートを変更させたという。
 近藤は地形をみてとっさの判断で、背後に回り込んで高い位置から攻め降りるよう軍勢を誘導した。合戦経験が豊富な証しであろう。
 
  長久手合戦での井伊隊の動きはこちらから
 
 秀用はその後も上田城攻め、小田原の陣、九戸の陣にいずれも出陣して活躍するが、その後直政配下からはずれて徳川直臣となることを請い、直政のもとを離れたという。息子の季用は、後述するように、奥州出兵に際して家康の直参に取り立てられており、秀用も同様の処遇を求めたのであろうか。しかし、直参への希望は長らく認められず、季用のもとに寓居することとなった。
 秀用は直政存命中はどこへの出仕も認められず、直政没後になり秀忠から召し出されて上野に5000石の領知を得て鉄砲足軽50人組を預けられた。慶長19年には小田原城番となり、大坂両陣にも出陣する。その後、早世した季用が領していた井伊谷周辺の領地を支配することとなり、
秀用の没後はその子孫へと分知される。最終的に、井伊谷とその周辺地域は秀用の子孫である旗本5家の近藤氏により支配された。
 
 近藤氏は、他の二氏にくらべて井伊氏とのつながりが薄かったことや、単独での戦功も挙げていたことから、秀用は「井伊谷三人衆」として井伊隊に付けられるよりも、直臣となることを望んだのであろう。当時は処遇に不満を持ち仕官先を変えることはしばしばあり、秀用も軍功の評価や拝領した知行高に納得できず、直政のもとを去ることを希望したのかもしれない。ただし、秀用はもともと直政と主従関係を結んでいたのではなく、家康から直政に付けられたという関係にあったため、秀用の希望は各侍をどの備えに配属するかという主君の軍事編成権を侵すことになる。そのため近藤の望みは認められず、息子の元に預けられるという処分をうけたのであろう。
 

近藤季用(1573生~1612没)

 秀用の嫡男季用は、当初井伊直政配下にあったが、のちに徳川直臣となる。それは、小田原の陣での戦功が認められてのことと思われる。
 天正18年(1590)の小田原陣では、豊臣方諸大名が小田原城を取り囲み、ほとんど戦闘が行なわれなかったが、唯一の戦闘といえるのが6月22日の篠曲輪攻めであった。篠曲輪は小田原城外郭の山王口の外に築かれた出丸である。井伊隊はそこに夜襲をかけて篠曲輪を落とし、敵の足軽大将小屋甚内を討ち取った。初陣であった秀用は長野業実とともに一番乗りの武功をあげたとして、秀吉の本陣に召し出され、南部黒の馬と紅裏の胴服を褒賞として拝領したという。(「井伊年譜」)
 
  小田原の陣での井伊隊の動きはこちらから

hikonehistory.hatenablog.com


 この武功の影響であろうか、季用は奥州出兵に際して家康直臣となり、朝鮮出兵では小姓として家康に同行した。関ヶ原合戦でも徒頭として家康に供奉した。合戦後、井伊谷に3500石の領知を得た。
 季用は慶長17年に死去したため、井伊谷の支配は父秀用に任される。その後、旗本近藤氏は季用の嫡男の家系(近藤登助家)など5家にわかれ、井伊谷周辺地域などを治めた。
 
 
 参考文献
野田浩子『井伊直政 家康筆頭家臣への軌跡』(戎光祥出版、2017年)
 
典拠史料
「井伊年譜」
寛政重修諸家譜