彦根歴史研究の部屋

彦根や井伊家の歴史について、これまで発表してきた私見の紹介・補足説明・修正など。

史料に登場する井伊直政の足跡 第4回小田原への道「箱根から宮城野」

天正18年(1590)、豊臣政権は臣従した諸大名に小田原への出陣を命じ、強大な軍事力で小田原城を取り囲んで北条氏を滅ぼした。


このとき、徳川家康にも出陣が命じられ、井伊直政も部隊を率いて出陣した。徳川勢は駿府から東海道を東に向かい、長久保城(静岡県長泉町)で秀吉を迎えて、そこから箱根の山越えをして小田原へ向かった。この時の井伊隊の進軍ルートとして、次のような逸話がある。

このときの先手は榊原隊であったが、直政は家臣の三浦安久を呼び、間道を知らないかと尋ねた。三浦は駿河の出身であり、この地の地理に詳しいと考えたためである。そこで三浦は、細道ではあるが人馬が往還できる道があり、箱根二子山の北より険隘な道を進むと小田原城の北、宮城野という所へ出ると答えた。これにより、直政は三浦に案内役を命じてこの道を進み、榊原隊より一日先に宮城野に到着したという(「井伊年譜」)。
(『井伊直政 家康筆頭家臣への軌跡』119頁)

 

箱根や小田原周辺の地理に詳しくないとどこを通ったのかわからないので、地図で確認し、先ごろ箱根に行ってみた。やはり現地に行くと、どのルートを通ったのか理解しやすい。

 

「井伊年譜」には、直政が三浦安久を呼んでルートを検討したのは、初音原であったと記されている。そこから箱根方面へ向かい、箱根二子山から北へのルートをとったという。

まず「初音原」について。

「初音台」という地名が三島市にあり、東海道が箱根方面の山道に入る手前に位置している。山越えの準備をするのにふさわしい場所である。

 


ここから東海道を東へ進むと、山中城、箱根峠、そこから須雲川沿いに下ると箱根湯本へ至る。この道沿いには北条氏の菩提寺である早雲寺もある。榊原康政隊は箱根峠から早雲寺方面へほぼ直線で結ばれた東海道を通って小田原まで進んだのであろう。

 

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 北条氏の菩提寺 早雲寺

 

それに対し、井伊隊は二子山の北から宮城野へと出たとされている。

二子山とは、箱根関所から北東方面に見える上二子山と下二子山の二つの峰からなる山のこと。そして、宮城野とは、強羅や宮ノ下の北側に位置する。
つまり、井伊隊は箱根峠から芦ノ湖の東岸、箱根関所のある道を通り、二子山の西側を通る道を進んで小涌谷方面へ向かうルートをとったと考えられる。

そうすると、最終目的地が宮城野というのは疑問に感じ、別の史料を見たところ、「井家新譜」には「小田原城北宮野口」に着いたとある。宮野口を宮城野と誤解(あるいは写し間違い)したのだろうかと思い、次に小田原城周辺で「宮野口」を探したが、見当たらない。「久野口」はあったが・・・。これも誤認だろうか。

最終的に徳川が陣を敷いたのは小田原城の北東側、山王川の対岸であった。

 

榊原隊を追い越すことをめざした、とか、三浦安久を呼んで間道を尋ねた、などはいかにも逸話っぽいので信用するに足りないが、各部隊が分散して目的地をめざすのは不自然ではないので、井伊隊はこのルートを通って小田原に向かったと考えてよいだろう。

 

 

 

 

 

史料に登場する井伊直政の足跡 第3回井伊隊はじめての出陣「高遠口」

久しぶりの更新となります。「史料に登場する井伊直政の足跡」第3弾です。

今回は、井伊隊がはじめて家康から出陣を命じられた「高遠口」の地を探します。

 

 天正11年(1583)正月12日付で、徳川家康から井伊直政へ宛てた直筆書状が残っている。そこには
「急ぎ飛脚をもって申します。高遠口へ押さえの軍勢を遣わしました。その方の同心の物主を遣わすようにと申したかどうか忘れたので、飛脚で伝えます。申していなければ清三郎か誰かを遣わすように」
と記されている。

徳川家康自筆書状 井伊直政宛 | 彦根城博物館|

 

 家康は、前年の天正10年に甲斐に兵を出し、北条氏との戦いに勝利して甲斐を手中に収めていた。年末に甲斐を出立して浜松に戻っており、浜松でこの書状を書いたと思われる。
 井伊直政は、徳川の甲斐出陣の際、22歳にして初めて一人前の仕事を命じられる。徳川と北条が約100日間も兵を対峙させている間、地元の武田旧臣を徳川に帰属させる交渉を担当し、北条との講和協議に際しては使者を務めた。このような活躍の場が与えられ、直政は家康の期待に応える働きを見せた。そのため、武田旧領と旧臣が徳川に入った段階で、家康は武田旧臣のうちの4部隊や、元から井伊氏の軍事指揮下にあった西遠江武家らをまとめて直政の配下に付けて、直政を侍大将に取り立てた。
 この書状で出てくる「清三郎」とは、木俣守勝のことである。木俣は家康家臣であったが、天正10年頃、直政を補佐するようにと付けられた。木俣は伊賀越えにも同行し、武田旧臣の帰属交渉に関わっているので、それ以前に直政のもとに付けられた可能性が高い。直政が侍大将となると、木俣に武田旧臣らを統率する役割が与えられた。この書状にある「同心の物主」がそれに該当するといってよいだろう。

 同心とは、戦国時代の大名家臣団にあって、いわゆる「寄親寄子」の「寄子」と同様の立場にある。寄親という軍団を率いる重臣(ここでは井伊直政)の配下にあり、軍事上も政治的にも指揮下に入った。つまり、井伊の同心とは、形式上は家康の家臣であるが、実際には直政の指揮命令下にあった者を指す。直政を侍大将として附属させた武田旧臣や菅沼・鈴木・近藤の「井伊谷三人衆」も同心に相当する。
 
 この文書では、家康は木俣が同心を統率して「高遠口」に兵を出すよう命令している。
 では「高遠口」とはどこか。高遠とは信州の高遠城であることはすぐにわかるが、「高遠口」は地名辞典を調べても出てこなかった。この文書を最初に解釈したときには、三州街道から高遠城方面へ向かう入り口あたりだろうかと考えていた。

 ところが、天正11年初頭時点の徳川勢の動きを確認しようとして、平山優氏の『武田遺領をめぐる動乱と秀吉の野望』(戎光祥出版、2011年)を読んでいると、井伊隊が実際に出陣していることが別の史料に記されているという。
 
 天正10年8月から10月にかけて、徳川と北条が甲斐で対立していたが、その間、同じ武田旧領であった信濃では、地元の勢力が徳川・北条らと味方する駆け引きをしつつ、支配領域の拡大を狙っていた。その一人に小笠原氏がいる。小笠原長時信濃守護の家柄の戦国大名であったが、武田信玄に攻め込まれて滅ぼされてしまった。長時の3男である小笠原貞慶は、武田と織田信長の滅亡による混乱に乗じて信濃に戻り、旧領を回復した。貞慶が信濃に入ったときには家康の支援があったが、北条勢が信濃に兵を進めて周囲に北条の勢力が強くなる中で、小笠原氏も徳川から離反して北条に味方することを決めた。


 徳川と北条の対立が一段落した頃、信濃では小笠原氏と対立する保科正直・諏訪頼忠が徳川に帰属したため、天正11年正月、家康は保科・諏訪への援軍を信濃へ送った。冒頭の直政に宛てた書状も、この派兵に関わるものと考えられる。
 実際、直政を大将とした甲州の兵と信州伊奈・諏訪の兵が出陣し、栗馬場・熊井原(塩尻市)に備えを立て、それに対して小笠原氏側は桔梗原(松本市)に物見を出したと、小笠原氏側の史料に記されている(「笠系大成」「岩岡家記」)。
 そうであれば、直政隊は甲府から諏訪湖に向かう街道を進んだのであろう。この街道は、江戸時代には甲州街道の一部で、現代では中央自動車道が通っている。このように考えれば、「高遠口」は甲州街道の茅野あたりで高遠方面へと杖突街道が分岐する地点あたりのことではないだろうか。

 

国道152号線が杖突街道。南下すると高遠に至る。 

 

もっとも、実際に井伊隊が兵を進めた地は、高遠口からさらに進んだ栗馬場・熊井原となる。栗馬場は、現行地名ではわからなかったが、熊井は塩尻市に北熊井城跡・南熊井城跡があり、このあたりと特定できる。 

 

追記 数年前に高遠から杖突峠を越えて諏訪方面に行ったことがありますが、そのときは、高遠口は探し出せず、杖突峠方面とは思い至りませんでした。わかっていれば写真を撮ったのに。そのとき撮った諏訪大社の写真をあげておきます。

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史料に登場する井伊直政の足跡 第2回直政初陣の地「芝原」

「史料に登場する井伊直政の足跡」第2弾です。

今回は、直政初陣の「芝原合戦」の地を探します。

 

 直政の初陣は、天正4年(1576)のことで、芝原合戦とされているのは『井伊直政 家康筆頭家臣の軌跡』でも触れた。
「井伊家伝記」や「井伊年譜」には、芝原合戦の最中、家康が陣営で休息していたところ、夜中に敵の間諜(スパイ)が忍び込んできたのを直政が見つけて討ち取り、褒美として領地が加増されたとする。
 そこで、芝原は現在のどこにあたるのかを探してみたが、地名辞典を見ても芝原という地名は出てこない。

 この頃の戦況から、おおよその場所は絞り込める。
 この頃、徳川家康は甲斐の武田勝頼と対立していた。武田は信玄の頃に三河遠江にまで進出していたが、天正3年の長篠合戦に敗れる。それでも遠江高天神城は死守していたので、家康は高天神城を奪おうとして、周辺に城を築いて取り囲んで孤立させようとした。武田方はたびたび遠江に出陣し、それを聞いた徳川方も応戦しようと出陣している。
 天正4年春、武田方は高天神城に兵糧を入れようとして勝頼みずから出陣して高天神城に入った。それを聞いた家康は、高天神城から約6㎞西の横須賀城に出陣し、その後、横須賀城から4・5町北の丸山に陣を敷いた。すると、勝頼はそれ以上兵を進められず退いたので、家康は芝原に兵を移したという。
 
 このように考えると、芝原は高天神城の周辺に位置するはずだが、現行地名からは特定できない。芝原という地名は、江戸時代に著された「御年譜」「浜松御在城記」「武徳編年集成」などに登場するため、井伊家だけが誤記・誤認したわけではなさそうである。この周辺には、笠原荘という平安時代からの荘園が菊川の河口周辺にあり、武田が浜側から高天神に入ったルート上に位置する。そのため、笠原が芝原に誤認された可能性も考えられるが、思いつきの域を超えるものではない。

 

 

 

 なお、直政の初陣が芝原合戦であったかどうかは、より詳細に検討しなければならない。別の説も存在しているからである。
 天正6年3月、これも武田勝頼に対するため、家康が駿河田中城を攻撃したのが直政の初陣で、この時菅沼定政が初召の鎧を着けさせたという逸話が「大三川志」「武徳編年集成」に記されている。
 
 どちらが真実かを探るのは困難だろう。それよりも、後世になって直政の功績をまとめ、顕彰しようとする中で、初陣での活躍が加えられたと考える方がいいのではないか。天正4年の芝原合戦での初陣というのも、直政は天正3年に家康に出仕しているので、出仕後はじめて家康が出陣した芝原合戦で直政が活躍したというエピソードが付け加えられたのかもしれない。

 他にも合戦での活躍エピソードが加えられた可能性が高いものがある。『寛政重修諸家譜』には、天正9年に高天神城を攻め落とした際、直政が間諜(スパイ)をもって用水を切り落としたので速やかに落城した、また、大手坂内にある与左衛門曲輪において功績をあげた、とあるが、この話は江戸時代初期以来の直政の系譜・事績書には見当たらず、享和元年(1800)、彦根藩が幕府へ提出した「井伊家系譜」に初めて出てくる。この高天神合戦は徳川にとって大事な戦いであり、いくつもの記録があるが、それらにはこの直政のエピソードは記されていない。

 

 天正9年に高天神城を勝ち取るまで、家康は武田に対して臨戦態勢で臨んでおり、家康は何度も出陣し、直政もそれに御供したのは確かだろう。何らかの功績を挙げて褒美をもらったこともあっただろう。ただ、江戸時代には、家康をはじめ武将たちの活躍は史実をベースとしながら創作を加えた軍記物が多く創られ、流布している。そういった物語が系譜のなかに取り込まれた可能性が高い。

 華々しい活躍ほど、「歴史小説」と見た方がいいのかもしれない。

 

 

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 高天神城

 

 

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横須賀城

 

史料に登場する井伊直政の足跡 第1回「大鳥居土佐屋敷」を探す

 井伊直政の事績を調べ、いつどこにいたのかという行動ルートを史料から追っていったところ、すぐに判明したこともありますが、場所が特定しづらい場合もありました。場所がわかっても、なぜこの場所なのか? と考えが広がることもあります。そういった場合、現地に行くと、なるほど、と納得できたこともありました。
 そこで「史料に登場する井伊直政の足跡」をテーマとして、史料上で直政が出かけたとされている場所を探しに出かけ、実際に現地を訪れて考えたこと、わかったことを紹介します。

 

第1回は、次の文章で示した「大鳥居土佐屋敷」を探します。

 

大鳥居氏の由緒書(「侍中由緒帳」)によると、直政は大鳥居満氏の屋敷を陣場として滞在し、その縁で直政から仕えるように言われたが、満氏は老齢のため、息子の満経と満利が直政に仕えたという。
 (野田浩子『井伊直政 家康筆頭家臣の軌跡』57ページ)

 

 まず、この文章の典拠である「侍中由緒帳」の表記を確認しておこう。
 大鳥居家初代の大鳥居土佐(諱は満氏)は、生国は近江で、その後甲州に行って武田信玄に奉公したが、勝頼の代に暇を得て、その後も甲州国内にいたところ、「直政様右の大鳥居土佐屋鋪御陣場に遊ばされ、その節御奉公をも仕上げ申し候由緒をもって、御帰陣後召し出さるべきの旨仰せ付けられ候えども、土佐年まかり寄り候につき、忰大鳥居玄蕃・同左吉召し出され候」
 (「 」内は読み下し文)

 

 この史料によると、井伊直政甲州に滞在中、大鳥居土佐の屋敷を陣場として滞在したことがあったという。そこで、その屋敷の場所と直政の滞在時期を考えていきたい。

 

 大鳥居屋敷の場所については、手がかりとなる資料が2つある。

 1つは地名。『侍中由緒帳』の解説によると、大鳥居家に伝わった系図には大鳥居土佐は甲斐国大鳥居村に居住していたと記されているという。もっとも、系図や「侍中由緒帳」では、大鳥居氏の名字の地は近江栗太郡大鳥井で、近江から甲斐に移ったとするが、これは佐々木源氏の末裔と称するために創られたものと見られる。実際には甲斐の大鳥居村が名字の地であろう。
 甲斐国内の大鳥居村を地名辞典で調べると、八代郡に次の2ヶ所がみつかった。
  ・市川三郷町下大鳥居(旧市川大門町
  ・中央市大鳥居(旧豊富村
 戦国時代、近くには駿河から甲府に抜ける街道が通っており、市川大門宿が地域の中心地であった。どちらの大鳥居村も、市川大門宿の近郊に位置している。

 もう1つの手がかりは、天正10年(1582)11月に大鳥居土佐宛に出された徳川家康朱印状である(『井伊直政 家康筆頭家臣への軌跡』56ページに写し(彦根城博物館所蔵)の図版を掲載)。これは徳川の配下に入るにあたって従来の領地や権限を認めた本領安堵状で、そこには、本領として野牛島郷(やごしま、南アルプス市)と市川新所(市川三郷町)の地名が出てくる。大鳥居が居住していた場所は不明であるが、この2ヶ所であれば市川新所の方が可能性が高いのではないだろうか。

 その理由は、2つ考えられる。
 ①名字の地である大鳥居村に近く、本領安堵状では市川新所に2筆(市川新所内、同所村松分)書き上げられており、野牛島よりも本拠としていた可能性が高い。
 ②直政が宿所とするならば、地域の拠点のはず。

 そこで市川新所について調べると、市川は古くからの地域の中心地で、甲斐源氏の祖(つまり武田氏の祖)である源義清がこの地に入ったという伝承もある。当時の中心は「平塩岡」という台地上にあったが、天正年間頃、地域の特産であった和紙の紙漉きのために水を求めて、笛吹川沿いに集落を移したのが市川新所という。「新所」とは、旧来の集落を本所と呼ぶのに対する表現である。
 開発工事が天正年間の初め頃に行われていたということなので「信玄堤」で知られる武田氏の治水技術によって、川沿いに町を築くことができたと考えられる。

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現地に行くと、高台の上にある「平塩岡」の地には、平塩寺跡という広い平坦地や「甲斐源氏旧跡」という石碑があった。平塩寺とは、奈良時代行基が創建したという伝承がある大寺院。中世にはここに有力者が住み、地域の中核であったことを窺わせる。

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  では、直政はいつ滞在したのであろう。
 可能性のある時期は2回ある。
 1回目は、天正10年3月、武田氏が滅亡する戦いの時、家康は駿河から北上して市川に陣を構えた。これに直政が同行したことを示す記録は見当たらないが、当時、直政が家康の近習であったことを考えると、通常ならば同行しているだろう。
 ただし、この時の家康本陣は平塩寺跡に置かれたといわれている。この頃はすでに新所が開発されて集落は麓に移動しており、平塩寺もすでに荒廃していたということなので、家康が陣を敷くには最適の場所である。直政が同行していたとしても、平塩寺跡周辺に宿営したのではないだろうか。大鳥居屋敷に宿泊した可能性はゼロではないが、かなり低いだろう。

 2回目は、本能寺の変後、徳川が甲斐の領有を目指して進出し、同じく進出してきた北条と対決していた時である。天正10年8月から10月にかけて、徳川は甲府城新府城を拠点として北条勢と対峙していたが、この時直政は地元の武田旧臣を徳川に帰属させる交渉を任されていた。大鳥居の屋敷に宿泊したことを示す記録はないが、同年11月に家康の本領安堵状が出されているということは、それまでに直政が大鳥居に対面して交渉しているはずである。

 たとえ3月に家康一行の一員として市川に来ていたときに直政が大鳥居と知り合っていたとしても、配下に入るよう誘ったのは8月以降のことである。そう考えると、直政が大鳥居屋敷に宿泊した、という大鳥居家の伝承によって、直政は武田旧臣を帰属させようとして実際に地元の武士のもとへ足を運び、直接彼らと対面して交渉していた様子を窺うことができた。

 一方、大鳥居土佐はどのような人物だったのだろうか。実は大鳥居土佐の名前は、「天正壬午甲信諸士起請文」の中には出てこず、武田の有力武将の配下にあって寄親・寄子の関係を結んでいた武士ではなさそうである。それでも、大鳥居宅に直政が宿泊したということは、大鳥居が地域の有力者であったのは間違いないだろう。その後の大鳥居氏をみると、土佐の息子である玄蕃(諱は満経)は賄役、筋奉行などを務めており、井伊家の財政実務を所管する行政官という性格が強い。これらを総合して考えると、大鳥居土佐が市川新所で地域行政や財政を統括していた実績をみて、直政は彼を自身の配下に入れたのかもしれない。


参考文献
彦根藩史料叢書 侍中由緒帳』10、彦根城博物館
『日本歴史地名大系 山梨県の地名』平凡社
角川日本地名大辞典 山梨』角川書店

関ヶ原合戦図屏風[井伊家伝来本]の構図 その4

関ヶ原合戦図屏風の構図を読み解く 第4弾。今回が最終回。5扇と6扇です。

 *屏風は1曲ごとに右から1扇・2扇とかぞえます。

 

合戦図はこちらからご覧ください

関ヶ原合戦図  彦根城博物館所蔵 井伊家伝来本


*図の中には付紙で人名などが記されています。その人名は赤字で示します。

 

5扇上から(つながりのある話は6扇のものも含む):

① 大谷吉隆本陣
 敦賀城主で石田三成の盟友として関ヶ原合戦に出陣して敗北した大谷吉継の本陣。大谷の名前は一般的には「吉継」として知られるが、関ヶ原合戦関係の軍記物などでは「大谷吉隆」と表記されており、この合戦図の付紙では同じ音の「大谷義隆」と記されている。
  *関ヶ原合戦図は、軍記物に描かれた「大谷吉隆」を描いていると考えるので、以下の文中でも「大谷吉隆」と記すことにする。


 幔幕を張った中に、大谷主従が描かれている。吉隆は病気のため甲冑を身につけることはできず、小袖に羽織、頭巾という姿で槍を杖のように立てて座っている。
 吉隆の前には、敵の首が置かれている。「関原軍記大成」「常山紀談」には、平塚為広や吉隆家臣の湯浅五助が大谷本陣に敵首を届けたという記載があるため、彼らのいずれかがもたらした敵首を描いたと思われる。

 

② 畦道に腰を掛けている平塚為広
 美濃垂井城主の平塚為広は、大谷吉隆隊に属し、動けない吉隆に代わって軍を指揮した。「関原軍記大成」によると、小早川秀秋の近臣横田小半助の首を取って大谷本陣へ送った後、負傷して弱ってきたため畦に腰掛けていたところ、東軍に寝返った小川祐忠の家人樫井大兵衛がやってきて突き合いになった。樫井に突き伏せられた平塚は、「汝が重宝にせよ」と述べて十文字の槍を授けて首を取らせたという。
 この話を連想させるように、平塚は十文字の槍を持ち、疲れたように畦道に腰を掛けている。また、平塚の方へ駆けゆく樫井大兵衛の姿が6扇右に描かれている。樫井の左側の山裾には小川隊の白地に三つ巴の旗が建っている。小川家臣の樫井がここから出てきたことを示しているのであろう。

 

③ 湯浅五介を討つ藤堂仁右衛門
 平塚為広の下で、槍を刺されているのは、大谷隊の先鋒隊長の湯浅五介。刺したのはその左に立っている藤堂仁右衛門。白地に朱色の丸三つを描いた幟旗は5扇中段や下段にも描かれているが、藤堂高虎隊をあらわす。仁右衛門も藤堂高虎の家臣。仁右衛門が湯浅五介を討つ話も「関原軍記大成」に出てくる。

 

④ 奥平藤兵衛の討死
 奥平藤兵衛は、奥平貞勝の5男。「関原軍記大成」によると、家康から小早川方へ目付として遣わされていたが、小早川勢が西軍を裏切って大谷勢を攻め始めると、藤兵衛は小早川勢と一緒に戦い敵首を取ったが、最終的に討死したという。合戦図では、敵から鉄砲を撃ち込まれて落馬する藤兵衛の姿が描かれている。

 

⑤ 織田長孝・津田信成と戸田重政の討ち合い
 東軍の津田信成(山城三牧城主)と西軍・大谷勢の先鋒にあった戸田重政(越前安居城主)の一騎討ちが決着がつかずにしばらく経ったところ、織田長孝が加勢して織田の家人山崎源太郎が戸田の首を取った。戸田の家臣鶴見金左衛門は織田に攻めかかったが討ち取られてしまったという(「関原軍記大成」)。

 合戦図では、5扇左に敵と戦う織田長高、6扇右には馬に乗って織田の方に駆けてゆく戸田重政や鶴見金左衛門、津田信成が描かれている。津田は織田氏と同族ということなので、織田氏と同じ朱地に木瓜の旗指物を指している。

 

⑥ 宇喜多隊の浅井与九郎と浮田太郎左衛門
 5扇中程右には、浅井与九郎浮田太郎左衛門の人名がある。両名とも宇喜多秀家の家臣である。

 

⑦ 左軍の各隊と本陣
 5扇下方には、左の方角に向けて進軍する藤堂高虎隊と山内一豊隊が描かれている。藤堂隊は白地に朱色丸3つの幟旗を掲げており、その左、黒地に柏三葉紋の旗が山内隊である。山内隊の先手は6扇に描かれている。

その下には、朱地に木瓜織田長益隊、白地に朱色丸3つの藤堂高虎隊、白地に黒丸3つの寺沢広高隊の旗が木々の間に建っている様子が描かれている。いずれもここには人物は描かれておらず、本陣を示しているのであろう。

 

第6扇上から:

⑧ 山中台
 大谷吉隆が前日まで布陣していた山中台には、大谷の幔幕と幟旗が描かれている。

 

⑨ 大谷隊と小早川隊の交戦
 東軍へ寝返った小早川隊の稲葉内匠と、大谷方の大谷吉勝木下頼継が戦っている。その左の山すそには、脇坂安治隊(朱地に違い輪の幟旗)、京極高知隊(黒地に一つ目の幟旗、四つ目の旗指物)、小早川秀秋隊(白地に違い鎌の幟旗)がいる。
 小早川隊の先鋒隊長松野主馬は山すそから戦場を見ている。これは、松野は小早川隊が東軍へ寝返ったことに納得できなかったため、西軍と戦うことはせず、裏切りの戦いを見物していたという逸話を元にしていると思われる。
 小早川家老の平岡石見は、戦況を報告しようと本陣に戻る様子が描かれている。
 その右方でも、小早川隊の瀧川内記笹地兵庫が戦う様子が描かれている。

 

⑩ 松尾山周辺の各勢本陣
 6扇下方に描かれる山の中央が、小早川秀秋の本陣を敷いた松尾山である。付紙には「金吾秀秋」と記されている。その左側には、東軍に寝返った小川祐忠・脇坂安治・朽木元綱の本陣や、東軍の京極高知の陣所が旗印により描かれている。

 

 

 

 

関ヶ原合戦図屏風[井伊家伝来本]の構図 その3

関ヶ原合戦図屏風の構図を読み解く 第三弾、今回は4扇です。

 *屏風は1曲ごとに右から1扇・2扇とかぞえます。

 

合戦図はこちらからご覧ください

関ヶ原合戦図  彦根城博物館所蔵 井伊家伝来本


*図の中には付紙で人名などが記されています。その人名は赤字で示します。

 

4扇上から:

① 上部には、山肌が青く彩色された特徴的な形の伊吹山が描かれている。関ヶ原の北西の方角に位置し、美濃と近江の境にある霊峰として知られていた。

 

② 上部左、青地に「兒」字の幟旗を掲げるのは、宇喜多秀家隊である。秀家は白馬の脇に立ち、戦場の方を見ている。戦況が悪化しているため退却しようとして馬を牽いてきたところだろうか。宇喜多隊は、その下部で敵と戦っている。

 

③ 上部中央には、黒地に「丸に十字」紋の幔幕が張られている。島津隊の本陣を示す。島津隊は西軍に属していたが、関ヶ原合戦では積極的な戦闘はせず、西軍の敗色が濃くなると戦場から逃走した。合戦図では、大将島津義弘、その甥の島津豊久主従が本陣から右の方へ駆け出している姿をとらえている。島津隊の先頭は3扇に描かれている。

 

④ 中央には、関ヶ原盆地の中央で東西両軍が入り乱れて戦闘している様子が描かれている。右側に位置する東軍は福島正則隊が主力で、その家臣の松下下総(実際は松田)、大崎玄蕃、星野又八、長尾隼人、林亀之介、梶田出雲、吉村又兵衛、武藤修理、福島丹波、可児才蔵、仙石但馬、福島正勝(正則嫡子の正頼のことか)らが描かれている。左側は宇喜多隊が主力で、明石掃部、長船吉兵衛、本多左兵衛、延原土佐、高知七郎左衛門らがいる。白馬に乗る高知が槍を手に攻めかかっている相手は、豊臣秀頼側近であった大野修(治長)である。

大野修理が宇喜多隊の鉄砲頭である高知(香地とも)七郎左衛門と戦っているのは、「関原軍記大成」などの逸話に見られる。そこでは、大野が高知を馬上から突き落とし、大野の家来の米村権左衛門が高知を切りつけてその首を取ったが、その姓名がわからなかったので首に掛けていた数珠を後日の証しとして持ち帰ったとされている。

 

⑤ 下部には中央に「遊軍」の付紙文字があり、その周辺には主に幟旗によって東軍の遊軍隊が布陣している様を描いている。

右側には、紺地に白丸を九個並べた幟旗の隊として「小出秀家」の付紙があり、中央には白黒を斜めで切り替えた幟旗の「亀井茲矩」隊が描かれる。ただ、両家の旗印を「諸将旌旗図」により確認すると、旗印の図柄と家が逆であることが判明する。小出と亀井の人名貼紙を入れ違えて貼ってしまったようだ。左側には上から、5扇にかけて朱地に木瓜の幟旗(人名貼紙はないが、旗印から織田家と考えられる)、稲葉貞通隊(黒地に白丸の旗)、遠藤慶隆隊(白地に朱丸の旗)、蜂須賀至鎮隊(白地に卍の旗)の各隊が、幟旗が立ち並ぶ様子で示されている。

 

 

 

 

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