彦根歴史研究の部屋

彦根や井伊家の歴史について、これまで発表してきた私見の紹介・補足説明・修正など。

井伊直政家臣列伝 その18 椋原正直 ~もう一人の付家老~ 

 椋原正直は、木俣守勝・西郷正員とともに徳川家康から井伊直政へ付けられた重臣である。ただし、木俣家と西郷家が江戸時代を通じて井伊家の家老を務めたのに対し、椋原はそこまでの活躍が見られず、影の薄い家といえる。そこには理由があった。
 
椋原正直の出自と履歴
 椋原氏や正直個人の出自・履歴について詳細に記されたものは見当たらず、詳しくはわからない。遠江出身と記す史料もあるが、「貞享異譜」にあるとおり三河出身と考えられる。三河に椋原という地名があり、そこの出身と考えるのが自然であろう。
 江戸時代には三河国知多郡に椋原村があった。近代になると隣村の角岡村と合併して椋岡村となり、現在も阿久比町椋岡という地名が残っている。
 

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 「貞享異譜」によると、正直は幼年より岡崎で家康に仕え、側役であったという。天正10年(1582)、直政が新たな部隊を創設するにあたり、家康が直政付きとした。直政家臣団のもとで、正直は筋奉行を務め、その後家老加判、旗奉行を務めたという。天正18年の小田原の陣では「格別之大働」をして加増を受けたと記す。このように、統治、軍事のいずれもで活躍がみられる。家康が見込んで直政に付けただけのことはあり、有能だったのは間違いないだろう。
 正直は慶長3年(1598)には隠居し、慶長5年の関ヶ原合戦の時には高崎で留守を守る。その跡を継いだのは2代目の正長で、正直の知行3500石と家老加判の役職を継承し、翌年には35騎の侍大将も仰せ付けられて関ヶ原合戦に出陣したという(「貞享異譜」)。
 これを読む限り、井伊直政が死去した慶長7年時点では、正長が家老であったと考えられる。ただ、慶長7年の分限帳や慶長10年の家中騒動時の文書では「椋原対馬」が登場する。「侍中由緒帳」「貞享異譜」を見る限り、対馬は正直の通称で、2代目正長は壱岐と称しているため、対馬は正直のことを指すと思われるので、慶長7年から10年頃に正直は隠居しているとする「貞享異譜」と分限帳等の記述ではズレが生じている。
 慶長10年の家中騒動では、椋原対馬は鈴木重好父子を訴える側の中心人物の一人であり、井伊家中の中核にいたことは確実である。その後、慶長15年には椋原壱岐(正長)が家中仕置を命じられており(『新修彦根市史』6巻114号)、この時までに2代目正長が家督を継承していたのは確実である。
 
 2代目正長は家中仕置を担っていたが、慶長19年3月に死去している。跡継ぎの3代目の直正はこのときわずか3歳であり、正長は若くして死去したと思われる。それでも、直正はそのまま3500石の相続を許され、大坂冬夏の陣には陣代を立てて出陣している。成人男子の当主が不在でありながら減知されず家督継承が認められたのは、井伊家中で重用されていたことを示すものであろう。家康から付けられた家という重みを感じる。
 
断絶と再興
 ところが、直正は6歳の時に別の家の名跡を継ぐことになった。他に椋原家を継ぐ者はいなかったのであろう、この時点で一旦椋原家は断絶することとなった。
  *『寛政重修諸家譜』では直政と表記するが、ここでは「貞享異譜」にあわせて直正とする。

 直正が名跡を継いだのは、旗本安藤家である。紀州徳川家の付家老となった安藤直次の長男の系統となる。直次の長男重能は、幼時より秀忠に仕え、1000石を拝領していた。大坂夏の陣では井伊直孝の備えに属して出陣したところ、討死したため、直次の孫(娘の子)である直正が重能の婿養子となり家督を継承することとなった。直正には重能の遺領1000石に加えて直次から3030石が分け与えられ、幕府旗本へと転身したということである。直正は延宝5年(1677)まで旗本として務め、貞享4年(1687)に77歳で死去する。旗本となった直正であるが、娘の一人が彦根藩士正木舎人へ嫁しているため、直正本人が離れたとしても井伊家とのつながりが途絶えたわけではないことがわかる。

 直正(隠居後は江山と号した)は、生家である椋原家を断絶させてしまったことに思いを抱いていたのであろう、晩年、隠居してから椋原家再興を働きかけている。
 椋原家を再興したのは、西郷藤左衛門(4代目員元)の二男で、親の遺領から500石を分知されていた西郷藤次である。藤次は椋原正長の曾孫にあたる(西郷員元の母が椋原正長の娘)。
 延宝7年に安藤江山より井伊家へ願い出て、藤次が椋原家を再興することが認められ、椋原治右衛門と称した。その後代を重ねても「先祖筋目」ある家と認識され、宝暦6年(1756)には重臣の家格である「笹之間席」に列した。
 椋原家は家康から井伊直政に付けられたという由緒により、井伊家中で家を継承させることは認められたが、再興後、初代・2代目のように家中政務を担う家老役に就くことはなかった。
 
   
 参考文献
野田浩子『井伊直政 家康筆頭家臣への軌跡』(戎光祥出版、2017年)

 

 典拠史料
『新修彦根市史』6巻
『侍中由緒帳』3
「貞享異譜」(彦根城博物館所蔵、未刊)
 
 

井伊直政家臣列伝 その17 西郷正員 ~秀忠生母の一族~ 

 
 徳川家康から井伊直政に付けられた重臣の一人に西郷藤左衛門正員がいる。秀忠と忠吉の生母である西郷局(さいごうのつぼね)の実家である西郷氏の一族である。
 
西郷氏の出自
 西郷氏は三河国八名郡西郷を名字の地とする武家である。南北朝期に三河国守護であった仁木義長(在職期間1351~1360)のもと、西郷弾正左衛門尉が守護代を務めていた。また、岡崎城を築いたのも西郷氏と伝わる。

 正員の直接の先祖として活動が確認される人物は、曾祖父にあたる弾正左衛門正員からである(諱には諸説あるようだがここでは『寛政重修諸家譜』に従う。藤左衛門と諱が同一なので通称を加えて区別する)。『寛政重修諸家譜』によると、弾正左衛門正員は今川家に属し、三河国西郷庄嵩山月谷(わちがや)城に居住。享禄2年(1529)に徳川家康の祖父である松平清康が今橋城(吉田城)を落として近辺に勢力を拡大してきたため西郷氏は近隣の野田菅沼氏らとともに松平の麾下に属すが、その後今川氏に属した。これは、天文4年(1535)に清康が討たれて松平氏が勢いを失い、天文15年には今川義元三河平定に向けて兵を進めてきたという情勢のもとでのことであろう。
 弾正左衛門正員の跡を継いだ正勝の時代に桶狭間の合戦が起こる。今川義元が討たれると、西郷氏は周辺の国衆とともに今川から離れ、徳川家康に味方した。そのため今川方から兵を向けられることになり、五本松に居城を移して守ろうとしたが、永禄4年(1561)11月、今川方から五本松城を攻められて正勝やその嫡子元正は討死した。それでも徳川方からの援軍により居城は死守し、その後も東三河の国衆とともに徳川配下にあった。

 西郷氏の本拠は三河国の東端に位置し、月谷城は遠江へ向かう本坂峠の麓にあった。江戸時代には姫街道の嵩山宿が置かれたあたりである。
 なお、江戸時代の西郷家の由緒書には遠江西郷の出身と記していることがある。正確には三河国であるが、遠江との国境に近かったことや「井伊谷七人衆」の菅沼氏らと親しい関係であったことから、井伊氏と同郷と認識されたのかもしれない。

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西郷局との関係 
 西郷氏は、西郷局の実家としても知られている。西郷局は二代将軍秀忠とその弟である忠吉の生母である。正確には、西郷局の母が西郷正勝の娘で、父親は戸塚忠春である。彼女は一旦は西郷家嫡流の義勝(元正の嫡子)に嫁すが、義勝が討死した後、その家督を継いだ叔父清員の養女として家康へ仕えた。
 西郷家は将軍秀忠生母の実家であり、義勝の嫡子の系統は旗本となり、一時期1万石を拝領して大名(安房国東条藩)となったが、その二代後には「勤めよからざる」として五千石が減知され、旗本として出仕している。
 
西郷氏系図
  正員  正勝  元正  義勝
                   正員
            清員 = 西郷局
                   ↑(養女)
            娘    西郷局
 
井伊配下での西郷正員
 藤左衛門正員は義勝の弟にあたる。父元正と西郷局の母、局の養父清員の三名は兄弟なので、正員と西郷局は従兄弟の関係となる。『寛政重修諸家譜』では「正友」という諱で記されるが、彦根藩内に伝わる史料では正員と記される。
 正員は、木俣守勝・椋原正直とともに家康から井伊直政へ付けられた。その年代は天正10年(1582)とするものが多い。この年、直政は家康から一人前の大将と遇されることになったため、それに伴い三人が家康の元から遣わされたとみるのがよいだろう。
 井伊家中での正員の役割は当初は明らかではないが、天正18年に直政が上野国箕輪12万石の領地を得ると、正員は領地の統治を担当していることがわかる。箕輪に入った翌年年から、正員の名で地元の有力者へ下した文書が数通残っている。伝馬御用について安中宿中に宛てた文書2通(うち1通は他の直政家臣と連署)、進雄神社の神宮職を先例通り認める意向を伝える文書1通が『高崎市史』に所収されている(資料編4、606・608・609号)。また、井伊家が佐和山にやってきて間もなく、知行を与えた家臣に宛てて示した在方仕置の法度は、正員が鈴木重好らと連署したものである(『新修彦根市史』6巻370号)。
 このように、正員は地域統治を主管していたことがわかる。「貞享異譜」にも、正員の職歴として家老格・町奉行のち町奉行御免・家老加判と記されている。
 
 正員も木俣守勝と同様、井伊家親族ネットワークに組み込まれている。正員の妻には奥山親朝の娘、つまり直政の母の妹を迎えている。ただし、嫡男(のちの二代目)重員は先妻の子であり、すでに先妻がいた(存命か死別かは不明)。直政との関係を強固とする政治的目的でその親族を後妻に迎えたといえる。
 
 直政没後の慶長7年(1602)の分限帳では、西郷伊与守(正員)は300石取となっている。これは隠居料として下されたもので、嫡子勘兵衛(重員)が3500石取であった。知行高に基づく家臣団の序列でいえば、鈴木重好、木俣守勝、川手良行に続くNo4に位置していた。
 

  

 参考文献
野田浩子『井伊直政 家康筆頭家臣への軌跡』(戎光祥出版、2017年)

 

 典拠史料
『新修彦根市史』6巻
『新編高崎市史』資料編4
『侍中由緒帳』2巻
「貞享異譜」、「御侍中名寄先祖付帳」(いずれも彦根城博物館所蔵、未刊)
 
 

井伊直政家臣列伝 その16 木俣守勝 ~家康からの付家老~(下) 

 
 木俣守勝は徳川家康によって井伊直政へ付けられ、その活躍を支えた。直政が家康の筆頭家臣として軍事的・政治的側面から家康の天下取りを支えた裏には、守勝ら有能な家臣の存在もあった。
 守勝が直政のもとで発揮したその才覚を示す逸話を「木俣木俣土佐守守勝武功紀年自記」から二つ示していこう。
 
向島城への転居に関わる「秘計」
 その一つは、慶長3(1598)年8月に豊臣秀吉が死去した後の政局でのことである。大坂城に移った豊臣秀頼の周囲に居る石田三成らと、大老の一人である家康の対立の中で、家康が襲撃されるという噂が何度か流れた。例えば、慶長4年1月には家康が伊達政宗福島正則らと私に婚姻を結んだことが糾弾され、この時にも三成らが家康を襲撃するという噂が流れたため、黒田長政らが家康屋敷周辺を警固した。3月には、病床の前田利家を見舞うため、家康は大坂へ出向いたが、この時も襲撃の噂があり諸将が家康を護衛している。
 この後大坂から伏見へ戻った家康は、向島城を整備して、3月26日には移っている。襲撃の噂が絶えない家康に対し、向島城へ移るにあたり、木俣守勝がある提案をしたという話が伝わる。

 「木俣木俣土佐守守勝武功紀年自記」には、「我(守勝)その秘計を考え、密かに直政に申す、直政驚きその夜三更言上せらる、上様(家康)御感斜めならず、即日明旦御座を移さるべきなり、直政我に告げ、我即ち私に斥候に出て、翌日上様御座を向島に移され、この御危難なし、この御危難のこと後日世間に風聞有るゆえ、上様いよいよ感じ、予思案の由直政申し伝う」とある。守勝が「秘計」を考えて、直政を通じて家康へ言上したところ、翌日すぐに家康は向島へ移ったという。ただし、「秘計」の具体的な内容はわからない。
 この件は「校合雑記」(『朝野旧聞褒藁』所収)でも述べられている。そこには、守勝が向島へ移ることを提案し、材木や兵糧の準備まで調えていたと伝える。各種史料を見る限り、転居そのものの提案は前田利家細川忠興らがしたといわれており、守勝の提案とは言いがたいが、具体的な物資の準備に関わる提案をしたのが守勝であればあり得る。また、普請が完了して正式に移る前の3月19日に家康は仮に向島城に入り、本屋敷との間を行き来していた。「木俣木俣土佐守守勝武功紀年自記」には、木俣が「秘計」を言上した翌朝に急遽移ったとあり、仮転居の背景には木俣の「秘計」があったのかもしれない。
 この頃、井伊隊は家康を護衛する番役の任にあり、直政は守勝をはじめ配下の軍事部隊を引き連れて伏見周辺に滞在していた。そのため、番役の任務として、家康の向島転居が決定するとその準備実務を担ったはずである。守勝もそのような立場で家康の向島転居に関わっていたのは間違いない。
 なお、「校合雑記」には、直政が家康に「秘計」を言上したところ、家康は「それは其方(直政)の存じ寄りにてはあるまじ、誰ぞ左様に申しける」と、直政が考え出したものではなく、側近の発案と見抜いたという。直政はみずからこのような「秘計」を考え出せる人物ではないということであろう。
 
村雨の壷拝領一件
 守勝の才覚を示す逸話として、木俣家代々の家宝である村雨の壷を直政から拝領した経緯に関わる話がある。この壷は、関ヶ原合戦後、直政家臣の恩賞をめぐる騒動を守勝が収拾させたとして拝領したものである。
 その騒動とは、合戦後の論功行賞で吉川軍左衛門・五十嵐軍平らを足軽大将に取り立てたことに対し、彼らより活躍したと訴える大久保将監ら「八人衆」が直政へ直訴したものである。八人衆は、吉川・五十嵐らより早く武功を挙げたと主張し、不公平な論功行賞を批判して直政の外出先で直訴に及んだ。直政は立腹したが、屋敷に戻ったところ、八名の戦功を記した書類が家老から直政のもとに上げられていたがそれを失念していたことに気づく。「八人衆」の主張は正当なものだったのである。
 しかし一旦当主が示した論功行賞を変更する訳にはいかず、守勝がこれをうまく収めたということである。記録により詳細は異なるが、守勝は八人衆を屋敷に呼び寄せ、直訴を叱りながらも彼らに寄り添い、引き続き奉公するよう説得した。本来なら、直訴という行為そのものが処罰の対象となるが、直訴は不問に付すこととなりこの一件は落着となった。
 落着後、直政はうまく事を収めた守勝への褒美として村雨の壷を贈ったということである。
 
 木俣家に伝来した関ヶ原合戦図屏風には、この逸話の元となった八人衆らの活躍が描かれている。この構図は木俣家本独自のもので、同様の構図を持つ井伊家伝来品などには見られない。井伊隊の先頭で敵と戦っている武者の旗指物には、合戦後足軽大将に取り立てられた吉川長左衛門、三浦十左衛門、松居武太夫や「八人衆」の一人である大久保将監らの名が見える。この描写は、恩賞をめぐる直訴一件とそれを収束させた守勝の手腕を連想させるものとして、関ヶ原合戦図の制作時に木俣家の先祖の活躍を盛り込むよう改変したと考えられる。 

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関ヶ原合戦図屏風」井伊隊先鋒部分描写の比較(「新収蔵記念 彦根藩筆頭家老・木俣清左衛門家資料」より)
 
関ヶ原合戦図(木俣家伝来本)の全体はこちらから↓
直政没後の守勝の位置
 直政没後の慶長7年(1602)の分限帳では、木俣土佐(守勝)は四千石取である。知行高に基づく家臣団の序列でいえば、鈴木重好がトップで、守勝と河手良行がその次に位置していた。
 
 井伊家中での守勝の役割を見ると、直政生前・没後とも「家中の仕置」を申し付けられていたという。このことは、慶長10年に家中騒動が起こり、河手良行ら重臣が連名で家臣筆頭の鈴木重好の不正を幕府へ訴えた文書の中に記されている。鈴木の不正とは、木俣に相談せずに公用の米を引き出して使ったことや、罪人の処罰について依怙贔屓があったという点が挙げられている。このことから、木俣の任された「家中の仕置」には財政や人事の統括があったことがわかる。特に、直政の跡を継いだその嫡子直継は相続時に13歳(数え年)であり、守勝がその政務を補佐することになった。
 また、家中騒動前のことではあるが
佐和山から彦根に城地を移す決定も守勝が中心になっていた。新城の候補地はいくつかあったが、慶長8年に守勝が家康の元へ行き絵図を示して説明し、彦根に決定した。実質的に守勝が考えた案が家康に承認されたといえる。城の完成後には、その祝儀として将軍秀忠から守勝へ馬が下賜されており、築城にあたって守勝が尽力した様子は幕府からも認められていたことがわかる。
 
 慶長15年、守勝が病に臥せると、家康は「万病円」という薬を調合して守勝へ届けた。家康がみずから薬を調合して家臣へ与えていたのはよく知られているが、彦根にいる守勝へも届けたのは、井伊家中での守勝の役割の重要性を認識しており、その体調を気遣ったためであろう。しかし薬の甲斐なく、守勝は同年に死去した。
 
 
 参考文献
野田浩子『井伊直政 家康筆頭家臣への軌跡』(戎光祥出版、2017年)
野田浩子「関ヶ原合戦図屏風の図像とその展開」(『彦根城博物館研究紀要』14、2003年)
「新収蔵記念 彦根藩筆頭家老・木俣清左衛門家資料」(展示図録、彦根城博物館、2013年) 

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 典拠史料
『新修彦根市史』6巻
『侍中由緒帳』1巻
「木俣土佐守守勝武功紀年自記」(「木俣清左衛門家文書」彦根城博物館蔵、未刊)
 
 

井伊直政家臣列伝 その15 木俣守勝 ~家康からの付家老~(上) 

今回から、元々徳川家康の家臣で井伊直政へ付けられた家臣へと話を進めていきます。 
まずは、付家老の筆頭格、木俣守勝から。
 
木俣守勝は直政の主要家臣の一人であり、系図や由緒書も残っており、井伊家に仕える前のことも比較的判明する。
まず、自伝の形式をとる「木俣土佐守守勝武功紀年自記」などにより、その出自と前半生を見ていきたい。
 
先祖の由緒
 守勝は弘治元年(1555)、三河岡崎にて誕生した。幼名は菊千代丸。
 先祖は伊勢国神戸(三重県鈴鹿市)の出身という。木俣家の系図では楠木正成を先祖としている。正成の次男正儀の孫とする守清を木俣家初代に位置づけ、守清の子守行の時に伊勢国司で南朝方の北畠顕泰に召されて神戸に居住し、その後の歴代は伊勢瀧城、岡城などに居住し、守勝の父守時がふたたび神戸に居住したとする。
 
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  もちろんこれは、伊勢が長らく南朝方の拠点であり、北畠氏が勢力をもっていたことから、南朝の有名人物から木俣氏へ派生するという系図を創り出した結果と考えられる。楠木氏が橘姓であり、木俣氏も同様、本姓を橘氏としている。

 伊勢出身の木俣氏が三河の徳川氏の家臣となった経緯は、松平広忠徳川家康の父)が父清康の死後、勢力争いによって三河から逃れ、一時期神戸に匿われていたことと関係して説明されている。守時はこの地で元服した広忠に仕えたということであり、広忠が三河へ戻る際に守時は付き従って神戸を離れ、岡崎に居を移したということである。守勝が生まれた弘治元年(1555)段階で広忠はすでに死去しており、その嫡子家康は駿府で今川氏の人質として暮らしていた。そのような状況にあっても、守時は伊勢へ帰らず、岡崎に留まったことになる。

 守時の出身をはじめとする守勝の父祖については、木俣家に伝来した系図に記されるのみで、「木俣土佐守守勝武功紀年自記」にも記されない。楠木正成を先祖とするのは、本姓を橘氏とするために作為したものとわかるが、父の出自などはどこまでが史実なのか峻別しがたい。 
 
明智光秀のもとでの武功
 確実なのは、守勝自身が幼少期から家康に仕えていたということであろう。「木俣土佐守守勝武功紀年自記」によると、守勝は9歳で家康に召し出されて小姓として仕え、元服後は家康の出陣に御供していたが、天正元年(1573)守勝19歳の時、一家の者と事を起こして家康の元を離れて諸国を流浪した。その後、明智光秀のもとに仕官したが、天正9年、明智のもとでの守勝の武功を聞いた家康が召し返そうと連絡してきたため、守勝は家康の元に帰参した。

 明智の元での戦功とは、天正6年の播州神吉城攻めや大和片岡城攻めで一番乗りして戦功を挙げたことや、天正7年には石山合戦石山本願寺の周辺に築いた付城で光秀が兵糧の補給路を断たれてしまったところ守勝の秘計により敵を追い散らしたことが挙げられている。神吉城攻めに際しては光秀から授かった感状が残っており、石山合戦での戦功では信長に召し出されて御前で言葉を賜わったという。
  このように、守勝が光秀のもとにいたのは20歳代の数年間であるが、この時すでに軍事計略の才能があり結果を残していたことがわかる。
 
井伊直政へ付けられる
 徳川配下に戻った守勝は、天正10年、家康の上洛に御供し、本能寺の変後、堺から伊賀越えで三河へ戻る一行の中にいた。 その後、家康が甲州へ兵を向けて北条氏と争った天正壬午の乱の際には、成瀬正一・日下部定吉を案内者として甲州諸士が徳川方へ帰属するよう説得している。百日に及ぶ北条氏との対峙の後、和睦交渉の使者に井伊直政が抜擢されたが、このとき守勝が副使として直政を補佐した。

 さらに、甲州諸士がまとまって井伊直政に付属されることになると、守勝は「甲州侍之物主」として彼らをまとめる役割を命じられ、直政に付けられた。天正11年1月、家康は直政へ書状を遣わし、新たに付けた甲州侍を高遠口の押さえへ出陣させるよう命じるが、このとき「清三郎(守勝)か誰にても」と、守勝の名を挙げて同心(甲州侍)を統率させるよう指示している。ここで気になるのは、家康はいつ頃から守勝を直政に付けようと考えたかという点である。正式に配下に付けたのは甲州諸士を直政に同心として付けた時と考えられるが、北条との和議交渉で守勝が副使を務めていることから、この頃には実質的に守勝には直政を補佐する役割が与えられていたとみてよいだろう。 

 さらにいえば、守勝の行動を見ていると、天正10年の上洛以来、直政と同様の行動をしていることに気づく。天正壬午の乱では、守勝は甲州諸士の帰属交渉をしたというが、直政も甲州諸士を徳川方に帰属させる交渉を担当し、帰属交渉が成立した際には彼らが家康へ対面して臣下の礼をとる場で直政が取り次いだ。つまり、家康家臣の多くが出陣して北条と対峙する中、帰属交渉を担当する特任チームに両名は属していたことになる。その中で、直政が家康にもっとも近い位置にあり、守勝らは実際に相手と交渉する実務を担うという関係にあったのではないだろうか。

 直政にとって初めての大仕事は、天正壬午の乱で北条との和議交渉使者を務めたことであった。ただ、これは突然の抜擢というより、遠江の有力国衆出身という直政の出自からみて相応のものといえるだろう。家康は、この先直政を徳川家の「幹部」として処遇するにあたり、自身に近く有能な補佐役を直政に付けようとした。それが守勝であった。しばらくは実質的に一緒に仕事をさせて相性を見ていたのだろう。ここで気になるのは、家康は、明智の元で活躍していた守勝をわざわざ呼び戻したという点である。家康が積極的に動いてまで守勝を戻そうとしたのはなぜだろう。この段階で直政へ付けることを考えていたのだろうか。
 
 
井伊家中での守勝 
 守勝が付けられた天正10年段階の井伊家の状況を確認しておくと、当主直政は22歳。それまで家康の近習であったが、甲州へ出陣する8月までには万千代という幼名から兵部少輔へと通称を改めており、この出陣から一人前の武将として扱われるようになったことがわかる。北条の和議交渉の使者を務め、甲州諸士を付けられて旗本隊の隊長となったこともこのような処遇の中でのことといえよう。 

 当時の直政家臣のほとんどは、井伊谷の国衆井伊氏の家臣や与力という関係を引き継いで直政に従っていた者であった。直政が徳川の軍事の一翼を担う重臣に位置づけられることは、井伊家中も拡大することになり、その家政を担う重臣も必要となる。そのように考えて、家康は守勝を直政に付けたと考えられる

 井伊家でも守勝を重臣グループの一員として処遇した。それがわかるのが婚姻関係である。守勝の妻は新野左馬助親規(親矩とも)の娘である。新野は桶狭間の合戦で討たれた井伊家の当主直盛の岳父で、当主を失った井伊氏において幼い直政の養育を任されたという人物である(のち井伊氏の軍勢を率いて討死)。新野の娘には直盛の正室のほか、今川家臣から直政家臣となった三浦元成、戸塚正長、庵原朝昌らの妻もいる。養女の可能性はあるが、新野の娘を妻とすることで守勝は井伊家重臣の親族ネットワークに組み込まれたことになる。

 

 参考文献
野田浩子『井伊直政 家康筆頭家臣への軌跡』(戎光祥出版、2017年)
「新収蔵記念 彦根藩筆頭家老・木俣清左衛門家資料」(展示図録、彦根城博物館、2013年)
 

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 典拠史料
「木俣土佐守守勝武功紀年自記」「木俣氏系図」(「木俣清左衛門家文書」彦根城博物館蔵、未刊)
 
 

 

 

井伊直政家臣列伝 その14 渡辺昌元 ~初めての新規家臣~ 

 これまで見てきた初期からの直政家臣は、直政以前より井伊氏と関わりを持っていた。井伊氏を再興させようとして直政を当主に据えることに尽力してきた者や、井伊氏の没落により離れていたが直政の出仕とともに戻ってきた者らが集結した。
 
 しかしそれだけでは家臣の人数が十分ではない。
 直政は、おそらく出仕当初から、遠江の有力国衆の家を継ぐ名家として処遇されたと思われる。そうであれば、相応の家臣を抱え、家臣団を充実させる必要が生じる。
 
 渡辺九郎左衛門昌元は、直政以前の井伊氏とのつながりを由緒として持たず直政配下に入った最初の者といえる。
 その出仕経緯は、『侍中由緒帳』には「権現様より直政様へ御付け遊ばされ」という記述のみで出仕時期が明確ではないが、「貞享異譜」には出仕年次が天正16年であることと天龍河原の陣から出陣していると記す。天龍河原の陣は、武田勝頼天正2年(1574)に高天神城を落として遠江の拠点としたため、徳川が周辺に城を築いて対峙する状況で起こった衝突である。武田との対立は高天神城を落とす天正9年まで続くが、天龍河原の陣は天正7年頃のことと推定できる。昌元は天龍河原の陣までには直政家臣となっているということなので、貞享異譜の記す出仕年次「天正16年」は誤記と判断できる。天正6年であれば齟齬はない。
 
 渡辺昌元の出身は遠江横須賀で、大須賀出羽守のもとに奉公していたが、父の跡目を不足に思い大須賀のもとを退き井伊谷にて井伊家に召し出されたという。昌元は遠江須々木領司渡辺大炊介昌遠の嫡子で、その先祖は渡辺綱にまで遡れるとする(「貞享異譜」)。

 大須賀出羽守といえば、榊原康政の子である大須賀忠政の称であるが、ここではその祖父である大須賀康高(通称は五郎左衛門尉)のことを指すとみてよいだろう。康高は高天神城攻めで最前線にいた人物である。天正2年の高天神城籠城戦では城主小笠原氏とともに籠城し、城を明け渡した後も横須賀城静岡県掛川市)を築いて高天神城の奪還をはかった。このとき、高天神城の籠城兵らは康高のもとに与力として家康から付けられ、「横須賀衆」と称されたという。つまり、地元の武士で徳川方に臣従する者は康高のもとに配されたことになる。昌元の父は須々木(静岡県牧之原市)の領司とあり、昌元は横須賀の出身ということであり、彼らも大須賀康高配下の横須賀衆の一翼を担っていたと推測できる。

 昌元にとって大須賀氏は軍事上の付属先であり、根本的には家康の家臣である。そのため、昌元が直政配下となったのは付属先が替わったにすぎない。伝承では、昌元は父の死去に伴う相続に際して大須賀氏の示す条件に満足しなかったため離反したと伝わるが、家康の意向により附属先が変更となっただけかもしれない。
 さらに想像をたくましくすれば、渡辺氏はその本拠が遠江国内であり、井伊氏と直接の関係はないにしろ、間に何名かを挟めばつながりや親戚関係があってもおかしくはない。井伊氏に付属する者を増やそうとして縁者を頼って探した結果、昌元が井伊氏に付属されることになった可能性もあるだろう。実は、昌元の嫡男である昌常の妻は中野直之の娘を迎えている。その兄弟は中野三信、松下一定、広瀬将房ら井伊氏重臣の家を継承した二代目であり、姉妹も奥山氏・松居氏・小野氏に嫁いでいる。つまり、渡辺氏も井伊氏重臣間の姻戚関係に入っており、単なる新参者とは位置づけられていないことがわかる。
 

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 昌元は直政の出陣した長久手の戦い、関ヶ原合戦に従軍し、さらに大坂両陣にも出陣しており、元和3年(1617)に死去した。
 慶長7年の分限帳では、渡辺九郎左衛門(昌元)は300石取であった。
 
 昌元には2人の男子がおり、昌元の没後、その家督は二男源次郎昌信が受け継いだ。嫡男助之進昌常は慶長8年(1603)に井伊直継の小姓に召し出されており、慶長15年に新知300石を拝領していたからである。しかし、昌信は若年にて死去したため、その家は継承されず断絶となった。そのため、『侍中由緒帳』では昌元を家の初代と数えるが、「貞享異譜」では昌常を別家の元祖としており、歴代の数え方が諸説ある。
 

参考文献

野田浩子『井伊直政 家康筆頭家臣への軌跡』(戎光祥出版、2017年)
 
 典拠史料
『侍中由緒帳』9巻
「貞享異譜」(彦根城博物館所蔵、未刊)
『新修彦根市史』6巻(彦根市、2002年)
 
 
 

井伊直政家臣列伝 その13 内山正辰 ~今村氏に次ぐ譜代家臣~ 

 内山正辰は「侍中由緒帳」によると、生国は信濃国内山であるが井伊谷井伊直盛に奉公しており、その筋目により直政が徳川家康に出仕した際、直政に召し抱えられた3人の中の一人という。また、「貞享異譜」では、天正3年(1575)に召し出され、直政の初陣となった芝原の戦いから関ヶ原合戦まで、直政の出陣12度に御供しており、関ヶ原後には近習を御免となり目付役を務めた。今村家に次ぐ譜代の家と記す。
 
 
 正辰の出身地とする信濃国内山とは、内山城のあった長野県佐久市内山であろう。
 
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 内山城は、天文15年(1546)頃に武田信玄の侵攻を受けて攻略され、城主大井氏は逃れたという。想像をたくましくすれば、正辰はこのような争乱から逃れるために信州を離れ、井伊谷にやってきて井伊直盛へ奉公したのかもしれない。直盛は永禄3年(1560)の桶狭間の合戦で討死しているので、正辰がそれまでに井伊谷に来ているのは間違いない。直盛没後、実質的に当主不在の井伊家のもと、正辰が奉公し続けていたかどうかはわからないが、直政が井伊家当主として家康に仕えることになると、正辰は直政の側近くに仕えて身の回りの世話をした。
 
  内山氏が今村氏に次ぐ譜代という意味は、正辰も今村正実も父祖以来井伊家に仕えており、井伊家当主となった直政にも引き続き仕えたということである。また、その職務内容も、当主の身の回りの世話をする近習という点で両名は同様の役にあった。
 「侍中由緒帳」には、正辰は直政出仕時に召し抱えられた3人のうちの1人とある。あと2人のうち1人が今村正実であるのは確実であろうが、もう一人は今村正躬(正実の弟)なのか、それとも小野朝之を指すのかはわからない。
 
 慶長7年(1602)の分限帳によると、九左衛門(正辰)は200石取であった。また、慶長12年の分限帳では、九左衛門は200石、嫡男の十太夫(正重)も200石取となっている。そのほか、正辰二男の正全は天正20年から直政の小姓を勤め、慶長4年には新知300石を下されている。慶長7年の分限帳で御供衆のうちに400石取として「内山忠三郎」とあるのが正全と思われる。正全本人は鉄砲足軽大将として大坂冬の陣に出陣したところ討死したが、その子孫の家は継承されている(内山次右衛門家)。
 

もう一つの内山家

 彦根藩士の内山家はほかに数系統あるが、その一つに同様の出自を持つ家がある。内山十郎右衛門政武は、井伊直孝上野国白井の領主であった時代に召し出され、その家老役を勤めたという。慶長13年に直孝が江戸城書院番頭を拝命して5000石を拝領した際のことと考えられる。政武の出自は、信州内山城主内山播磨守政光の嫡子とされている(「貞享異譜」)。正辰と政武の出身地が同じで、親戚などの関係があった可能性も考えられる。
 
 
参考文献
野田浩子『井伊直政 家康筆頭家臣への軌跡』(戎光祥出版、2017年)
 
 典拠史料
『侍中由緒帳』10巻
「侍中由緒帳」、「貞享異譜」(いずれも彦根城博物館所蔵、未刊)
『新修彦根市史』6巻(彦根市、2002年)
 
 
 

井伊直政家臣列伝 その12 今村正実・正躬 ~父祖以来の家人~ 

 今村正実・正躬兄弟も、最初期からの直政家臣である。直政の初陣とされる芝原の陣から御供していたと伝える。
 両名の父である今村藤七郎は、直政の父直親の少年期にその傍にいた人物として『井伊家伝記』で描かれている。
 『井伊家伝記』では、天文13年、直親の父直満が井伊家家老小野和泉守との確執により命を奪われると、直親も同様に命を狙われたため、今村藤七郎が直親を連れて信州市田へ身を隠したとする。つまり、藤七郎は直満の家に仕える家人であり、直親の亡命に同行して身の回りの世話をしていた人物であったことがわかる。

正実・正躬の直政への出仕

 年代的に考えて、藤七郎は少年の直親を守る年長者であり、正実・正躬兄弟は直親と同世代に近かったと思われる。そのため、正実・正躬も直親に仕えていた可能性が高い。直親の死去により出仕する先を失った両名は、別の家に出仕していたが、新野左馬介方で養育されていた幼少の直政のもとへしばしば見舞いに訪問していたという。これは、直政が成長した暁には直政の元へ仕えようとしてのことではないだろうか。天正3年、直政が徳川家康のもとへ出仕すると、両名はすぐに直政に仕えている。「貞享異譜」には、正実は直政が龍潭寺にいるころから奉公していた、とあるため、直政が家康に仕えて独り立ちする前から仕えていたかもしれない。正実は江戸時代の職制で言えば側役として仕えており、直政が井伊氏の当主として処遇されることとなって以来、正実は父以来の縁で直政の側に仕えて身の回りの世話をしたと考えられる。
 当時、領主でもある武家のもとには、その家政を支える家人がいた。出陣の際には主君が乗る馬を引き、道具類を調えるなど、その暮らしには欠かせなかった。今村氏は少なくとも2代にわたり、井伊直満・直親・直政の家に家人として仕える関係であった。
 
 慶長7年の分限帳では、正実・正躬ともに400石取である。また、「今村彦九郎」が300石とある。この時出仕して小姓を勤めていた正実の嫡男正盛のことであろう。正実は慶長11年に死去し、正盛は父の知行よりも多い600石を相続している。この600石は正実の遺領に自身の領知から200石を加えたものと考えれば納得できる。 

今村氏の由緒

 『井伊家伝記』では、藤七郎の出自を遠江の名族勝間田氏とし、直親が信州に落ち行く際に苗字を今村と改めたとする。また、直親が信州へ落ち延びる途中、正月元日に藤七郎が吸い物を差し上げて祝った吉例により、今(江戸時代中期)になっても元日の給仕は今村家が勤めると伝える。
 今村氏自身、先祖が勝間田氏であると称しているが、井伊氏に出仕していた時点では侍身分(=領主身分)ではないと考えられる。
 また、正月に吸い物を差し上げる慣例は、江戸時代中期以降の井伊家当主の日常を記した日記類からは確認できなかった。記録されていないところで執り行われている可能性は残されるが、今村氏の由緒書類(「侍中由緒帳」「貞享異譜」など)にも記録はなく、今のところ実行されていた裏付けはとれていない。
 
参考文献
野田浩子『井伊直政 家康筆頭家臣への軌跡』(戎光祥出版、2017年)
 
 典拠史料
『侍中由緒帳』3巻、7巻
「貞享異譜」、「御侍中名寄先祖付帳」(いずれも彦根城博物館所蔵、未刊)
『新修彦根市史』6巻(彦根市、2002年)