彦根歴史研究の部屋

彦根や井伊家の歴史について、これまで発表してきた私見の紹介・補足説明・修正など。

「創り出した」偶然 その2

 前回は、『黒田家文書』の史料集との偶然の出会いについて記しました。
 偶然の出会いについて、もう一つ。

 

 『井伊直政 家康筆頭家臣への軌跡』では、井伊直政が差し出した、あるいは受け取った書状類を何点も写真掲載しました。その中に、ある偶然で見つけた書状があります。

 

 2017年1月、京都大学総合博物館で「日本の表装―紙と絹の文化を支える」という展覧会が開催され、観覧に行きました。この館は、学生時代、学芸員資格を取るための実習をさせていただいた思い出深い博物館です(当時は「京都大学文学部博物館」という名称でしたが)。


 この展覧会は、職務で古文書の保存や修理に携わっていた関係で、非常に興味ある内容でした。担当していた彦根藩井伊家文書の修理を写真パネルで取り上げていただいていたこともあり、寒い時期でしたが足を運びました(もちろんプライベートで)。復職後はじめて、久々の観覧でした。


 展示内容は、古文書修理を担当してそれなりに知識がある身にとっても、非常に教わることの多い展示で、来てよかったと感じて観覧していました。

 このように満足した気持ちで、最後に展示室の中央に置かれたケースを見ていたとき、書状を貼り継いだ文書の中に「井伊侍従殿」という文字を見つけました。
 その文書は、公家の勧修寺家文書の一つで、勧修寺晴豊が差し出した文書の控えなどが、貼り継がれて太く巻かれているものでした。
 さらによく見ると、裏側には差出人名の位置に「井伊」や「直政(花押)」と記されています。つまり、直政から受け取った書状の裏側を使って、晴豊は直政らへ差し出す書状の文言を写し置いていたのでした。のちに、これらの文書は関連文書と一括して貼り継いで巻物に仕立てられますが、その際に紙の高さを調節するため上下は裁断され、署名も一部が切断されています。
 それでも、直政と勧修寺晴豊が交わした実物の書状が現存していたのです。

 

 実は、この文書は展覧会の図録には掲載されていません。図録には勧修寺家文書の修理の歴史を示すという展示意図が示され、別の文書は掲載されています。展示スペースに余裕があったため、後世に貼り継いだ文書の実例を追加して紹介したのでしょうか。いずれにせよ、形状を見せる展示意図であり、直政の部分が開披されたのは偶然と思われます。

 勧修寺家文書は外部の者が容易に閲覧できる状態ではなく、さらに文書名に井伊直政の名は出ていません。さまざまな偶然が重なって、展覧会会場でこの文書を見つけることができました。できるかぎり展覧会へ出向いて原史料に向き合おうと心がけていたからこそ出会えたと感じました。

 

 ここまでなら、いい話で終わるのですが・・・

 

 その後、申請して原史料を閲覧させていただいたところ、この文書の後半には徳川家康井伊直政の口宣案写が含まれており、すでに遠藤珠紀氏が論文で紹介されているものだったことが判明しました。その論文(「徳川家康前半生の叙位任官」『日本歴史』803号)を読み返してみると、井伊直政らへ宛てた時候の挨拶の書状が写されていると明示されていました。

 結局は自分の見落としだったのです。

 今回は展覧会での偶然によりリカバーできましたが、これを肝に銘じて、以後気をつけようと思いました。

 それでも、現物を見なければ紙背文書に気づくことはなかったでしょう。