彦根歴史研究の部屋

彦根や井伊家の歴史について、これまで発表してきた私見の紹介・補足説明・修正など。

井伊直政の肖像画あれこれ

写真のなかった時代の人物は、肖像画が残っているとどんな人だったのかイメージしやすいものです。
でも何種類もあると、どれが本人に近いのだろう?
と思いますよね。

 

井伊直政肖像画は数種類残っています。
よく使われているのは、『井伊直政 家康筆頭家臣への軌跡』の表紙にも使った画像です。

f:id:hikonehistory:20171201172646j:plain

肖像画の上部には賛が記されていますが、これは禅僧の鉄山宗鈍(1532-1617)が書いたもの。家康も帰依した妙心寺派の重鎮なので、直政自身も交流があったはずです。
そのため、描かれた時期は没後まもなくと考えられており、本人の面影をよく伝える肖像画といえるでしょう。


井伊家の菩提寺である清凉寺には、井伊家歴代当主の肖像画があり、もちろん直政画像もあるのですが、ちょうど顔のあたりに損傷があり、残念ながら風貌はわからなくなっています。


一方、「片岡愛之助の歴史捜査」#95では、長松院所蔵の肖像画が何度も使われていました。

f:id:hikonehistory:20171201175238j:plain


長松院(彦根市中央町)は、直政荼毘の地に建てられたお寺です。境内には荼毘の地に

建てられた供養塔がありますが、その前面にはそれを説明する高い石碑が建っています。

f:id:hikonehistory:20171201173215j:plain

その側面には、明治34年(1901)の直政300年祭の際に供養塔を整備したと記されています。旧彦根藩士で内務官僚でもあった西村捨三の筆によるものです。

直政の肖像画もこの300年祭にあわせて制作されました。この頃は、「赤備え」の甲冑を身につけて馬に乗る武者ぶりが直政を象徴する姿だと人々に認識されていたことが窺えます。

 

このほか、彫像も数点現存しています。
最も古いのは、京都の六波羅蜜寺にある木像で、元和9年(1623)に井伊家2代の直孝が創らせたと伝えます。

遠江井伊谷龍潭寺の御霊屋には、共保、直盛とともに直政の木像が祀られています。この直政木像の作成経緯は「井伊家伝記」に記されています。正徳元年(1711)に龍潭寺祖山が井伊家を味方につけて訴訟に勝利した後、井伊家先祖を供養するために井伊直興から寄進を受け、共保と直政の木像や、井伊家歴代の位牌を新たに作成したというものです。

時代が下って文化8年(1811)、井伊直政・直孝(井伊家2代)を祀る「護国殿」が清凉寺内に創られましたが、その中には両者の木像が安置されました。

 

時代が古いほど本人の風貌をよくとらえており、時代が下ってからのものは作成意図を反映しているという特徴が見られます。