彦根歴史研究の部屋

彦根や井伊家の歴史について、これまで発表してきた私見の紹介・補足説明・修正など。

井伊直政が松下家の養子となった理由

大河ドラマ「おんな城主 直虎」では、若き日の井伊直政松下源太郎の養子となって松下家の跡継ぎとなっていたのに、井伊家を復興したい思いから家康へ井伊の名を名乗ることを願ったと描かれていました。

 

数少ない史料のすきまを埋めてドラマ化したのでこうなるのですが、史実はどうなのでしょう。

史料での叙述は、
・「直政公御一代記」
直政は、家康に仕える時、最初は自分のことを牢人の倅と言っていたが、その後井伊直親の子であると述べたので、家康は井伊の名字を名乗ることを許した。

→この史料では、松下の苗字との関係には触れていません。

・「井伊家伝記」
直政は、家康が鷹狩りしていた際に初めて対面して召し抱えられ、浜松城に帰って家康から父祖の由来を述べた。それを聞いた家康が、松下を改めて井伊の家名とするように、また、虎松を改めて万千代とするよう名前を下された。

とあります。

そのほか、松下家の系図にも、直政が松下源太郎の養子として記されており、直政の母が直政を連れて松下源太郎のもとに再嫁したのは間違いないと考えられます。

ではなぜ、直政の母は松下に再嫁したのでしょう。

当時の領主階層では、婚姻とは政治的なつながりのために行われるのが常であったと考えると、この婚姻も政治的な理由があったと考えるのがいいのではないでしょうか。
その理由とは、幼少の直政をかくまって松下のもとに置くこと、そして一人前の武家とするための教育を施すことがあったと考えました。
また、直政にとって松下は義父となるので、直政が一人前になった際には親族として直政を後見する関係となったといえます。

当時、井伊谷周辺は徳川と武田の戦場と化していました。また、今川・北条との関係も不安定な中で、例えば、井伊家跡継ぎの存在が知られたならば人質として奪われる可能性もあるので、その存在を知られないで武家の息子として育てるために、前代より井伊家を支えてきた「7人衆」の1人である松下氏のもとに預けられたのではないでしょうか。

直政が松下屋敷に入った年代は不明です。
「井伊家伝記」では、天正2年12月に直政が父直親の13回忌のために鳳来寺から龍潭寺にやってきたので、その際に直盛正室・次郎法師・直政実母と南渓和尚が相談して、家康に出仕させようと相談して鳳来寺に帰さず松下源太郎の方へ忍ばせたとあります。
そうすると、直政が松下屋敷に入ったのは出仕の2か月ほど前ということになりますが、「井伊家伝記」は南渓和尚の功績をたたえようとする脚色が多く施されているため、この話も史実ではなく逸話としておくのがよいと思います。

家康が井伊谷に進出した永禄11年12月頃、直政は井伊谷から離れた安全な場所に身を隠すために鳳来寺に逃れ、そこで数年間を過ごし、その後松下が養父という関係で後見することになり、母の再嫁という形を取って直政が松下屋敷に入って育てられたと考えられます。
このように考えると、松下は徳川配下に入っていたので、松下の養子となることも家康の了解のもとでおこなわれたのではないでしょうか。

そうすると、松下に入ったのは直政が井伊家当主として出仕する準備のためであり、出仕後、井伊の名を名乗ることになった(家康がそれを認めた)のは当然のことでしょう。

くわしくは、『井伊直政 家康筆頭家臣への軌跡』第1部第1章・第2章をご覧下さい。