彦根歴史研究の部屋

彦根や井伊家の歴史について、これまで発表してきた私見の紹介・補足説明・修正など。

朝鮮人街道の謎に迫る その2 巡礼街道から朝鮮人街道へ

 前回、 朝鮮人街道およびその前身街道は、整備された段階として次の3つに区分できることを示した。

  1. 中世段階(信長による整備以前)
  2. 織田信長による整備
  3. 江戸時代初期の整備

1は、彦根山に築城する以前、霊場として寺院が建ち並んでいた時期に、参詣者が彦根山へ向かった道である。

彦根古図」「彦根御山絵図」などと称される築城以前の彦根周辺を描いた絵図には、彦根山に向かって南側から道が描かれており、「御幸道」などという名称も書き込まれている。

この道が、江戸時代以来、地元で「巡礼街道」と呼ばれる道で間違いないだろう。

 

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巡礼街道

織田信長は、安土城を築いた際、周辺街道も整備した。岐阜と安土をつなぐ街道は、城郭があった佐和山と山崎山を通っているのは確実である。この両山をつなぐルートは、それ以前から巡礼街道が通っていたが、信長はこの道を整備したと思われる。それは、次に述べるとおり、江戸時代には古道(巡礼街道)と新道(朝鮮人街道)の2ルートが通っていたがそれ以外の「第3の道」が存在していた痕跡はなく、信長時代に新道へと付け替える理由も考えられないからである。

信長の時代の佐和山・山崎山間の街道も、旧来と変わらず「巡礼街道」のルートと考えてよいだろう。

 

ところが、江戸時代に入ると途中でルートが変更された。

山崎山から日夏をすぎるまでは古道(=1・2段階の街道)と同一であるが、甘呂村近くで東に進路を変えて、条里地割で8町分東側の道を北上して芹橋につながり、彦根城下へと入る。

 

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巡礼街道(古道)と朝鮮人街道(新道)

この街道は、彦根城下に入ると、城下で宿駅機能をもつ伝馬町へといたる。さらに先へ進むと、城下を貫いて佐和山切通しを越え、鳥居本宿の南端で中山道と合流する。彦根城下でのルート設定は、城下の宿駅を置く位置に関わってくることであり、彦根城下町の都市計画の中で決定されたと考えるのが妥当であろう。

新道(変更後のルート)へと付け替えられた時期は明らかではないが、彦根城下町の町割りは元和8年(1622)までに完成していることから、その時までに変更されたと想定できる。

 

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朝鮮人街道 彦根城下町周辺

要は、古来より、東山道よりも琵琶湖側に通っていた「下街道」は彦根山に向かって延びていたが、江戸時代初期、彦根城築城の一環で彦根山より約4キロメートル手前で東側に折れた新ルートへと付け替えられ、彦根城下町の中を貫いて鳥居本中山道に合流したということである。

 

 

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朝鮮人街道の謎に迫る その1

近江(滋賀県)には、通信使一行が通ったことでその名前がつけられた街道が残っている。野洲市から彦根市にかけて、中山道から分岐してその西側の琵琶湖岸との間を通る「朝鮮人街道」と呼ばれる街道である。他の通信使ゆかりの地には見られず、近江独自のものである。
 (中略)
朝鮮人街道やそこを通った朝鮮通信使について、歴史的にどこまで明らかとなっているのか見直したところ、意外と未解明な点が多いことに気づく。朝鮮人街道のルートは特定されており、徳川家康関ヶ原合戦で勝利したあとに京都へ向かった「吉例の道」に由来すると説明されるのが一般的である。しかし、江戸幕府による全国の交通政策の中で考えた場合、朝鮮人街道はどのように位置づけられるのあろう。また、江戸時代の地元史料からはこの街道を「朝鮮人街道」と呼び習わしていた痕跡は見つけにくい。そもそも、いつから「朝鮮人街道」と呼び習わされるようになったのだろう。朝鮮人街道を歴史に位置づけるためには、これらの基本事項から押さえていく必要があると考える。

   (野田浩子『朝鮮通信使彦根』はじめに より)

 

朝鮮通信使彦根』では、朝鮮人街道は江戸時代初期、幕府によって整備された街道の1つという視点から街道の特質を検討し、これまで明らかとなっていなかった点について考えてみた。

この街道は、整備された段階として次の3つに区分できる。

  1. 中世段階(信長による整備以前)
  2. 織田信長による整備
  3. 江戸時代初期の整備

本論での関心はⅢの成立なので、特にⅡからⅢへの変化について、

  • ルートの変更
  • 整備の時期と目的

の2点から考えた。

 

今回は考え方の提示のみ。詳細は次回にて。

 

 

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『朝鮮通信使と彦根』を刊行しました

このたび、サンライズ出版から、別冊淡海文庫として『朝鮮通信使彦根 記録に残る井伊家のおもてなし』を刊行しました。

是非ともお手にとってご覧ください。

 

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まずは、執筆の視点を紹介します。

朝鮮通信使については、2017年にユネスコ「世界の記憶」に「朝鮮通信使に関する記録」333点が選定されたが、これはゆかりの各地で通信使の歴史を掘り起こそうとする熱意のもと、資料調査や研究が進められた成果といえる。

彦根でも、通信使が朝鮮人街道を通行し、彦根城下の宗安寺で宿泊した歴史は知られているが、他のゆかりの地にくらべて、これまで交流の実態を示す史実の掘り起こしは進んでいるとはいえない。

そこで、彦根藩の歴史を研究してきた立場から、
 ①朝鮮人街道の成立と管理
 ②彦根藩による通信使のもてなし

の2点で彦根と通信使の関係を探ってみたのが本書である。

 

通信使に関する記録は、使節が書き残した道中記録が知られているが、地元でも通信使から受け取った手紙や実務担当者が作成した文書などの新出史料が確認できた。これらを駆使して新事実を明らかにし、彦根における朝鮮通信使の独自性と重要性を示した。

 

みどころの1つは、サブタイトルにもあるとおり、彦根に宿泊した通信使への”おもてなし”である。他にない彦根独自の心をこめたもてなしの実態を示す。このほか、朝鮮人街道の歴史についても新視点を示すことができた。

朝鮮通信使という切り口で、江戸時代彦根の歴史的特質を明らかにした書籍といえる。

 

井伊直政の菩提所 その6 護国殿

 江戸時代後期になると、新たに井伊直政らを祀る施設が彦根に建てられた。彦根藩によって清凉寺の境内に建てられた護国殿である。文化8年(1811)に完成した。

 ここで祀っているのは直政だけではない。中央に徳川家康の神牌が祀られ、その左に直政、右に直孝の木像が置かれた。
 直政・直孝は家康とともに神として祀られたことになる。これにより、直政と直孝の命日には、家臣たちが参詣するようになった。江戸時代後期になると、全国的に先祖を顕彰する意識が高まっており、彦根藩でも直政・直孝という藩祖2代を顕彰しようとして建てられたと考えられている。

 護国殿は、明治初年の神仏分離によって佐和山神社となったが、その後、昭和13年(1938)に井伊神社に合祀された。直政の坐像で井伊神社伝来のものがあるが、これが護国殿で祀られていた像にあたる。


 実は、護国殿の建物は現存している。
 福井県敦賀市にある天満神社の社殿である。空襲で焼失していた社殿に代わり、昭和35年に譲り受けて移築されたものという。

井伊直政の菩提所 その5 井伊谷・龍潭寺

 井伊氏の出身地にある井伊谷静岡県浜松市北区)にある龍潭寺は、戦国時代の井伊氏によって建てられた菩提寺である。龍潭寺という名は、桶狭間で討ち死にした当主井伊直盛院号に由来する。

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井伊谷龍潭寺


 境内の一角に、「井伊氏歴代墓所」が築かれており、井伊氏の元祖とする共保から直政までの墓石が並んでいる。
 また、御霊屋には、共保、直盛とともに直政の坐像が安置され、あわせて井伊家歴代の位牌も祀られている。

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井伊谷龍潭寺にある井伊家歴代墓所とその説明板

 井伊家の菩提寺に祀られているため、これらの井伊家一族は一見すると史実として信用できそうであるが、実はそう簡単なものではない。
 それは、これらは、江戸時代中期の龍潭寺によって創作された歴史観を表現したものといえるからである。

 龍潭寺住持の祖山が著した『井伊家伝記』という歴史書がある。いわゆる「女城主直虎=次郎法師」もここに描かれている。
 しかし、同時代の史料と照らし合わせたところ、一致しないところが多く、『井伊家伝記』が描く歴史観や戦国期井伊家の人物関係は祖山によって創られた箇所が多くあると考えられる。同時代史料に登場する「次郎法師」を直盛の娘と比定したのもその1つで、直盛から直政へと家督継承された説明するには、直盛の血統を継ぐ者が直政の前の当主である必要があったため、そのように創作されたと推測できる。
 
 では、『井伊家伝記』史観はいつ創られたのか。それは、正徳元年(1711)に祖山が井伊共保出生の井戸の管理権を主張して隣村の正楽寺と争い、幕府寺社奉行へ訴訟を起こした際、寺院の由緒を述べる必要が生じたことに端を発する。祖山は、この争論に勝つため、彦根藩・与板藩両井伊家に相談し、幕府へ訴訟することを決め、訴状・証拠書類の作成も両藩士の助力を得た。

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井伊共保出生の井戸

 この時まで、両井伊家では直政以前の井伊家先祖について、「寛永諸家系図伝」に記された程度しか情報を持っておらす、祖山が示す井伊家先祖に関する新しい歴史は、魅力的なものであった。そのため、わからない点は祖山に尋ね、祖山から口頭または文書で回答が出された。次郎法師が直盛の娘であるという説もこの中で初めて登場する。
 この訴訟は、幕府の文書事務に精通した彦根藩士が味方した龍潭寺の勝訴に終わった。『井伊家伝記』によると、訴訟のため江戸にいた祖山は、彦根藩井伊直興に対して先祖を供養するよう勧めると、直興は直政・共保の御影や歴代の位牌を造り、それを納める廟所仮屋・位牌堂を建立するようにとして、費用130両を下賜したという(直盛の御影はすでにあった)。
 引き続き、直興は龍潭寺井伊直親(直政の父)の150回忌法会を執行するようにと指示し、正徳4年には、直興が隠居して彦根へ帰国する道中、井伊谷に立ち寄って龍潭寺へ参詣した。この時も多額の香典を下賜している。

 『井伊家伝記』は、享保15年(1730)に祖山が著したが、その内容は正徳元年の訴訟にあわせて井伊家に述べた由緒に基づいている。もちろん史実と認められる内容もあるが、すでに戦国時代に、井伊家の先祖系図を造る中で、史実と史実の間の不明な点に創作が加えられていた。それを読んだ祖山も、同様の創作を加えて井伊家に由緒を述べていた。さらに祖山は、井伊家断絶の危機にあって、直政へ継承できた背景に龍潭寺の貢献があったというエピソードを『井伊家伝記』に多数盛り込んだ。
 つまり、『井伊家伝記』とは、史実をベースに創作を加えた、歴史小説ともいえるものである。

 龍潭寺の井伊氏歴代墓所は、彦根藩主からの寄進を受け、その先祖供養の意図を受けて整備したものであるが、彦根藩主へ説明したのが『井伊家伝記』史観である以上、その歴史観に基づいて整備されたのは自然な流れといえよう。

井伊直政の菩提所 その4 彦根・清凉寺

 直政の菩提寺として彦根藩によって建てられたのが清凉寺


 城が彦根に移された後、城下町やその周辺を整備した中で、城の北東方向、佐和山の麓に藩祖直政の菩提寺として築いた。寺院の名称は、直政の法号である祥寿院殿清凉泰安居士による。


 清凉寺の開山は、愚明正察。清凉寺は、もともと上野国後閑の長源寺の末寺として創建されたと伝えるが、寛永8年(1631)、当主井伊直孝が正察を招き、寺格が整えられていった。正察は彦根大龍寺(のちの長純寺)の住持となった後、曹洞宗大本山総持寺で綸旨を賜って官僧となっていた人物で、直孝は正察の名声を聞いて清凉寺へ招いた。
 それ以降、彦根における直政や井伊家の菩提寺とされ、ここで各種法要が執り行われた。直政ら歴代の命日には、当主みずからあるいは家臣を代理に立てて、清凉寺へ参詣するのも井伊家当主の日常的な仕事の一つであった。


 井伊家の墓所清凉寺の一角、背面の傾斜地にある。直政の墓石は、墓域の最前面の中央にある。現在は無縫塔形の墓石がそのまま建っているが、江戸時代の絵図には瓦屋根のついた木造の殿舎が描かれており、御霊屋の中に墓石があったことがわかる。無縫塔形の墓石は、一般的に僧侶の墓塔として用いられているが、清凉寺の井伊家当主一族には無縫塔形が多く見られる。それは、直政以来の習わしとして生前に僧籍に入ったためといわれている。

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 江戸時代を通じて、清凉寺は井伊家歴代を祀る公的な寺院であった。直政の墓の周囲には、三代直澄、五代直通、七代直惟、八代直定、十一代直中、十二代直亮といった井伊家歴代当主の墓が並ぶ。原則として、江戸で死去した当主は豪徳寺(東京都世田谷区)で葬り、彦根で死去した当主が清凉寺墓所としている。ただ、三代直澄は江戸で死去しながら遺骸を彦根に運んで清凉寺で葬り、四代直興もみずからの遺志で永源寺東近江市)を墓所とした。
 このように、前期にはまだ原則に沿っておらず、本人の思いによる選択の余地があったようである。

井伊直政の菩提所 その3 京都・六波羅蜜寺

 六波羅蜜寺といえば、京都・東山にあり、空也上人や平清盛の像といった鎌倉時代を代表する有名な彫刻があることでも知られている。通常、これらは同寺内にある宝物館で拝観することができる。実は、宝物館では清盛像に並んで、井伊直政の彫像が置かれている。

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左上が井伊直政坐像(六波羅蜜寺所蔵)

 

 なぜ六波羅蜜寺井伊直政像があるのか、ほとんど知られていないだろう。

  直政と六波羅蜜寺の関係について、京都の地誌類の記述から探っていきたい。

 正徳元年(1711)に刊行された『山州名跡志』には、六波羅蜜寺内の建物等の説明の中で、「祥寿院」が挙げられている。そこには、堂の南に在り、井伊兵部少輔直之の坐像、衣冠四品の装束、を安置する、と記す。直之とあるが、「祥寿院」が直政の院号であり、その装束の記述からみても、これが現存する直政坐像であることは間違いないだろう。江戸時代には、本堂の南に建てられていた祥寿院という建物に直政坐像が安置されていたことがわかる。

 次に、大正年間にまとめられた『京都坊目誌』の記述を見ていく。

 そこには、六波羅蜜寺の「祥寿院霊堂」として次の通り記す。
六波羅蜜寺の境内仏堂なり。曽て井伊直政住職秀誉に帰依す。慶長七年二月卒す。年四十二。法名清凉安泰(ママ)祥寿院と号す。元和九年二男直孝父の冥福を祈らん為め像を作り、堂を建て之に安す。以来明治二年まで、毎年同家より使者を遣し、香華を絶たざりしと云う(割注は省略した)

また、同寺は戦国時代には荒廃していたが、豊臣秀吉の寄進による諸堂再建のあと、元和元年に井伊家によって鐘楼が建てられたことで寺観が旧に復したとも記される。『京都坊目誌』には鐘の銘文が写されており、そこには、「大檀越井伊直政の孝子が高閣を築いた」とある。鐘銘の日付は元和九年中春である。

 

 このように、直政が六波羅蜜寺の住職に帰依していた縁で、直政の跡を継承した直孝によって元和9年(1623)に直政像を安置する祥寿院と鐘楼が建てられ、江戸時代を通じて井伊家から寄進を受け、直政の供養を続けていたことがわかる。

  直政は、豊臣政権時代、徳川家の重臣として何度も京都に出てきて、京都の諸勢力と広く交際した。六波羅蜜寺の住職もその一人だったのであろう。

  

 現在、本堂の南、弁財天を祀っている堂には「祥寿院」の扁額が今も掛っている。つまり、この堂がかつての祥寿院の建物であり、この堂内に直政坐像が祀られていたと考えられる。

 

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六波羅蜜寺 弁財天堂(旧祥寿院)

 

 それにしても、戦国武将の多くが京都で菩提所としたのが大徳寺など禅宗寺院であったことを考えると、六波羅蜜寺というのは異色に思われる。直政の交友関係は広かったので、あえてここを選んだのは建てた直孝の意向が強いかもしれない。

 この周辺が、平氏政権の拠点となった六波羅館鎌倉幕府六波羅探題の跡地であり、かつての武家政権の京都における拠点があった地ということを直孝は意識していたと思えてならない。