井伊直政家臣列伝 その12 今村正実・正躬 ~父祖以来の家人~
今村正実・正躬兄弟も、最初期からの直政家臣である。直政の初陣とされる芝原の陣から御供していたと伝える。
両名の父である今村藤七郎は、直政の父直親の少年期にその傍にいた人物として『井伊家伝記』で描かれている。
『井伊家伝記』では、天文13年、直親の父直満が井伊家家老小野和泉守との確執により命を奪われると、直親も同様に命を狙われたため、今村藤七郎が直親を連れて信州市田へ身を隠したとする。つまり、藤七郎は直満の家に仕える家人であり、直親の亡命に同行して身の回りの世話をしていた人物であったことがわかる。
『井伊家伝記』では、天文13年、直親の父直満が井伊家家老小野和泉守との確執により命を奪われると、直親も同様に命を狙われたため、今村藤七郎が直親を連れて信州市田へ身を隠したとする。つまり、藤七郎は直満の家に仕える家人であり、直親の亡命に同行して身の回りの世話をしていた人物であったことがわかる。
正実・正躬の直政への出仕
年代的に考えて、藤七郎は少年の直親を守る年長者であり、正実・正躬兄弟は直親と同世代に近かったと思われる。そのため、正実・正躬も直親に仕えていた可能性が高い。直親の死去により出仕する先を失った両名は、別の家に出仕していたが、新野左馬介方で養育されていた幼少の直政のもとへしばしば見舞いに訪問していたという。これは、直政が成長した暁には直政の元へ仕えようとしてのことではないだろうか。天正3年、直政が徳川家康のもとへ出仕すると、両名はすぐに直政に仕えている。「貞享異譜」には、正実は直政が龍潭寺にいるころから奉公していた、とあるため、直政が家康に仕えて独り立ちする前から仕えていたかもしれない。正実は江戸時代の職制で言えば側役として仕えており、直政が井伊氏の当主として処遇されることとなって以来、正実は父以来の縁で直政の側に仕えて身の回りの世話をしたと考えられる。
当時、領主でもある武家のもとには、その家政を支える家人がいた。出陣の際には主君が乗る馬を引き、道具類を調えるなど、その暮らしには欠かせなかった。今村氏は少なくとも2代にわたり、井伊直満・直親・直政の家に家人として仕える関係であった。
当時、領主でもある武家のもとには、その家政を支える家人がいた。出陣の際には主君が乗る馬を引き、道具類を調えるなど、その暮らしには欠かせなかった。今村氏は少なくとも2代にわたり、井伊直満・直親・直政の家に家人として仕える関係であった。
慶長7年の分限帳では、正実・正躬ともに400石取である。また、「今村彦九郎」が300石とある。この時出仕して小姓を勤めていた正実の嫡男正盛のことであろう。正実は慶長11年に死去し、正盛は父の知行よりも多い600石を相続している。この600石は正実の遺領に自身の領知から200石を加えたものと考えれば納得できる。
今村氏の由緒
今村氏自身、先祖が勝間田氏であると称しているが、井伊氏に出仕していた時点では侍身分(=領主身分)ではないと考えられる。
また、正月に吸い物を差し上げる慣例は、江戸時代中期以降の井伊家当主の日常を記した日記類からは確認できなかった。記録されていないところで執り行われている可能性は残されるが、今村氏の由緒書類(「侍中由緒帳」「貞享異譜」など)にも記録はなく、今のところ実行されていた裏付けはとれていない。
また、正月に吸い物を差し上げる慣例は、江戸時代中期以降の井伊家当主の日常を記した日記類からは確認できなかった。記録されていないところで執り行われている可能性は残されるが、今村氏の由緒書類(「侍中由緒帳」「貞享異譜」など)にも記録はなく、今のところ実行されていた裏付けはとれていない。