彦根歴史研究の部屋

彦根や井伊家の歴史について、これまで発表してきた私見の紹介・補足説明・修正など。

井伊直政家臣列伝 その10 酒居忠常 ~もう一人の従兄弟~ 

 前回の奥山朝忠が直政にとって母方の従兄弟であったのに対し、父方の従兄弟も直政の側近くにいた。酒井忠常である。

 
  忠常は酒井大膳亮忠敏と井伊直満の娘を父母にもつ。つまり、直政の父直親と忠常の母親が兄妹であり、直政と忠常は従兄弟という関係にあった。
 「貞享異譜」には、酒井氏は遠江の出身で井伊家の「御一家筋」と記しており、酒井氏が井伊氏の親族という関係にあると当時から認識されていた。その具体的な関係については、由緒書類には記されていない。ただし、幕末に長野義言が遠江へ史料採訪に行って集めた中に、
 ・井伊直平の再内室が「遠江初倉住人酒井但馬守忠雄女」  
 ・奥山村に伝わった井伊氏系図に、井伊直親の弟直方は駿河へ養子に行き酒井三郎右衛門を称する、と記す
とある。別の史料には直方は直満の弟ともあり、詳細は不正確かもしれないが、
 ・酒井氏は井伊氏と婚姻関係を重ねている一族であった
 ・酒井氏の出身地として遠江初倉(静岡県島田市)という説がある
という程度なら間違いないだろう。
 
 忠常は、天正7年(1579)に井伊谷にて「当分御客分」として直政のもとに召し寄せられ、天龍河原の陣以降、直政の出馬に御供したという。直政が家康に召し出されたのが天正3年のことであり、比較的早い段階から直政の配下にあった一人である。もう一人の直政従兄弟の奥山朝忠も当初、客分として直政配下に入っており、朝忠と忠常は直政のもとで同様の立場にあったと思われる。忠常は寛永10年(1633)に死去するまで井伊家に仕え、直政、直継、直孝の三代にわたり定奥詰役を務めた(「貞享異譜」)。
 
 直政が徳川へ出仕して数年以内の頃に酒井三郎右衛門へ宛てた書状がある。現物は確認できないが、明治時代には彦根藩士酒居氏が所蔵していたもので、写しが伝わる(井伊直政 家康筆頭家臣への軌跡』に本文を掲載)。そこには、「私は親の親類が一人もいないので、内々に頼み入る覚悟です」とある。井伊氏の中に頼れる親族が少ないため、親族である酒井氏を頼りにしていたことがうかがえる。
 
 忠常と同時期に直政に仕えた人物として酒井又左衛門忠政がいる。父は美作守忠員という。忠常との関係は明示されていないが、父同士が兄弟であろうか。近い親族で政治的な行動を共にし、一緒に直政配下に入ったと思われる。
 
 慶長7年(1602)の分限帳では、酒居三郎兵衛(忠常)が300石取、酒居又左衛門(忠政)が250石取、そのほか酒居右衛門次と酒居三郎右衛門がそれぞれ200石取として名が挙がっている。なお、苗字の漢字を「酒居」と改めているが、これは井伊家の苗字にある「井」の字を使うことを憚ったためである。
 
参考文献
野田浩子『井伊直政 家康筆頭家臣への軌跡』(戎光祥出版、2017年)
 
 典拠史料
『侍中由緒帳』4巻、13巻
「貞享異譜」(彦根城博物館所蔵、未刊)
『新修彦根市史』6巻(彦根市、2002年)