彦根歴史研究の部屋

彦根や井伊家の歴史について、これまで発表してきた私見の紹介・補足説明・修正など。

朝鮮人街道の謎に迫る その3 整備の経緯 

 

  前回、朝鮮人街道は下街道(巡礼街道、信長の整備した佐和山城から安土城へ向かう街道)をもとに、江戸時代初期に整備されたことを示した。

 今回は、江戸時代初期に整備された経緯を考える。

 

 これを考えはじめたきっかけは、慶長12年(1607)の第1回通信使の時点では、彦根城下町や朝鮮人街道はどの程度整備されていたのだろう? という疑問であった。当時、彦根城は築城工事中で、慶長12年の早い段階で公儀普請は完了したと考えられているが、第1回通信使を迎える前にどの程度の宿泊施設が整備されていたのかを考えてみた。


 調べはじめると、慶長10年に上洛した徳川秀忠一行が「佐和山」に宿泊していたが、このことは彦根築城の歴史においてこれまであまり注目されてこなかったことに気づいた。しかもこの上洛は秀忠が将軍宣下を受けて将軍となるためのものであり、大人数で上洛している。幕府の成立にとって重要な意味をもつ大がかりな儀礼的行為でもあり、事前に街道や宿泊場所が整えられた。

 秀忠の宿泊場所を「佐和山」と記すのは「慶長見聞録案紙」という史料で、この史料は全体的に秀忠の動向が比較的詳細に記されている。そこに「佐和山」と記してあっても、廃城となった佐和山城のこととは限らない。江戸の将軍周辺にいる人々にとって、彦根という地名はまだなじみ薄く、引き続きこの史料では井伊家を「佐和山城主」と記していたからである。
 また、彦根城の工事では、周辺の廃城から石材などが集められたという伝承があり、実際に佐和山城跡には石垣がほとんど残っていない。そのように考えれば、慶長10年の秀忠上洛で宿泊したのは佐和山城ではなく、築城工事中の彦根城であろう。また、慶長9年10月に大久保長安彦根にやってきて築城工事の進捗状況を見分したのも、秀忠上洛の準備のためと考えられる。

 そうであれば、秀忠が宿泊する御殿に加え、多くの随行者の宿泊所が必要となり、急ぎ彦根城下町に宿泊施設が設営されたと考えられる。同時に、彦根からの上洛道も整備されたことであろう。

 

 一方、第1回通信使の通行ルートはいつ決定したのであろう。
 第1回の通信使は、朝鮮からの外交使節が江戸へ向かう初めての機会であり、どのルートを通るか事前に確定していたわけではなかった。使節は途中、京都に20日以上も滞在しているが、これは京都所司代板倉勝重が通信使の処遇について江戸へ問い合わせをして回答を待っていたためである。その回答の中に、通信使が江戸へ向かうルートが指定されていたことであろう。幕府の意向により、一行は将軍上洛道を通って彦根城下町に宿泊するルートを通り江戸へ向かった。
 これを先例とし、次回以降の通信使でも同じルートを通行したため、通信使の通行ルートが確定することとなったのである。

 

 徳川将軍の上洛は寛永11年(1634)を最後として幕末まで途絶えてしまう。そのため、将軍上洛道を通る最大のイベントが朝鮮通信使となり、人々にもその記憶が残ることとなった。

 

 なお、彦根周辺での下街道の新道(江戸時代の朝鮮人街道)への付け替えについて、第1回通信使の時点ですでに行なわれていたかどうかは明らかではない。少なくとも慶長10年の秀忠上洛では、宿泊所などの整備を最優先としたはずなので、新道を敷設する余裕はなかったと思われ、すでにある旧道(巡礼街道)を通行した可能性が高い。元和元年から8年の城下町整備工事に際して、伝馬町の設置とともに城下へ引き入れる街道も敷設されたのではないだろうか。

 

 

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朝鮮人街道 彦根城下町周辺

 

 

 

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