彦根歴史研究の部屋

彦根や井伊家の歴史について、これまで発表してきた私見の紹介・補足説明・修正など。

井伊直政の菩提所 その4 彦根・清凉寺

 直政の菩提寺として彦根藩によって建てられたのが清凉寺


 城が彦根に移された後、城下町やその周辺を整備した中で、城の北東方向、佐和山の麓に藩祖直政の菩提寺として築いた。寺院の名称は、直政の法号である祥寿院殿清凉泰安居士による。


 清凉寺の開山は、愚明正察。清凉寺は、もともと上野国後閑の長源寺の末寺として創建されたと伝えるが、寛永8年(1631)、当主井伊直孝が正察を招き、寺格が整えられていった。正察は彦根大龍寺(のちの長純寺)の住持となった後、曹洞宗大本山総持寺で綸旨を賜って官僧となっていた人物で、直孝は正察の名声を聞いて清凉寺へ招いた。
 それ以降、彦根における直政や井伊家の菩提寺とされ、ここで各種法要が執り行われた。直政ら歴代の命日には、当主みずからあるいは家臣を代理に立てて、清凉寺へ参詣するのも井伊家当主の日常的な仕事の一つであった。


 井伊家の墓所清凉寺の一角、背面の傾斜地にある。直政の墓石は、墓域の最前面の中央にある。現在は無縫塔形の墓石がそのまま建っているが、江戸時代の絵図には瓦屋根のついた木造の殿舎が描かれており、御霊屋の中に墓石があったことがわかる。無縫塔形の墓石は、一般的に僧侶の墓塔として用いられているが、清凉寺の井伊家当主一族には無縫塔形が多く見られる。それは、直政以来の習わしとして生前に僧籍に入ったためといわれている。

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 江戸時代を通じて、清凉寺は井伊家歴代を祀る公的な寺院であった。直政の墓の周囲には、三代直澄、五代直通、七代直惟、八代直定、十一代直中、十二代直亮といった井伊家歴代当主の墓が並ぶ。原則として、江戸で死去した当主は豪徳寺(東京都世田谷区)で葬り、彦根で死去した当主が清凉寺墓所としている。ただ、三代直澄は江戸で死去しながら遺骸を彦根に運んで清凉寺で葬り、四代直興もみずからの遺志で永源寺東近江市)を墓所とした。
 このように、前期にはまだ原則に沿っておらず、本人の思いによる選択の余地があったようである。