彦根歴史研究の部屋

彦根や井伊家の歴史について、これまで発表してきた私見の紹介・補足説明・修正など。

井伊直政の菩提所 その3 京都・六波羅蜜寺

 六波羅蜜寺といえば、京都・東山にあり、空也上人や平清盛の像といった鎌倉時代を代表する有名な彫刻があることでも知られている。通常、これらは同寺内にある宝物館で拝観することができる。実は、宝物館では清盛像に並んで、井伊直政の彫像が置かれている。

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左上が井伊直政坐像(六波羅蜜寺所蔵)

 

 なぜ六波羅蜜寺井伊直政像があるのか、ほとんど知られていないだろう。

  直政と六波羅蜜寺の関係について、京都の地誌類の記述から探っていきたい。

 正徳元年(1711)に刊行された『山州名跡志』には、六波羅蜜寺内の建物等の説明の中で、「祥寿院」が挙げられている。そこには、堂の南に在り、井伊兵部少輔直之の坐像、衣冠四品の装束、を安置する、と記す。直之とあるが、「祥寿院」が直政の院号であり、その装束の記述からみても、これが現存する直政坐像であることは間違いないだろう。江戸時代には、本堂の南に建てられていた祥寿院という建物に直政坐像が安置されていたことがわかる。

 次に、大正年間にまとめられた『京都坊目誌』の記述を見ていく。

 そこには、六波羅蜜寺の「祥寿院霊堂」として次の通り記す。
六波羅蜜寺の境内仏堂なり。曽て井伊直政住職秀誉に帰依す。慶長七年二月卒す。年四十二。法名清凉安泰(ママ)祥寿院と号す。元和九年二男直孝父の冥福を祈らん為め像を作り、堂を建て之に安す。以来明治二年まで、毎年同家より使者を遣し、香華を絶たざりしと云う(割注は省略した)

また、同寺は戦国時代には荒廃していたが、豊臣秀吉の寄進による諸堂再建のあと、元和元年に井伊家によって鐘楼が建てられたことで寺観が旧に復したとも記される。『京都坊目誌』には鐘の銘文が写されており、そこには、「大檀越井伊直政の孝子が高閣を築いた」とある。鐘銘の日付は元和九年中春である。

 

 このように、直政が六波羅蜜寺の住職に帰依していた縁で、直政の跡を継承した直孝によって元和9年(1623)に直政像を安置する祥寿院と鐘楼が建てられ、江戸時代を通じて井伊家から寄進を受け、直政の供養を続けていたことがわかる。

  直政は、豊臣政権時代、徳川家の重臣として何度も京都に出てきて、京都の諸勢力と広く交際した。六波羅蜜寺の住職もその一人だったのであろう。

  

 現在、本堂の南、弁財天を祀っている堂には「祥寿院」の扁額が今も掛っている。つまり、この堂がかつての祥寿院の建物であり、この堂内に直政坐像が祀られていたと考えられる。

 

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六波羅蜜寺 弁財天堂(旧祥寿院)

 

 それにしても、戦国武将の多くが京都で菩提所としたのが大徳寺など禅宗寺院であったことを考えると、六波羅蜜寺というのは異色に思われる。直政の交友関係は広かったので、あえてここを選んだのは建てた直孝の意向が強いかもしれない。

 この周辺が、平氏政権の拠点となった六波羅館鎌倉幕府六波羅探題の跡地であり、かつての武家政権の京都における拠点があった地ということを直孝は意識していたと思えてならない。