彦根歴史研究の部屋

彦根や井伊家の歴史について、これまで発表してきた私見の紹介・補足説明・修正など。

史料に登場する井伊直政の足跡 第2回直政初陣の地「芝原」

「史料に登場する井伊直政の足跡」第2弾です。

今回は、直政初陣の「芝原合戦」の地を探します。

 

 直政の初陣は、天正4年(1576)のことで、芝原合戦とされているのは『井伊直政 家康筆頭家臣の軌跡』でも触れた。
「井伊家伝記」や「井伊年譜」には、芝原合戦の最中、家康が陣営で休息していたところ、夜中に敵の間諜(スパイ)が忍び込んできたのを直政が見つけて討ち取り、褒美として領地が加増されたとする。
 そこで、芝原は現在のどこにあたるのかを探してみたが、地名辞典を見ても芝原という地名は出てこない。

 この頃の戦況から、おおよその場所は絞り込める。
 この頃、徳川家康は甲斐の武田勝頼と対立していた。武田は信玄の頃に三河遠江にまで進出していたが、天正3年の長篠合戦に敗れる。それでも遠江高天神城は死守していたので、家康は高天神城を奪おうとして、周辺に城を築いて取り囲んで孤立させようとした。武田方はたびたび遠江に出陣し、それを聞いた徳川方も応戦しようと出陣している。
 天正4年春、武田方は高天神城に兵糧を入れようとして勝頼みずから出陣して高天神城に入った。それを聞いた家康は、高天神城から約6㎞西の横須賀城に出陣し、その後、横須賀城から4・5町北の丸山に陣を敷いた。すると、勝頼はそれ以上兵を進められず退いたので、家康は芝原に兵を移したという。
 
 このように考えると、芝原は高天神城の周辺に位置するはずだが、現行地名からは特定できない。芝原という地名は、江戸時代に著された「御年譜」「浜松御在城記」「武徳編年集成」などに登場するため、井伊家だけが誤記・誤認したわけではなさそうである。この周辺には、笠原荘という平安時代からの荘園が菊川の河口周辺にあり、武田が浜側から高天神に入ったルート上に位置する。そのため、笠原が芝原に誤認された可能性も考えられるが、思いつきの域を超えるものではない。

 

 

 

 なお、直政の初陣が芝原合戦であったかどうかは、より詳細に検討しなければならない。別の説も存在しているからである。
 天正6年3月、これも武田勝頼に対するため、家康が駿河田中城を攻撃したのが直政の初陣で、この時菅沼定政が初召の鎧を着けさせたという逸話が「大三川志」「武徳編年集成」に記されている。
 
 どちらが真実かを探るのは困難だろう。それよりも、後世になって直政の功績をまとめ、顕彰しようとする中で、初陣での活躍が加えられたと考える方がいいのではないか。天正4年の芝原合戦での初陣というのも、直政は天正3年に家康に出仕しているので、出仕後はじめて家康が出陣した芝原合戦で直政が活躍したというエピソードが付け加えられたのかもしれない。

 他にも合戦での活躍エピソードが加えられた可能性が高いものがある。『寛政重修諸家譜』には、天正9年に高天神城を攻め落とした際、直政が間諜(スパイ)をもって用水を切り落としたので速やかに落城した、また、大手坂内にある与左衛門曲輪において功績をあげた、とあるが、この話は江戸時代初期以来の直政の系譜・事績書には見当たらず、享和元年(1800)、彦根藩が幕府へ提出した「井伊家系譜」に初めて出てくる。この高天神合戦は徳川にとって大事な戦いであり、いくつもの記録があるが、それらにはこの直政のエピソードは記されていない。

 

 天正9年に高天神城を勝ち取るまで、家康は武田に対して臨戦態勢で臨んでおり、家康は何度も出陣し、直政もそれに御供したのは確かだろう。何らかの功績を挙げて褒美をもらったこともあっただろう。ただ、江戸時代には、家康をはじめ武将たちの活躍は史実をベースとしながら創作を加えた軍記物が多く創られ、流布している。そういった物語が系譜のなかに取り込まれた可能性が高い。

 華々しい活躍ほど、「歴史小説」と見た方がいいのかもしれない。

 

 

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 高天神城

 

 

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横須賀城