彦根歴史研究の部屋

彦根や井伊家の歴史について、これまで発表してきた私見の紹介・補足説明・修正など。

井伊直政家臣列伝 その19 河手良則 ~直政の義兄~

 直政と親戚関係を築いて井伊家の重臣となった人物に河手良則がいる。良則は直政の姉を妻とした。

 

河手氏の出自
 河手良則の出身は三河国武節(愛知県豊田市)で、その近くの河手(江戸時代の村名は川手村)が苗字の由来の地である。

 河手氏の先祖は山田氏、設楽氏、武節氏とも名乗っており、良則の父の時代には武節城や河手城(川手城)を本拠としていた。武節や河手は奥三河の山間部に位置し、美濃・信濃との国境に近い。

 

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 河手氏の系図によると、良則の父は山田新治郎景隆とする。河手の地内八幡神社は山田氏の勧請といい、天文22年(1553)の年紀を持つ同社所蔵の鰐口銘に「新次郎景隆」とある。これが良則の父であることは間違いないだろう。

 なお、『戦国遺文 今川氏編』や『戦国人名辞典』(吉川弘文館)などには、この頃三河にいた人物として山田景隆が記される。但し、この景隆は今川家臣で、その通称は新右衛門である。三河武士の今川への逆心が見つかるとその弟へ跡職を申し渡す旨を伝えるなど、その行動を見る限り三河支配にたずさわった今川方の人物といえる。また、家康が今川配下にいる間、岡崎城代を務めていたともいう。桶狭間の戦いの際には参陣しており、今川義元戦死の知らせを受けると、自軍の者が敗走する中、景隆は馬を返して敵へ向かい、討死したという。これらの履歴を比較すると、良則の父とは同名であるが別人と判断できる。
 
 良則の祖父義尭は、山田又四郎、のち河手主水助と称したという。松平清康(家康の祖父)の配下にあり、享禄2年(1529)の吉田城攻めで一番に城中に攻め入ったとして清康から山田又四郎へ下された感状の写しが「河手家略系譜」に記されている。

 景隆の時代の三河は今川の領国となっており、景隆も今川配下にあったが、永禄3年(1560)の桶狭間の戦いの後、情勢が一変する。

 「河手家略系譜」によると、甲州の武田氏が押し寄せてきたため、景隆は両城を守ることは難しいと判断して武節城を自焼して河手城に入るが、松平からの加勢は来ず、結局降参して武田方へ城を明け渡すことを決断する。息子の良則と正興は武田へ降参し、景隆自身は三男太郎とともに脱出して信州立野に籠もった。「河手家略系譜」には、河手文左衛門(良則)・余一(正興)兄弟に宛てた武田信玄からの本領安堵状の写しが記されており、その日付は永禄3年10月13日とある。しかしこの頃武田氏が三河まで出陣したことは確認できない。武田氏は永禄11年の駿河侵攻に成功すると、元亀元年(1570)から三河遠江へと出兵している。二俣城を落城させ、奥平氏をはじめ東三河の国衆を配下に入れた。このような状況をふまえると、武節城や河手城が武田氏の攻撃を受けて落城し、河手氏が武田配下に降ったのも元亀年間のことではないだろうか。

 いずれにせよ、良則とその弟は一時期武田氏の配下にあった。良則は山県昌景配下、弟の正興は穴山氏の配下に属したという。

 

徳川配下への帰属
 一時は武田に降参した良則がいつ徳川家康のもとに入ったのであろうか、その時期には史料により諸説ある。

 「河手家略系譜」には、天正元年(1573)に徳川信康の軍勢が武節を攻めたため城を開いて徳川方に降り、息子を人質に出したという。
 「貞享異譜」には、天正5年に良則が家康に召し出されて小姓を勤めたとする。
 「侍中由緒帳」では天目山で武田勝頼が没落して以降とあり、天正10年の武田氏滅亡後のこととする。

 奥三河の国衆の動向を見ると、いったんは武田の軍事力によりその配下に降ったが、天正元年、武田信玄の死去を察知した奥平貞能が家康方についたことで奥三河が徳川と武田の対峙する最前線となり、天正3年の長篠の合戦に勝利したことで徳川が三河を勢力下におさめた。良則が徳川方へ入った年次を特定することは難しいが、このような奥三河全体の動向の中にあったと考えるのがよいだろう。

 

井伊家中での良則
 良則は直政の姉である高瀬を妻とすることで直政と親戚関係を結んだ。良則にはすでに息子良次がおり、先妻は死去していた。そのような良則に直政の姉を後妻として嫁がせたのは、当時の武家の婚姻で一般的であったように、政治的な結びつきのためと判断できる。

 婚姻の年代は不明であるが、直政にとって義兄であったから家老になったというよりも、直政配下に付属させようという方針が先にあって姻戚関係を結んだのではないだろうか。

 徳川家臣の中で井伊氏を選んだのは、一つには地域性が配慮されたと考えられる。直政配下には、国衆井伊氏とつながりの深かった遠江から東三河の国衆を付属させている。新たに徳川家臣となった者を組織化して直政をそのトップに据えたともいえる。そのような構想のもとで良則を井伊配下に入れることを考えたのではないだろうか。他の直政重臣も直政親族と婚姻関係を結んでおり、良則と直政姉との婚姻もその一環といえる。

 良則は、長久手陣から出陣し、小田原陣、九戸陣にも御供したという。長久手陣は井伊隊全軍が出陣した初陣でもあり、その時から良則は井伊隊に属していたことがわかる。直政が箕輪城主となると、良則は50騎の士組を預けられ、家老役を務め、最終的に4000石を下された。また、関ヶ原合戦の際には高齢のため出陣せず、高崎城の留守を守る城代を務めている。

 良則は、井伊家が佐和山に入ってまもなくの慶長6年(1601)8月に死去している。翌年死去した直政を火葬した跡に建てられた長松院(彦根市中央町)には良則の位牌も祀られている。佐和山からみて芹川の先にあり、「彼岸」にあたるこの地で良則も葬られ、供養されたのであろう。

 

大坂夏の陣で討死した河手良行
 良則には息子良次がいたが、直政の姉との間に娘が生まれ、松平石見守康安の三男成次(河手家の養子となって良行と名乗る)を娘婿として良則の跡継ぎとし、良次は二男の扱いとされた。

 良則が死去すると、その跡式は良行が継承した。家老、50騎の士大将を務め、4000石を下された。慶長7年の分限帳にも「4000石 川手主水」と記される。鈴木重好に次いで井伊家家臣中2番目に多い知行高である。

 良行は大坂の陣で士大将として出陣する。その陣立では、冬の陣では跡備え、夏の陣では先備えとされた。夏の陣で井伊家が敵方と対戦して戦果を挙げたのは、慶長20年5月6日の若江合戦である。大坂方の大将木村重成を討ち取って大坂方へダメージを与え、翌日の総攻撃につながる重要な戦いであった。この戦いで、先手大将である良行は討死した。圧倒的に味方有利で討死した者も少ない戦いであった中、士大将が討死したのは、良行がここで討死しようと思い詰めていたからという。

 「井伊年譜」では「子細あり」として具体的な理由を示さないが、「河手家略系譜」では、冬の陣で跡備えに置かれたことの遺恨があったとする。冬の陣で跡備えとなった良行は先陣を賜わることを直孝に願い出たが聞き入れられなかった。12月4日の合戦では、木俣隊が軍法を犯して城攻めしたにもかかわらず、傷を負った士大将木俣守安が直孝から慰労されたのに対し、自分は軍法を守って出陣せず武功をたてる機会も得られず無念であり、城に乗り込んで死を遂げようとするが、結局慰撫されてその場は収まった。冬の陣でのこのようなやりとりがあったため、良行は夏の陣で討死すると決意を固めた。事前に実父と兄に暇乞いして戦いに臨み、敵と対峙すると一番に乗り出して堤上に乗り上がり、鎗を取って敵方に突きかかり最期を遂げたという。

  このとき嫡子良富はまだ5歳であったが、父の跡式3000石を賜わって家を継承した。ところが、良富は寛永5年、18歳のときに死去してしまう。そのため、無嗣断絶となり、河手家の嫡流は途絶えることとなった。

 このように、河手家は井伊家にとって由緒ある重臣の家であるとして、幕末になり再興されている。先に新野家を再興していた新野左馬助親良(藩主井伊直中の男子)の二男が河手家を再興し、主水と称した。禁門の変の際の京都守衛、長州戦争、戊辰戦争彦根藩の出兵が続く中、士組を率いて出陣している。

 

河手諸家
 良則の長男である良次は、父とともに井伊家に仕え、長久手合戦から天正19年の九戸陣まで出陣したが、娘婿(良行)迎えて父の跡継ぎとすることになったことに伴い井伊家を離れた。武節の苗字を名乗って京極高知へと仕官したが、慶長6年に父の元に呼び戻されている。同年に良則が死去しているため、それと連動してのことであろう。大坂陣には鎗奉行として出陣し、帰陣後旗奉行、家老役となったという。家老となったのは、大坂夏の陣で討死した良行の代わりと考えられる。知行高は「侍中由緒帳」と「貞享異譜」で異なるが、最終的に2500石であったことは一致する。寛永6年10月に死去するまで務めた。

 良次の跡は、嫡男衞士之介良矩に1000石、その弟3人に200石ずつ分知された。しかし嫡男良矩は藩主に背いて高取藩主植村出羽守家政のもとへ出奔したという。二男平兵衛良真は着到役などを務めたが、病気につき知行を返上して愛知郡湯屋村に蟄居して家名断絶したという。三男七左衛門良実の家は代々彦根藩士として仕えていたが、天保7年、良則から数えて12代目の鉚太郎の時に扶持を取り上げられ断絶した。

 それに対し、四男文左衛門良雄の家はつつがなく継続されている。さらに、文左衛門家に加え、良雄の二男が分家した藤兵衛家、藤兵衛二男が分家した藤十郎家と、良雄の子孫は三家にわかれて幕末まで継承された。

 良次の五男である四方左衛門は、曽我四方左衛門の養子となってその跡を継いだが、その後苗字を実父方の河手へと改めている。良次の知行を分知されたわけではないが、改名したことで河手一族と処遇された。

 四方左衛門家を河手一族としたことや、良雄の子孫に分知させたのは、主水家、良次の嫡男と次男の三家が断絶したため、その代わりとしたと理解できる。

 また、良則の甥(弟正興の息子)内記正武も井伊家に仕えている。良則を頼り、箕輪で召し出されたという。慶長7年の分限帳では、「100石 川手内記」と記されるが、慶長12年の分限帳では500石取で足軽大将と記される。大坂冬の陣の陣立でも20人の鉄砲足軽大将と記される。正武の跡継ぎには宇津木久豊の弟を養子に迎えたが、岡本宣就の嫡子宣隆と騒動を起こして家名断絶となった。

 
   
 参考文献
野田浩子『井伊直政 家康筆頭家臣への軌跡』(戎光祥出版、2017年)

 『愛知県の地名』(平凡社

 

 典拠史料
「河手家略系譜」(尊経閣文庫蔵)
『侍中由緒帳』3巻、5巻
「侍中由緒帳」「貞享異譜」「井伊年譜」彦根城博物館所蔵、いずれも未刊)
『戦国遺文 今川氏編』2巻
『新修彦根市史』6巻