彦根歴史研究の部屋

彦根や井伊家の歴史について、これまで発表してきた私見の紹介・補足説明・修正など。

井伊直政家臣列伝 その18 椋原正直 ~もう一人の付家老~ 

 椋原正直は、木俣守勝・西郷正員とともに徳川家康から井伊直政へ付けられた重臣である。ただし、木俣家と西郷家が江戸時代を通じて井伊家の家老を務めたのに対し、椋原はそこまでの活躍が見られず、影の薄い家といえる。そこには理由があった。
 
椋原正直の出自と履歴
 椋原氏や正直個人の出自・履歴について詳細に記されたものは見当たらず、詳しくはわからない。遠江出身と記す史料もあるが、「貞享異譜」にあるとおり三河出身と考えられる。三河に椋原という地名があり、そこの出身と考えるのが自然であろう。
 江戸時代には三河国知多郡に椋原村があった。近代になると隣村の角岡村と合併して椋岡村となり、現在も阿久比町椋岡という地名が残っている。
 

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 「貞享異譜」によると、正直は幼年より岡崎で家康に仕え、側役であったという。天正10年(1582)、直政が新たな部隊を創設するにあたり、家康が直政付きとした。直政家臣団のもとで、正直は筋奉行を務め、その後家老加判、旗奉行を務めたという。天正18年の小田原の陣では「格別之大働」をして加増を受けたと記す。このように、統治、軍事のいずれもで活躍がみられる。家康が見込んで直政に付けただけのことはあり、有能だったのは間違いないだろう。
 正直は慶長3年(1598)には隠居し、慶長5年の関ヶ原合戦の時には高崎で留守を守る。その跡を継いだのは2代目の正長で、正直の知行3500石と家老加判の役職を継承し、翌年には35騎の侍大将も仰せ付けられて関ヶ原合戦に出陣したという(「貞享異譜」)。
 これを読む限り、井伊直政が死去した慶長7年時点では、正長が家老であったと考えられる。ただ、慶長7年の分限帳や慶長10年の家中騒動時の文書では「椋原対馬」が登場する。「侍中由緒帳」「貞享異譜」を見る限り、対馬は正直の通称で、2代目正長は壱岐と称しているため、対馬は正直のことを指すと思われるので、慶長7年から10年頃に正直は隠居しているとする「貞享異譜」と分限帳等の記述ではズレが生じている。
 慶長10年の家中騒動では、椋原対馬は鈴木重好父子を訴える側の中心人物の一人であり、井伊家中の中核にいたことは確実である。その後、慶長15年には椋原壱岐(正長)が家中仕置を命じられており(『新修彦根市史』6巻114号)、この時までに2代目正長が家督を継承していたのは確実である。
 
 2代目正長は家中仕置を担っていたが、慶長19年3月に死去している。跡継ぎの3代目の直正はこのときわずか3歳であり、正長は若くして死去したと思われる。それでも、直正はそのまま3500石の相続を許され、大坂冬夏の陣には陣代を立てて出陣している。成人男子の当主が不在でありながら減知されず家督継承が認められたのは、井伊家中で重用されていたことを示すものであろう。家康から付けられた家という重みを感じる。
 
断絶と再興
 ところが、直正は6歳の時に別の家の名跡を継ぐことになった。他に椋原家を継ぐ者はいなかったのであろう、この時点で一旦椋原家は断絶することとなった。
  *『寛政重修諸家譜』では直政と表記するが、ここでは「貞享異譜」にあわせて直正とする。

 直正が名跡を継いだのは、旗本安藤家である。紀州徳川家の付家老となった安藤直次の長男の系統となる。直次の長男重能は、幼時より秀忠に仕え、1000石を拝領していた。大坂夏の陣では井伊直孝の備えに属して出陣したところ、討死したため、直次の孫(娘の子)である直正が重能の婿養子となり家督を継承することとなった。直正には重能の遺領1000石に加えて直次から3030石が分け与えられ、幕府旗本へと転身したということである。直正は延宝5年(1677)まで旗本として務め、貞享4年(1687)に77歳で死去する。旗本となった直正であるが、娘の一人が彦根藩士正木舎人へ嫁しているため、直正本人が離れたとしても井伊家とのつながりが途絶えたわけではないことがわかる。

 直正(隠居後は江山と号した)は、生家である椋原家を断絶させてしまったことに思いを抱いていたのであろう、晩年、隠居してから椋原家再興を働きかけている。
 椋原家を再興したのは、西郷藤左衛門(4代目員元)の二男で、親の遺領から500石を分知されていた西郷藤次である。藤次は椋原正長の曾孫にあたる(西郷員元の母が椋原正長の娘)。
 延宝7年に安藤江山より井伊家へ願い出て、藤次が椋原家を再興することが認められ、椋原治右衛門と称した。その後代を重ねても「先祖筋目」ある家と認識され、宝暦6年(1756)には重臣の家格である「笹之間席」に列した。
 椋原家は家康から井伊直政に付けられたという由緒により、井伊家中で家を継承させることは認められたが、再興後、初代・2代目のように家中政務を担う家老役に就くことはなかった。
 
   
 参考文献
野田浩子『井伊直政 家康筆頭家臣への軌跡』(戎光祥出版、2017年)

 

 典拠史料
『新修彦根市史』6巻
『侍中由緒帳』3
「貞享異譜」(彦根城博物館所蔵、未刊)