彦根歴史研究の部屋

彦根や井伊家の歴史について、これまで発表してきた私見の紹介・補足説明・修正など。

井伊直政家臣列伝 その17 西郷正員 ~秀忠生母の一族~ 

 
 徳川家康から井伊直政に付けられた重臣の一人に西郷藤左衛門正員がいる。秀忠と忠吉の生母である西郷局(さいごうのつぼね)の実家である西郷氏の一族である。
 
西郷氏の出自
 西郷氏は三河国八名郡西郷を名字の地とする武家である。南北朝期に三河国守護であった仁木義長(在職期間1351~1360)のもと、西郷弾正左衛門尉が守護代を務めていた。また、岡崎城を築いたのも西郷氏と伝わる。

 正員の直接の先祖として活動が確認される人物は、曾祖父にあたる弾正左衛門正員からである(諱には諸説あるようだがここでは『寛政重修諸家譜』に従う。藤左衛門と諱が同一なので通称を加えて区別する)。『寛政重修諸家譜』によると、弾正左衛門正員は今川家に属し、三河国西郷庄嵩山月谷(わちがや)城に居住。享禄2年(1529)に徳川家康の祖父である松平清康が今橋城(吉田城)を落として近辺に勢力を拡大してきたため西郷氏は近隣の野田菅沼氏らとともに松平の麾下に属すが、その後今川氏に属した。これは、天文4年(1535)に清康が討たれて松平氏が勢いを失い、天文15年には今川義元三河平定に向けて兵を進めてきたという情勢のもとでのことであろう。
 弾正左衛門正員の跡を継いだ正勝の時代に桶狭間の合戦が起こる。今川義元が討たれると、西郷氏は周辺の国衆とともに今川から離れ、徳川家康に味方した。そのため今川方から兵を向けられることになり、五本松に居城を移して守ろうとしたが、永禄4年(1561)11月、今川方から五本松城を攻められて正勝やその嫡子元正は討死した。それでも徳川方からの援軍により居城は死守し、その後も東三河の国衆とともに徳川配下にあった。

 西郷氏の本拠は三河国の東端に位置し、月谷城は遠江へ向かう本坂峠の麓にあった。江戸時代には姫街道の嵩山宿が置かれたあたりである。
 なお、江戸時代の西郷家の由緒書には遠江西郷の出身と記していることがある。正確には三河国であるが、遠江との国境に近かったことや「井伊谷七人衆」の菅沼氏らと親しい関係であったことから、井伊氏と同郷と認識されたのかもしれない。

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西郷局との関係 
 西郷氏は、西郷局の実家としても知られている。西郷局は二代将軍秀忠とその弟である忠吉の生母である。正確には、西郷局の母が西郷正勝の娘で、父親は戸塚忠春である。彼女は一旦は西郷家嫡流の義勝(元正の嫡子)に嫁すが、義勝が討死した後、その家督を継いだ叔父清員の養女として家康へ仕えた。
 西郷家は将軍秀忠生母の実家であり、義勝の嫡子の系統は旗本となり、一時期1万石を拝領して大名(安房国東条藩)となったが、その二代後には「勤めよからざる」として五千石が減知され、旗本として出仕している。
 
西郷氏系図
  正員  正勝  元正  義勝
                   正員
            清員 = 西郷局
                   ↑(養女)
            娘    西郷局
 
井伊配下での西郷正員
 藤左衛門正員は義勝の弟にあたる。父元正と西郷局の母、局の養父清員の三名は兄弟なので、正員と西郷局は従兄弟の関係となる。『寛政重修諸家譜』では「正友」という諱で記されるが、彦根藩内に伝わる史料では正員と記される。
 正員は、木俣守勝・椋原正直とともに家康から井伊直政へ付けられた。その年代は天正10年(1582)とするものが多い。この年、直政は家康から一人前の大将と遇されることになったため、それに伴い三人が家康の元から遣わされたとみるのがよいだろう。
 井伊家中での正員の役割は当初は明らかではないが、天正18年に直政が上野国箕輪12万石の領地を得ると、正員は領地の統治を担当していることがわかる。箕輪に入った翌年年から、正員の名で地元の有力者へ下した文書が数通残っている。伝馬御用について安中宿中に宛てた文書2通(うち1通は他の直政家臣と連署)、進雄神社の神宮職を先例通り認める意向を伝える文書1通が『高崎市史』に所収されている(資料編4、606・608・609号)。また、井伊家が佐和山にやってきて間もなく、知行を与えた家臣に宛てて示した在方仕置の法度は、正員が鈴木重好らと連署したものである(『新修彦根市史』6巻370号)。
 このように、正員は地域統治を主管していたことがわかる。「貞享異譜」にも、正員の職歴として家老格・町奉行のち町奉行御免・家老加判と記されている。
 
 正員も木俣守勝と同様、井伊家親族ネットワークに組み込まれている。正員の妻には奥山親朝の娘、つまり直政の母の妹を迎えている。ただし、嫡男(のちの二代目)重員は先妻の子であり、すでに先妻がいた(存命か死別かは不明)。直政との関係を強固とする政治的目的でその親族を後妻に迎えたといえる。
 
 直政没後の慶長7年(1602)の分限帳では、西郷伊与守(正員)は300石取となっている。これは隠居料として下されたもので、嫡子勘兵衛(重員)が3500石取であった。知行高に基づく家臣団の序列でいえば、鈴木重好、木俣守勝、川手良行に続くNo4に位置していた。
 

  

 参考文献
野田浩子『井伊直政 家康筆頭家臣への軌跡』(戎光祥出版、2017年)

 

 典拠史料
『新修彦根市史』6巻
『新編高崎市史』資料編4
『侍中由緒帳』2巻
「貞享異譜」、「御侍中名寄先祖付帳」(いずれも彦根城博物館所蔵、未刊)