彦根歴史研究の部屋

彦根や井伊家の歴史について、これまで発表してきた私見の紹介・補足説明・修正など。

井伊直政家臣列伝 その16 木俣守勝 ~家康からの付家老~(下) 

 
 木俣守勝は徳川家康によって井伊直政へ付けられ、その活躍を支えた。直政が家康の筆頭家臣として軍事的・政治的側面から家康の天下取りを支えた裏には、守勝ら有能な家臣の存在もあった。
 守勝が直政のもとで発揮したその才覚を示す逸話を「木俣木俣土佐守守勝武功紀年自記」から二つ示していこう。
 
向島城への転居に関わる「秘計」
 その一つは、慶長3(1598)年8月に豊臣秀吉が死去した後の政局でのことである。大坂城に移った豊臣秀頼の周囲に居る石田三成らと、大老の一人である家康の対立の中で、家康が襲撃されるという噂が何度か流れた。例えば、慶長4年1月には家康が伊達政宗福島正則らと私に婚姻を結んだことが糾弾され、この時にも三成らが家康を襲撃するという噂が流れたため、黒田長政らが家康屋敷周辺を警固した。3月には、病床の前田利家を見舞うため、家康は大坂へ出向いたが、この時も襲撃の噂があり諸将が家康を護衛している。
 この後大坂から伏見へ戻った家康は、向島城を整備して、3月26日には移っている。襲撃の噂が絶えない家康に対し、向島城へ移るにあたり、木俣守勝がある提案をしたという話が伝わる。

 「木俣木俣土佐守守勝武功紀年自記」には、「我(守勝)その秘計を考え、密かに直政に申す、直政驚きその夜三更言上せらる、上様(家康)御感斜めならず、即日明旦御座を移さるべきなり、直政我に告げ、我即ち私に斥候に出て、翌日上様御座を向島に移され、この御危難なし、この御危難のこと後日世間に風聞有るゆえ、上様いよいよ感じ、予思案の由直政申し伝う」とある。守勝が「秘計」を考えて、直政を通じて家康へ言上したところ、翌日すぐに家康は向島へ移ったという。ただし、「秘計」の具体的な内容はわからない。
 この件は「校合雑記」(『朝野旧聞褒藁』所収)でも述べられている。そこには、守勝が向島へ移ることを提案し、材木や兵糧の準備まで調えていたと伝える。各種史料を見る限り、転居そのものの提案は前田利家細川忠興らがしたといわれており、守勝の提案とは言いがたいが、具体的な物資の準備に関わる提案をしたのが守勝であればあり得る。また、普請が完了して正式に移る前の3月19日に家康は仮に向島城に入り、本屋敷との間を行き来していた。「木俣木俣土佐守守勝武功紀年自記」には、木俣が「秘計」を言上した翌朝に急遽移ったとあり、仮転居の背景には木俣の「秘計」があったのかもしれない。
 この頃、井伊隊は家康を護衛する番役の任にあり、直政は守勝をはじめ配下の軍事部隊を引き連れて伏見周辺に滞在していた。そのため、番役の任務として、家康の向島転居が決定するとその準備実務を担ったはずである。守勝もそのような立場で家康の向島転居に関わっていたのは間違いない。
 なお、「校合雑記」には、直政が家康に「秘計」を言上したところ、家康は「それは其方(直政)の存じ寄りにてはあるまじ、誰ぞ左様に申しける」と、直政が考え出したものではなく、側近の発案と見抜いたという。直政はみずからこのような「秘計」を考え出せる人物ではないということであろう。
 
村雨の壷拝領一件
 守勝の才覚を示す逸話として、木俣家代々の家宝である村雨の壷を直政から拝領した経緯に関わる話がある。この壷は、関ヶ原合戦後、直政家臣の恩賞をめぐる騒動を守勝が収拾させたとして拝領したものである。
 その騒動とは、合戦後の論功行賞で吉川軍左衛門・五十嵐軍平らを足軽大将に取り立てたことに対し、彼らより活躍したと訴える大久保将監ら「八人衆」が直政へ直訴したものである。八人衆は、吉川・五十嵐らより早く武功を挙げたと主張し、不公平な論功行賞を批判して直政の外出先で直訴に及んだ。直政は立腹したが、屋敷に戻ったところ、八名の戦功を記した書類が家老から直政のもとに上げられていたがそれを失念していたことに気づく。「八人衆」の主張は正当なものだったのである。
 しかし一旦当主が示した論功行賞を変更する訳にはいかず、守勝がこれをうまく収めたということである。記録により詳細は異なるが、守勝は八人衆を屋敷に呼び寄せ、直訴を叱りながらも彼らに寄り添い、引き続き奉公するよう説得した。本来なら、直訴という行為そのものが処罰の対象となるが、直訴は不問に付すこととなりこの一件は落着となった。
 落着後、直政はうまく事を収めた守勝への褒美として村雨の壷を贈ったということである。
 
 木俣家に伝来した関ヶ原合戦図屏風には、この逸話の元となった八人衆らの活躍が描かれている。この構図は木俣家本独自のもので、同様の構図を持つ井伊家伝来品などには見られない。井伊隊の先頭で敵と戦っている武者の旗指物には、合戦後足軽大将に取り立てられた吉川長左衛門、三浦十左衛門、松居武太夫や「八人衆」の一人である大久保将監らの名が見える。この描写は、恩賞をめぐる直訴一件とそれを収束させた守勝の手腕を連想させるものとして、関ヶ原合戦図の制作時に木俣家の先祖の活躍を盛り込むよう改変したと考えられる。 

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関ヶ原合戦図屏風」井伊隊先鋒部分描写の比較(「新収蔵記念 彦根藩筆頭家老・木俣清左衛門家資料」より)
 
関ヶ原合戦図(木俣家伝来本)の全体はこちらから↓
直政没後の守勝の位置
 直政没後の慶長7年(1602)の分限帳では、木俣土佐(守勝)は四千石取である。知行高に基づく家臣団の序列でいえば、鈴木重好がトップで、守勝と河手良行がその次に位置していた。
 
 井伊家中での守勝の役割を見ると、直政生前・没後とも「家中の仕置」を申し付けられていたという。このことは、慶長10年に家中騒動が起こり、河手良行ら重臣が連名で家臣筆頭の鈴木重好の不正を幕府へ訴えた文書の中に記されている。鈴木の不正とは、木俣に相談せずに公用の米を引き出して使ったことや、罪人の処罰について依怙贔屓があったという点が挙げられている。このことから、木俣の任された「家中の仕置」には財政や人事の統括があったことがわかる。特に、直政の跡を継いだその嫡子直継は相続時に13歳(数え年)であり、守勝がその政務を補佐することになった。
 また、家中騒動前のことではあるが
佐和山から彦根に城地を移す決定も守勝が中心になっていた。新城の候補地はいくつかあったが、慶長8年に守勝が家康の元へ行き絵図を示して説明し、彦根に決定した。実質的に守勝が考えた案が家康に承認されたといえる。城の完成後には、その祝儀として将軍秀忠から守勝へ馬が下賜されており、築城にあたって守勝が尽力した様子は幕府からも認められていたことがわかる。
 
 慶長15年、守勝が病に臥せると、家康は「万病円」という薬を調合して守勝へ届けた。家康がみずから薬を調合して家臣へ与えていたのはよく知られているが、彦根にいる守勝へも届けたのは、井伊家中での守勝の役割の重要性を認識しており、その体調を気遣ったためであろう。しかし薬の甲斐なく、守勝は同年に死去した。
 
 
 参考文献
野田浩子『井伊直政 家康筆頭家臣への軌跡』(戎光祥出版、2017年)
野田浩子「関ヶ原合戦図屏風の図像とその展開」(『彦根城博物館研究紀要』14、2003年)
「新収蔵記念 彦根藩筆頭家老・木俣清左衛門家資料」(展示図録、彦根城博物館、2013年) 

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 典拠史料
『新修彦根市史』6巻
『侍中由緒帳』1巻
「木俣土佐守守勝武功紀年自記」(「木俣清左衛門家文書」彦根城博物館蔵、未刊)