彦根歴史研究の部屋

彦根や井伊家の歴史について、これまで発表してきた私見の紹介・補足説明・修正など。

井伊直政家臣列伝 その15 木俣守勝 ~家康からの付家老~(上) 

今回から、元々徳川家康の家臣で井伊直政へ付けられた家臣へと話を進めていきます。 
まずは、付家老の筆頭格、木俣守勝から。
 
木俣守勝は直政の主要家臣の一人であり、系図や由緒書も残っており、井伊家に仕える前のことも比較的判明する。
まず、自伝の形式をとる「木俣土佐守守勝武功紀年自記」などにより、その出自と前半生を見ていきたい。
 
先祖の由緒
 守勝は弘治元年(1555)、三河岡崎にて誕生した。幼名は菊千代丸。
 先祖は伊勢国神戸(三重県鈴鹿市)の出身という。木俣家の系図では楠木正成を先祖としている。正成の次男正儀の孫とする守清を木俣家初代に位置づけ、守清の子守行の時に伊勢国司で南朝方の北畠顕泰に召されて神戸に居住し、その後の歴代は伊勢瀧城、岡城などに居住し、守勝の父守時がふたたび神戸に居住したとする。
 
f:id:hikonehistory:20200601175649p:plain
 
  もちろんこれは、伊勢が長らく南朝方の拠点であり、北畠氏が勢力をもっていたことから、南朝の有名人物から木俣氏へ派生するという系図を創り出した結果と考えられる。楠木氏が橘姓であり、木俣氏も同様、本姓を橘氏としている。

 伊勢出身の木俣氏が三河の徳川氏の家臣となった経緯は、松平広忠徳川家康の父)が父清康の死後、勢力争いによって三河から逃れ、一時期神戸に匿われていたことと関係して説明されている。守時はこの地で元服した広忠に仕えたということであり、広忠が三河へ戻る際に守時は付き従って神戸を離れ、岡崎に居を移したということである。守勝が生まれた弘治元年(1555)段階で広忠はすでに死去しており、その嫡子家康は駿府で今川氏の人質として暮らしていた。そのような状況にあっても、守時は伊勢へ帰らず、岡崎に留まったことになる。

 守時の出身をはじめとする守勝の父祖については、木俣家に伝来した系図に記されるのみで、「木俣土佐守守勝武功紀年自記」にも記されない。楠木正成を先祖とするのは、本姓を橘氏とするために作為したものとわかるが、父の出自などはどこまでが史実なのか峻別しがたい。 
 
明智光秀のもとでの武功
 確実なのは、守勝自身が幼少期から家康に仕えていたということであろう。「木俣土佐守守勝武功紀年自記」によると、守勝は9歳で家康に召し出されて小姓として仕え、元服後は家康の出陣に御供していたが、天正元年(1573)守勝19歳の時、一家の者と事を起こして家康の元を離れて諸国を流浪した。その後、明智光秀のもとに仕官したが、天正9年、明智のもとでの守勝の武功を聞いた家康が召し返そうと連絡してきたため、守勝は家康の元に帰参した。

 明智の元での戦功とは、天正6年の播州神吉城攻めや大和片岡城攻めで一番乗りして戦功を挙げたことや、天正7年には石山合戦石山本願寺の周辺に築いた付城で光秀が兵糧の補給路を断たれてしまったところ守勝の秘計により敵を追い散らしたことが挙げられている。神吉城攻めに際しては光秀から授かった感状が残っており、石山合戦での戦功では信長に召し出されて御前で言葉を賜わったという。
  このように、守勝が光秀のもとにいたのは20歳代の数年間であるが、この時すでに軍事計略の才能があり結果を残していたことがわかる。
 
井伊直政へ付けられる
 徳川配下に戻った守勝は、天正10年、家康の上洛に御供し、本能寺の変後、堺から伊賀越えで三河へ戻る一行の中にいた。 その後、家康が甲州へ兵を向けて北条氏と争った天正壬午の乱の際には、成瀬正一・日下部定吉を案内者として甲州諸士が徳川方へ帰属するよう説得している。百日に及ぶ北条氏との対峙の後、和睦交渉の使者に井伊直政が抜擢されたが、このとき守勝が副使として直政を補佐した。

 さらに、甲州諸士がまとまって井伊直政に付属されることになると、守勝は「甲州侍之物主」として彼らをまとめる役割を命じられ、直政に付けられた。天正11年1月、家康は直政へ書状を遣わし、新たに付けた甲州侍を高遠口の押さえへ出陣させるよう命じるが、このとき「清三郎(守勝)か誰にても」と、守勝の名を挙げて同心(甲州侍)を統率させるよう指示している。ここで気になるのは、家康はいつ頃から守勝を直政に付けようと考えたかという点である。正式に配下に付けたのは甲州諸士を直政に同心として付けた時と考えられるが、北条との和議交渉で守勝が副使を務めていることから、この頃には実質的に守勝には直政を補佐する役割が与えられていたとみてよいだろう。 

 さらにいえば、守勝の行動を見ていると、天正10年の上洛以来、直政と同様の行動をしていることに気づく。天正壬午の乱では、守勝は甲州諸士の帰属交渉をしたというが、直政も甲州諸士を徳川方に帰属させる交渉を担当し、帰属交渉が成立した際には彼らが家康へ対面して臣下の礼をとる場で直政が取り次いだ。つまり、家康家臣の多くが出陣して北条と対峙する中、帰属交渉を担当する特任チームに両名は属していたことになる。その中で、直政が家康にもっとも近い位置にあり、守勝らは実際に相手と交渉する実務を担うという関係にあったのではないだろうか。

 直政にとって初めての大仕事は、天正壬午の乱で北条との和議交渉使者を務めたことであった。ただ、これは突然の抜擢というより、遠江の有力国衆出身という直政の出自からみて相応のものといえるだろう。家康は、この先直政を徳川家の「幹部」として処遇するにあたり、自身に近く有能な補佐役を直政に付けようとした。それが守勝であった。しばらくは実質的に一緒に仕事をさせて相性を見ていたのだろう。ここで気になるのは、家康は、明智の元で活躍していた守勝をわざわざ呼び戻したという点である。家康が積極的に動いてまで守勝を戻そうとしたのはなぜだろう。この段階で直政へ付けることを考えていたのだろうか。
 
 
井伊家中での守勝 
 守勝が付けられた天正10年段階の井伊家の状況を確認しておくと、当主直政は22歳。それまで家康の近習であったが、甲州へ出陣する8月までには万千代という幼名から兵部少輔へと通称を改めており、この出陣から一人前の武将として扱われるようになったことがわかる。北条の和議交渉の使者を務め、甲州諸士を付けられて旗本隊の隊長となったこともこのような処遇の中でのことといえよう。 

 当時の直政家臣のほとんどは、井伊谷の国衆井伊氏の家臣や与力という関係を引き継いで直政に従っていた者であった。直政が徳川の軍事の一翼を担う重臣に位置づけられることは、井伊家中も拡大することになり、その家政を担う重臣も必要となる。そのように考えて、家康は守勝を直政に付けたと考えられる

 井伊家でも守勝を重臣グループの一員として処遇した。それがわかるのが婚姻関係である。守勝の妻は新野左馬助親規(親矩とも)の娘である。新野は桶狭間の合戦で討たれた井伊家の当主直盛の岳父で、当主を失った井伊氏において幼い直政の養育を任されたという人物である(のち井伊氏の軍勢を率いて討死)。新野の娘には直盛の正室のほか、今川家臣から直政家臣となった三浦元成、戸塚正長、庵原朝昌らの妻もいる。養女の可能性はあるが、新野の娘を妻とすることで守勝は井伊家重臣の親族ネットワークに組み込まれたことになる。

 

 参考文献
野田浩子『井伊直政 家康筆頭家臣への軌跡』(戎光祥出版、2017年)
「新収蔵記念 彦根藩筆頭家老・木俣清左衛門家資料」(展示図録、彦根城博物館、2013年)
 

f:id:hikonehistory:20200601174520j:plain

 典拠史料
「木俣土佐守守勝武功紀年自記」「木俣氏系図」(「木俣清左衛門家文書」彦根城博物館蔵、未刊)