彦根歴史研究の部屋

彦根や井伊家の歴史について、これまで発表してきた私見の紹介・補足説明・修正など。

井伊直政家臣列伝 その14 渡辺昌元 ~初めての新規家臣~ 

 これまで見てきた初期からの直政家臣は、直政以前より井伊氏と関わりを持っていた。井伊氏を再興させようとして直政を当主に据えることに尽力してきた者や、井伊氏の没落により離れていたが直政の出仕とともに戻ってきた者らが集結した。
 
 しかしそれだけでは家臣の人数が十分ではない。
 直政は、おそらく出仕当初から、遠江の有力国衆の家を継ぐ名家として処遇されたと思われる。そうであれば、相応の家臣を抱え、家臣団を充実させる必要が生じる。
 
 渡辺九郎左衛門昌元は、直政以前の井伊氏とのつながりを由緒として持たず直政配下に入った最初の者といえる。
 その出仕経緯は、『侍中由緒帳』には「権現様より直政様へ御付け遊ばされ」という記述のみで出仕時期が明確ではないが、「貞享異譜」には出仕年次が天正16年であることと天龍河原の陣から出陣していると記す。天龍河原の陣は、武田勝頼天正2年(1574)に高天神城を落として遠江の拠点としたため、徳川が周辺に城を築いて対峙する状況で起こった衝突である。武田との対立は高天神城を落とす天正9年まで続くが、天龍河原の陣は天正7年頃のことと推定できる。昌元は天龍河原の陣までには直政家臣となっているということなので、貞享異譜の記す出仕年次「天正16年」は誤記と判断できる。天正6年であれば齟齬はない。
 
 渡辺昌元の出身は遠江横須賀で、大須賀出羽守のもとに奉公していたが、父の跡目を不足に思い大須賀のもとを退き井伊谷にて井伊家に召し出されたという。昌元は遠江須々木領司渡辺大炊介昌遠の嫡子で、その先祖は渡辺綱にまで遡れるとする(「貞享異譜」)。

 大須賀出羽守といえば、榊原康政の子である大須賀忠政の称であるが、ここではその祖父である大須賀康高(通称は五郎左衛門尉)のことを指すとみてよいだろう。康高は高天神城攻めで最前線にいた人物である。天正2年の高天神城籠城戦では城主小笠原氏とともに籠城し、城を明け渡した後も横須賀城静岡県掛川市)を築いて高天神城の奪還をはかった。このとき、高天神城の籠城兵らは康高のもとに与力として家康から付けられ、「横須賀衆」と称されたという。つまり、地元の武士で徳川方に臣従する者は康高のもとに配されたことになる。昌元の父は須々木(静岡県牧之原市)の領司とあり、昌元は横須賀の出身ということであり、彼らも大須賀康高配下の横須賀衆の一翼を担っていたと推測できる。

 昌元にとって大須賀氏は軍事上の付属先であり、根本的には家康の家臣である。そのため、昌元が直政配下となったのは付属先が替わったにすぎない。伝承では、昌元は父の死去に伴う相続に際して大須賀氏の示す条件に満足しなかったため離反したと伝わるが、家康の意向により附属先が変更となっただけかもしれない。
 さらに想像をたくましくすれば、渡辺氏はその本拠が遠江国内であり、井伊氏と直接の関係はないにしろ、間に何名かを挟めばつながりや親戚関係があってもおかしくはない。井伊氏に付属する者を増やそうとして縁者を頼って探した結果、昌元が井伊氏に付属されることになった可能性もあるだろう。実は、昌元の嫡男である昌常の妻は中野直之の娘を迎えている。その兄弟は中野三信、松下一定、広瀬将房ら井伊氏重臣の家を継承した二代目であり、姉妹も奥山氏・松居氏・小野氏に嫁いでいる。つまり、渡辺氏も井伊氏重臣間の姻戚関係に入っており、単なる新参者とは位置づけられていないことがわかる。
 

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 昌元は直政の出陣した長久手の戦い、関ヶ原合戦に従軍し、さらに大坂両陣にも出陣しており、元和3年(1617)に死去した。
 慶長7年の分限帳では、渡辺九郎左衛門(昌元)は300石取であった。
 
 昌元には2人の男子がおり、昌元の没後、その家督は二男源次郎昌信が受け継いだ。嫡男助之進昌常は慶長8年(1603)に井伊直継の小姓に召し出されており、慶長15年に新知300石を拝領していたからである。しかし、昌信は若年にて死去したため、その家は継承されず断絶となった。そのため、『侍中由緒帳』では昌元を家の初代と数えるが、「貞享異譜」では昌常を別家の元祖としており、歴代の数え方が諸説ある。
 

参考文献

野田浩子『井伊直政 家康筆頭家臣への軌跡』(戎光祥出版、2017年)
 
 典拠史料
『侍中由緒帳』9巻
「貞享異譜」(彦根城博物館所蔵、未刊)
『新修彦根市史』6巻(彦根市、2002年)