井伊直政家臣列伝 その13 内山正辰 ~今村氏に次ぐ譜代家臣~
内山正辰は、「侍中由緒帳」によると、生国は信濃国内山であるが井伊谷の井伊直盛に奉公しており、その筋目により直政が徳川家康に出仕した際、直政に召し抱えられた3人の中の一人という。また、「貞享異譜」では、天正3年(1575)に召し出され、直政の初陣となった芝原の戦いから関ヶ原合戦まで、直政の出陣12度に御供しており、関ヶ原後には近習を御免となり目付役を務めた。今村家に次ぐ譜代の家と記す。
内山城は、天文15年(1546)頃に武田信玄の侵攻を受けて攻略され、城主大井氏は逃れたという。想像をたくましくすれば、正辰はこのような争乱から逃れるために信州を離れ、井伊谷にやってきて井伊直盛へ奉公したのかもしれない。直盛は永禄3年(1560)の桶狭間の合戦で討死しているので、正辰がそれまでに井伊谷に来ているのは間違いない。直盛没後、実質的に当主不在の井伊家のもと、正辰が奉公し続けていたかどうかはわからないが、直政が井伊家当主として家康に仕えることになると、正辰は直政の側近くに仕えて身の回りの世話をした。
内山氏が今村氏に次ぐ譜代という意味は、正辰も今村正実も父祖以来井伊家に仕えており、井伊家当主となった直政にも引き続き仕えたということである。また、その職務内容も、当主の身の回りの世話をする近習という点で両名は同様の役にあった。
「侍中由緒帳」には、正辰は直政出仕時に召し抱えられた3人のうちの1人とある。あと2人のうち1人が今村正実であるのは確実であろうが、もう一人は今村正躬(正実の弟)なのか、それとも小野朝之を指すのかはわからない。
慶長7年(1602)の分限帳によると、九左衛門(正辰)は200石取であった。また、慶長12年の分限帳では、九左衛門は200石、嫡男の十太夫(正重)も200石取となっている。そのほか、正辰二男の正全は天正20年から直政の小姓を勤め、慶長4年には新知300石を下されている。慶長7年の分限帳で御供衆のうちに400石取として「内山忠三郎」とあるのが正全と思われる。正全本人は鉄砲足軽大将として大坂冬の陣に出陣したところ討死したが、その子孫の家は継承されている(内山次右衛門家)。