彦根歴史研究の部屋

彦根や井伊家の歴史について、これまで発表してきた私見の紹介・補足説明・修正など。

井伊直政家臣列伝 その11 片桐正直 ~井伊一門の伊平氏~ 

 片桐正直は、その名から一見したところではわからないが、井伊氏一族で初期から直政家臣となった者である。元は伊平氏で、権之丞、のち権右衛門と称した。

平氏

 伊平氏引佐郡伊平を本拠とする一族で、系譜上では井伊氏の一門となっている。井伊氏の系図類では、始祖の共保からかぞえて8代(別の数え方もあり)泰直の弟に伊平直時が見える。史料上「井平」と表記されることもあるが、同じ一族である。
 

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 戦国時代には、井伊直平(直政の曾祖父)の近くに伊平河内守がいたことが諸史料からうかがえる。「井伊直平公御一代記」には、井伊一騎の井平河内守が今川と北条との合戦に出陣して討死したと記す。また、「井平実記」には、井平河内守直種は直平の末子で、直種の息子の弥三郎は直政のもとで小田原陣に出陣し、笹曲輪の夜襲で討死して家は途絶えたとある。いずれも『引佐町史料』に収録されている史料であり、地元で言い伝えられたものである。そのほか、幕末に長野義言が井伊谷周辺で史料採訪して作成した系図には、井伊直平の妻は伊平河内守安直の娘、その息子の直宗の妻は伊平河内守直卿の娘と記す。これらの関係すべてを信用すると直平と伊平河内守の姻戚関係が深すぎるため、何らかの誤認があった可能性も考えられるが、関係が深かったことは間違いないだろう。

片桐正直

 正直の履歴として、井伊家連枝で御家門筋であり、元は伊平氏を称していたということが「貞享異譜」に記されている。このことより、正直も河内守と同様、伊平を本拠とする伊平氏の一族であると判断できる。ただし、河内守との具体的な親族関係はわからない。
 正直が直政のもとではじめて出陣したのが天正10年(1582)の若神子陣ということであり、その年までに直政の配下に入ったと考えられる。側役を勤め、その後の直政の出陣にも御供したが、関ヶ原合戦時には高崎城の留守を勤めた。知行は最終的に300石取という。
 正直は慶長15年(1610)に死去し、孫の正行が11才で2代目を継承する。正行の父(正直の息子)は幕府の代官を務めていたという。ただし、慶長7年の分限帳では、片桐権右衛門は「御扶持取衆、但隠居衆共」として名が挙がっており、片桐松千世が300石取であった。このことから、慶長7年段階で正直は隠居し、跡継ぎの松千世が300石を継承したが、松千世は正直に先だって死去したため、正直から孫の正行へ家督が継承されたのであろう。正行はもともと菅沼次郎右衛門の元にいたことや、半知の150石のみ相続が許されたことも、早くから予定されていた家督継承でなかったことをうかがわせる。

その他の伊平氏

 直政家臣には、伊平姓を称していた者も確認できる。慶長7年の分限帳には、「伊平弥四郎 150石」、「伊平庄左衛門 100石」、慶長12年の分限帳には「伊平四郎兵衛 150石」が記されている。また、慶長19年、井伊直継に付けられて上野国安中へ移った家臣92名の中に「井平少三郎」がいる。弥四郎と庄左衛門は別家か当主と惣領の関係かは不明であるが、彼らが四郎兵衛、少三郎と改称したものと思われる。つまり、直継の代には、伊平氏は1~2家あったことがわかる。ただし、元和年中の安中分限帳には伊平氏・井平氏の名は確認できない。井伊家を去ったか、または改姓したと考えられるが、史料が確認できないためそれ以上は不詳である。 

平氏の再興

 幕末頃、伊平氏名跡が再興されている。井伊直弼の息子である直達は伊平保三郎と称したと系図にある。井伊直中の子や孫により新野、貫名といった戦国時代の井伊氏親族の家が再興されたのと同様と考えられる。
 

  

参考文献
野田浩子『井伊直政 家康筆頭家臣への軌跡』(戎光祥出版、2017年)
 
典拠史料
「貞享異譜」、「御侍中名寄先祖付帳」(いずれも彦根城博物館所蔵、未刊)
『新修彦根市史』6巻(彦根市、2002年)
井伊直平公御一代記」(『引佐町史料 第1集』)
「井平実記」(『引佐町史料 第2集』)