彦根歴史研究の部屋

彦根や井伊家の歴史について、これまで発表してきた私見の紹介・補足説明・修正など。

井伊直政家臣列伝 その9 奥山朝忠 ~似た境遇の従兄弟~ 

奥山一族

 奥山氏は、井伊谷より北西に約5㎞、奥山の地に拠点を置く武家である。
 系図上は井伊氏と同族となっている。井伊氏の伝説の「元祖」共保からかぞえて5代目の良直、俊直、政直の兄弟がそれぞれ井伊氏、赤佐氏、貫名氏へと分立し、さらに赤佐氏から奥山氏が分立したとある。
 「したとある」と表記したのは、系図ではそのようになっているということで、それが史実かどうかは別問題である。

 史実としては、室町時代の応安4年(1371)、奥山六郎次郎朝藤によって奥山の地に方広寺が建立されており、この時までに奥山氏はこの地で一定の勢力をもっていたことがわかる。また、編纂物ではあるが「今川家譜」「今川記」などには、応安3年に九州探題に命じられた今川貞世が配下の侍を引き連れて九州へ向かったが、その中に奥山氏や井伊氏が登場する。貞世の父今川範国は、南北朝の争乱期、足利尊氏に味方して各
地に出兵し、駿河遠江の守護を命じられており、その際、在地の武士を軍事的に組織化して配下に入れた。その関係が貞世の時代にも引き継がれたと考えられる。
 このように、南北朝期から室町時代にかけて、井伊氏と奥山氏は近隣で同様の立場にある領主同士という関係にあったといえるだろう。

 

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桶狭間で井伊氏と運命を共にする

 戦国時代、遠江が今川氏の配下にあった時代には、奥山氏は井伊氏をトップとする軍事組織の中にあったようである。
 桶狭間の戦い井伊直盛とともに討死した者の中に
  奥山六郎次郎、奥山彦市郎(彦市とも)、奥山彦五郎
の名が見える(「井伊年譜」)。このことから、奥山氏は「井伊衆」に与力として加わり出陣していたことがわかる。
 
 桶狭間で討死した六郎次郎が、井伊直政の家臣となる奥山朝忠の父親という。ただし、このあたりの系図は諸説あり、
  親朝 ― 朝利 ― 親秀 ― 朝忠 
と、朝忠を親朝の曾孫とする系図がいくつかある。『侍中由緒帳』所収系図もこれを採用している。しかし、直政の母(親朝の娘)と親秀を兄弟とする系図も多い。以上より推測すると、
  親朝 ─  朝利
     ├  親秀  ― 朝忠
          └     直政母
と、朝利と親秀は兄弟と考えるのがもっとも整合するのではないだろうか。
 朝忠は父が桶狭間で討死した後の永禄4年1月に出生したともいう。また、『侍中由緒帳』は16歳で直政に召し出されたという。直政が永禄4年生まれで15歳で家康に召し出されていることから、朝忠は直政とほぼ同年齢であったことがわかる。さらに、出生まもなく(または誕生前)に城主である父を失い、母や譜代の家臣に守られて成長したということであり、直政と類似した境遇で成長したのであった。
 

一波乱あった奥山朝忠の出仕

 朝忠は、直政が家康へ出仕してまもなく、直政へ仕えたという。しかしその出仕には一波乱あったようである。


 直政が父方の親族である酒井三郎右衛門に宛てた書状(『井伊直政―家康筆頭家臣への軌跡―』に読み下しと現代語訳を掲載)には、直政が酒井に対して、立ち寄ってもらい対面したいと思っているが「奥山年寄女」がそれを妨害することを吹聴しているらしい、とある。他の史料でも朝忠は実母と縁を切って直政のもとに出仕したという(「御侍中名寄先祖付帳」)ことなので、直政と奥山の母らとの間に何らかの対立があったことが窺える。その要因は史料からは読み取ることはできないが、朝忠も奥山城主の跡継ぎであり、大名の家臣になれる家柄であったにもかかわらず、直政のみが家康の直臣となり、息子がその配下に入ることに反対したのかもしれない。

 

井伊氏親族の家柄

 朝忠が直政の配下に入ったのは、奥山氏が直政の母の一族であることと無関係ではないだろう。
  奥山氏の系図には、直政の母の妹(直政からみると叔母)に
  中野越後守直之室
  小野玄蕃
  西郷伊与守正員室
  鈴木石見守室
  菅沼淡路守室
  橋本四方助室
らが記されている。中野・小野・鈴木ら「井伊谷七人衆」などと婚姻関係を結び、「井伊衆」中核メンバーで結束を図っていたことが読み取れる。
 一方、西郷正員は天正10年(1582)頃に家康によって直政に付けられた人物である。正員は元文元年(1532)生まれで永禄12年にすでに正室を亡くしている。直政に付けられて以降、つながりを強固なものとする政略的な目的で、その親族を後妻に迎えたことがわかる。
 

諸系統の奥山氏

 そのほか、系図では具体的な関係はわからない者もいるが、同族の者が数名、井伊氏家臣となっている。

 慶長7年の分限帳では、奥山藤十郎(500石)、奥山源十郎(150石)がいる。系図では、直政母の次兄の孫(=直政の従兄弟の子)に藤十郎朝直がいる。
 源十郎は、系図では確認できない。慶長12年の分限帳では見当たらなくなっており、代わりに源太右衛門(300石)がいる。改名したのであろうか。
 両名は元和元年の安中分限帳に出てきており、そこでは藤十郎は250石、源太右衛門は300石である。掛川と与板の分限帳にも奥山氏の名はあり、両名の家系が継承されたと思われる。
 
 代々彦根藩士として継続した家としては、奥山伝右衛門家がある。初代伝右衛門の父奥山左近は井伊谷の出身で家康より本知の証文を受け取っているという。一方で初代伝右衛門は、井伊家に仕える前に真田昌幸に仕えていたという(「御侍中名寄先祖付帳」)。井伊家へ出仕したのは慶長6年とも直継の代ともいうので、昌幸が関ヶ原合戦で敗れて流罪となった後、親族を頼って井伊家に仕えたのであろう。
 
参考文献
野田浩子『井伊直政 家康筆頭家臣への軌跡』(戎光祥出版、2017年)
 『彦根城博物館古文書調査報告書5 西郷藤左衛門家文書他調査報告書』
 
 典拠史料
『侍中由緒帳』3巻、7巻
「貞享異譜」、「御侍中名寄先祖付帳」(いずれも彦根城博物館所蔵、未刊)
『新修彦根市史』6巻(彦根市、2002年)