井伊直政家臣列伝 その4 松井四兄弟 ~二俣城主の一族~
松井氏は「井伊谷七人衆」の一角を占めるが、他の六氏ほど有名ではない。
直政の初期からの家臣に松居清易ら四兄弟がいる。その由緒によると、祖父は二俣城主の松井宗信、父は宗継という。
宗信は桶狭間の戦いで討ち死にした今川方の国衆として存在が確認できる。桶狭間の敗戦後、今川の勢力が弱まると、二俣城は徳川と武田の勢力争いの舞台となり、松井一族は分裂して双方の配下に入ったことが知られている。一方、父とされる宗継は諸史料には登場しない。
宗信は桶狭間の戦いで討ち死にした今川方の国衆として存在が確認できる。桶狭間の敗戦後、今川の勢力が弱まると、二俣城は徳川と武田の勢力争いの舞台となり、松井一族は分裂して双方の配下に入ったことが知られている。一方、父とされる宗継は諸史料には登場しない。
「侍中由緒帳」には、清易らは井伊谷で生まれたとされており、彼らの父は井伊谷に居住していたと考えられる。清易らの父がほんとうに宗信の息子であったかは確かめようがないが、松井一族の一員として井伊氏配下にあり井伊谷に居住していたのではないだろうか。あるいは、松井氏の証人(人質)として井伊谷に送られていたかもしれない。いずれにせよ、松井氏が「井伊谷七人衆」にかぞえられるのは、清易らの父が井伊氏の配下にあり発言力を有していたためと考えられる。
「貞享異譜」によると、四兄弟が直政に出仕したのは天正5年(1577)のことで、長兄清易は天正7年の天龍川の陣で一番槍の高名をあげたという。直政が家康のもとに出仕したのが天正3年のことであり、翌4年が直政の初陣と伝わるため、松井兄弟は直政の初陣後、まだ家臣が少なかった頃にその配下に入ったといえる。その後、直政隊の出陣にいずれも御供したといい、清易は直政の箕輪城主時代(1590~1598)に足軽大将となっている。また、関ヶ原合戦図屏風(井伊家伝来本、彦根城博物館蔵)にも、「松居武太夫」の名を記した旗指物を指す武者が描かれている(第2扇中央より下、「木俣右京」の下部)。このように、松井兄弟は軍事面で活躍したと思われる。
*関ヶ原合戦図はこちらからごらんください
関ヶ原合戦図(井伊家伝来資料) | 彦根城博物館|Hikone Castle Museum|滋賀県彦根市金亀町にある博物館
四兄弟のうち、武太夫清易、善兵衛清高、惣十郎清虎の三名は、それぞれ子孫が彦根藩士として家が継承されている。清易の系統は家督を継承した武太夫家と、孫の代に分家した善兵衛家、清高の系統は家督を継承した善三郎家と三男の金右衛門家、清虎の系統や嫡男は跡継ぎがなく断絶したが次男七左衛門の家系は継承されている。
慶長7年(1602)の家中分限帳によると、
松居武太夫 720石
松居善兵衛 300石
松居惣十郎 180石
とある。
松居武太夫 720石
松居善兵衛 300石
松居惣十郎 180石
とある。
なお、彦根藩士家では藩主井伊家を憚って苗字に「井」の文字を使用しない通例となっているが、松井氏も同様であった。
典拠史料