彦根歴史研究の部屋

彦根や井伊家の歴史について、これまで発表してきた私見の紹介・補足説明・修正など。

井伊直政家臣列伝 その3 中野直之・中野三信 ~井伊氏の一門~


 中野氏は井伊氏の一族で、井伊谷の中にある中野という地が本貫地という。井伊家の系図類では、井伊直平(直政の曾祖父)の父直氏の弟である直房を中野氏の祖とする。井伊氏や重臣と婚姻関係を重ねており、井伊氏の一門として重要な役割を果たした家である。

  (中野氏の家系
  直房(井伊直氏の弟)― 直村
 ― 直由 ― 直之 ― 三信
 
 「井伊家伝記」によると、永禄5年(1562)に井伊直親が討たれた後、中野信濃守直由が井伊谷の「仕置」を預かり、新野左馬助が幼少の直政を養育したが、永禄7年9月、今川氏の命令で中野・新野が井伊の兵を率いて引馬城の飯尾氏に向けて出兵した際、引馬近くの天間橋で討たれたという。このような直由は、直親亡き後の井伊氏において政務を任され、かつ軍勢を率いる立場にあり、一門として当主の役割を代行した人物と描かれている。「井伊家伝記」では直由だけが井伊谷の政務を任されたように描かれるが、実際には直由だけというよりも、数名の内の一人が直由と考えた方がいいだろう。
 直之(又右衛門のち越後守)の由緒には、「直政様世に御出なされ候て又右衛門方へ有り付き申し候よし」(「木俣清左衛門家文書」)とある。この短文だけでは判断しがたいが、家康へ出仕した後の直政が直之の宅に居住していたということであろうか。少なくとも、直政の出仕当初からその傍らに直之がいたことは間違いないだろう。
 
 直之と直政は比較的近い親戚関係にあった。直之の妻は奥山因幡守親朝の娘であり、直政の母の妹にあたる。その子、つまり直政の従兄弟にあたる人物は7人いる。中野家を継いだ三信のほか、その弟に松下清景の養子となった松下一定、広瀬将明の養子となった広瀬将房がおり、女性は奥山六左衛門、小野源蔵、松居作兵衛、渡辺助之進といった井伊氏一門や重臣へ嫁している。このように、直政の従兄弟でもある直之の子どもたちは、直政の重臣となった者と縁組することで、直政と重臣との結束をはかる役割も担った。
 三信やその弟(のちの松下一定)は直政よりも年下で、幼少の頃から直政のもとに仕えていた。合戦への従軍は、両名とも天正18年(1590)の小田原陣からという由緒をもつ。
 

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井伊谷龍潭寺にある中野氏の墓
 慶長7年(1602)の分限帳では、中野越後が1850石、助太夫が1500石となっている。『新修彦根市史』では越後を三信、助太夫をその息子の三宣と比定しているが、「侍中由緒帳」によると三宣は16歳で1614年の大坂冬の陣に出陣しているので、1世代さかのぼり、越後は直之、助太夫は三信と考えられる。
 
 その後の歴代も彦根藩の家老などを務めている。また、井伊家一族という独自の立場は江戸時代に入っても認識されており、藩主井伊家の子息で臣下に下った者が何人も中野氏の養子となっている。まず三代井伊直澄は兄の子直興を養子とすることが決まっており、直澄の息子の1人は中野寧三(中野家四代)の甥分として中野姓を称した。そのほか、
  • 井伊直定4男の卯之次郎
  • 井伊直幸11男の外也 (のち与板藩主井伊直朗の養子となる)
  • 井伊直中6男の恭之介
にも中野の苗字を下されている。
 
 
参考文献
野田浩子『井伊直政 家康筆頭家臣への軌跡』(戎光祥出版、2017年)
 
 典拠史料
彦根藩史料叢書 侍中由緒帳』2(彦根市教育委員会、1995年)
『新修彦根市史』6巻(彦根市、2002年)