彦根歴史研究の部屋

彦根や井伊家の歴史について、これまで発表してきた私見の紹介・補足説明・修正など。

井伊直政家臣列伝 その1 松下清景 ~直政の養父~ 

松下一族

 松下氏は遠江頭陀寺(浜松市南区)を拠点とする一族で、今川義元・氏真に仕え、その後徳川家康に出仕したという由緒をもつ。頭陀寺の近くには引馬城(のちの浜松城)があり、今川時代の松下氏は引馬城主飯尾氏の軍事配下に属す与力の関係(いわゆる寄親寄子の関係)にあったと考えられている。

 桶狭間の戦いの後、遠江の国衆らが今川から離反して徳川に味方しようとする(「遠州忩劇」)。飯尾氏もこのような動きを見せたため、永禄6年(1563)12月、今川の軍勢が引馬城を攻めるが、このとき飯尾氏は頭陀寺城に籠城しており、松下氏も飯尾氏と同調して戦っていたことがわかる。この戦いは一旦和睦するが、永禄8年に飯尾連龍(飯尾氏当主)が今川によって討たれ、飯尾氏周辺は混乱する。この混乱は、永禄11年12月に家康が遠江に進出し、まもなく平定したことでおおよそ収束する。家康は遠江の国衆を次々と味方につけて勢力をひろげ、浜松城を新たな居城とした。

 家康の遠江進出への松下氏の対応をみておこう。永禄12年1月段階では、清景の弟清綱が今川の配下にあって徳川を迎え討つ軍勢として出陣していた。ところが、永禄12年4月には「松下源五郎」に宛てて家康から本領安堵状が出されており、この時までに松下氏も家康配下に入ったことがわかる。

 松下氏の名字の地は、三河国碧海郡松下郷(愛知県豊田市)と遠江国山名郡浅羽庄松下(静岡県袋井市)の二つの説がある。このうち、清景の父である連昌の菩提寺(昌福寺)は後者にあるので、少なくとも遠江の松下と関係があったのは間違いない。
 松下氏の一族で有名なのは松下加兵衛之綱である。若き日の豊臣秀吉が一時期寄寓していたという伝承がある。年齢的に見て、その人物は之綱ではなく一世代前と考えられるが、之綱が秀吉から取り立てられて大名にまで出世していることから、関わりがあったのは間違いないだろう。


 今川配下時代の松下氏と井伊氏との関係について、江戸時代の松下家で作成された由緒書では次のように記されている。
 彦根藩士の履歴史料「侍中由緒帳」(松下十太家)に、連昌は井伊直盛の配下で各合戦に出陣し、清景は直盛・直親(直政の父)・直政に仕えたと記す。この記述に依れば、松下連昌・清景父子は今川時代に井伊氏の軍事配下にあったと読み取れる。
 しかし実際には、松下氏がもっとも深いつながりを持っていたのは飯尾氏であった。連昌・清景が松下氏の中核人物であれば、井伊氏よりも飯尾氏との関係の方が深いはずであるが、「侍中由緒帳」にはそのような記載はない。ただ、「侍中由緒帳」は主君井伊氏との関係に特化して叙述したという特質があるため、飯尾氏との関係には触れていないこともあり得る。その場合、井伊氏とのつながりは飯尾氏が滅亡した永禄8年以降に強まったと考えられる。飯尾氏の滅亡後に井伊氏の軍事配下に入ったと考えれば、前回みたとおり、永禄11年段階で松下氏が井伊氏の「七人衆」であったこととも齟齬しない。
 あくまでも仮定の上での推測であるが、一つの可能性として示しておきたい。

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頭陀寺の松下屋敷

直政を養子とする

 松下清景に直政の母が再嫁し、直政が清景の養子となった。これまで、母の再婚先に直政が伴われたという印象で語られているが、実際は逆ではないかと考える。それは、当時の領主階層では縁組は政治的なつながりのために行われるのが通常であり、この婚姻も政治的な理由が想定できるからである。この婚姻の目的は、直政を松下家に預けて養育することに主眼が置かれたものではなかっただろうか。直政が清景のもとに入った時期について、「侍中由緒帳」では清景が家康に仕官した後とする(但し年代は永禄11年。この年は家康が遠江に進出した年である)。井伊谷周辺が徳川配下に入った後、「七人衆」ら井伊氏関係者が相談し、直政が成人した暁には井伊氏当主にすえる方針を決定して、清景に養育を任せたのではないだろうか。その際、直政が井伊氏の跡継ぎであることが明らかとなればその身が危ないのでそのことは隠し、妻の連れ子として松下家に入れたと考えられる。当時、家康が遠江を手中に収め浜松城を居城としても、武田氏との争いは続いていた。井伊谷周辺はその境界に位置し、争いに巻き込まれている。それに対して頭陀寺は浜松に近く、比較的安全だった。もし、武田方に井伊氏跡継ぎの存在が知られ、その身柄が武田方に奪われると、人質として政治的駆け引きに使われると予想される。そこで、井伊氏の跡継ぎと知られず匿いつつ武家としての教育を受けさせようとして、清景の養子として松下家に入れたのではないだろうか。

 なお、「井伊家伝記」では天正2年(1574)12月、それまで三河鳳来寺に入っていた直政が父直親の13回忌のため龍潭寺にやってきたところ、龍潭寺南渓和尚が井伊氏の女性たちと相談して、家康へ出仕させようとして鳳来寺には戻さず松下氏へ忍ばせたとする。しかし、「井伊家伝記」の史料的性格を考えると、その文章中には井伊家が存続できたのは龍潭寺南渓和尚の功績であるという主張がちりばめられており、そのような叙述の部分は信憑性が低いと考える。直政が一時的に寺院へかくまわれたことがある可能性は否定できないが、少なくとも直政の母が再嫁して以降は直政は清景の庇護下にあったことだろう。

 直政が徳川に出仕した後も、清景はその傍らで支え続けた。
 直政配下で清景の活躍が確認できるものとして、天正13年(1585)の信州上田城攻めがある。同年、家康は上田城真田昌幸上野国沼田の領有をめぐって対立したため、配下の軍勢を上田城へ向けた。井伊隊にも出陣命令が下り、木俣守勝と松下が陣代として井伊隊の同心衆を率いて出兵した。
 この後も生涯にわたり直政に付き従い、慶長2年(1597)、直政の居城である上野国箕輪で死去した。

その後の松下氏

 清景の跡を継承したのは養子の一定で、その実父は井伊氏一族の中野直之である。天正18年(1590)の小田原の陣で父清景とともに出陣し、その後の直政の出陣にも従ったという。慶長7年(1602)の知行は2000石、彦根築城の際には普請惣奉行を務めた。
 元和元年(1615)、井伊家が直継・直孝の2系統に分割されると、一定は安中藩3万石を領した直継に家老として従った。当初、鈴
木重辰に次ぐ1500石の知行を得たが、のちに鈴木は井伊家から離れたため、筆頭家老となる。

 清景の系統は、江戸時代を通じて安中藩(数度の転封を経て最終的に越後与板藩)の筆頭家老として藩主井伊家を支え続けた。

 松下家は直政にとって養父と実母の家であり、井伊家の親戚としての扱いも受けている。直政は松下家へ歳暮・暑中など時候の品を届けており、時代が下ってもそ
の由緒が継承されて、貞享年中には白銀五枚、彦根の鮒鮨、佐野(栃木県、彦根藩飛び地)の松茸、参勤祝儀では高宮布が贈られたという。
 また、清景・一定以来の由緒により、松下家当主は毎年正月に江戸城に登り、将軍に対面している。一月三日の本丸白書院での対面儀礼で、旗本らの次に他の譜代重臣と一同で将軍の面前に出て御礼を申し上げ、太刀目録を献上した。このとき一緒に対面したのは榊原氏、奥平氏らの家老に限られていた。なお、彦根藩の家老はこのような由緒は持っていない。彼らが江戸城に登って将軍に対面するのは彦根藩主の代替わり御礼の時のみであった。
 
参考文献
野田浩子『井伊直政 家康筆頭家臣への軌跡』(戎光祥出版、2017年)
浜松市博物館展示図録『徳川家康 天下取りへの道 ―家康と遠江の国衆―』(2015年)
 
 典拠史料
寛政重修諸家譜
「松下家遺書」(東京大学史料編纂所蔵)
彦根藩史料叢書 侍中由緒帳』3(彦根市教育委員会、1996年)
『新修彦根市史』6巻(彦根市、2002年)