彦根歴史研究の部屋

彦根や井伊家の歴史について、これまで発表してきた私見の紹介・補足説明・修正など。

朝鮮通信使と鳥居本宿

 先日、中山道鳥居本宿(彦根市鳥居本町)で開催された「とりいもと宿場まつり」の催しの1つとして、「朝鮮通信使鳥居本宿」というテーマで講演をしてきました。そこでは、通信使の通行と鳥居本宿との関わりについて紹介しました。
もちろん、先日刊行した『朝鮮通信使彦根 記録に残る井伊家のおもてなし』(サンライズ出版)で著した内容がベースになっていますが、それ以外に、宿泊・休憩をしていない街道上の宿場町であっても通信使の来日に対して独自の関わりがあったことを述べました。その概要を紹介します。

 

まず、鳥居本宿の人馬も通信使一行の輸送体制に組み込まれた点について。
宿場の主な機能に伝馬継立がある。宿場に人足と馬を常備しておき、隣の宿場まで輸送する仕事である。鳥居本宿のある中山道江戸幕府の道中奉行が管轄する街道であり、鳥居本宿にも伝馬継立を差配する問屋場が置かれ、人足と馬を50人・50疋常備することになっていた。通常は、宿駅ごとの伝馬継立によって輸送され、鳥居本からは中山道の高宮宿・番場宿と、彦根城下町に置かれた彦根宿、北国街道の米原の4か所へ継ぎ立てすることとなっており、幕府から公定駄賃も定められていた。

ところが、朝鮮通信使の通行時はこのような通常の輸送では行なわれなかった。通信使の輸送は規模が大きく、大量の人馬を必要とするため臨時体制がとられたのである。年代によって詳細は異なるが、1日分もしくは数日分の区間ごとの輸送がその地域の大名らに命じられた。それらのうち、彦根を出発して1日分の区間は、通常、彦根藩が輸送した。往路は彦根から大垣、復路は彦根から守山の区間である。この輸送には鳥居本の人馬も動員されたと考えられる。それは、彦根宿は日常的には伝馬継立の仕事はしなかったが、朝鮮通信使など臨時に輸送する際には彦根藩領内4宿(番場・鳥居本・高宮・愛知川)より人馬を呼び寄せるという定めがあったことからわかる。使節が通行する当日はもちろん、事前準備にやってきた幕府役人らが彦根宿から出発する輸送の一部を鳥居本宿の人馬が担ったと考えられる。

 

次に、通信使が通った街道の整備について。
彦根藩は、藩領内の通信使通行ルート上の整備を行なった。その1つに高札場の改修がある。高札は風雨に晒されて年月を経ると文字が読みづらくなっていくが、通信使の通行に際して、文字が読みづらいものは板を削るか文字を書き直すといった修繕が施された。また、街道の入り口に築かれた竹矢来も整備された。

彦根藩領内の街道の整備の実態として、次のような記録が残る。
第5回(寛永20年)の復路で、随行した対馬藩宗氏から幕府老中へ進行状況報告を伝えた書状に、「今須から彦根への道中で掃除人も付け置いており、道中の道には砂を置き、彦根町中の人が通る筋ではない所まで掃除が行き届いていた。見物人の作法も行儀よく、辻での警固もしており、格別の馳走であった。」と記されている。
この道中に鳥居本も含まれる。鳥居本宿内も掃除が行き届き、街道の両側で人々が通信使の行列を見物したことであろう。


鳥居本宿の人々にとって朝鮮通信使は、人馬の御用を負担し、宿場周辺の整備を指示され、相応の負担も課せられたものであったが、朝鮮人御用に関わる負担は全国に及んでいることであり、鳥居本に特有のものではない。その一方で通信使が目の前を通行し、行列を間近に見ることのできるのは限られた地域である。鳥居本は数少ない通信使の行列が目の前で見物できる「特等席」であったといえる。
 

 

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